初夏
毎日ではないが、ナディアにマッサージしてもらうという新習慣ができてから、体の調子はすこぶるよい。あれから一か月ほどになるが、もう最近では夜の腰痛とはご無沙汰である。もう二度と会いたくない。
と言っても、老化であるなら時間の問題ではあるが、年を取ったからと言って腰に必ず来るとも限らない。ちゃんとこうしてケアをしてもらえれば、健康寿命ものびるのだ。それはナディアの介護する大変さの軽減にもなるので、これはよい傾向だろう。
「ナディア、今度のお休みはちょっと遠出してみない?」
ナディアと出会って二か月ほど。お休みの日もこれで4度目だ。休日を一緒に過ごすことにもなれてきた。
本当はべったりではナディアの気晴らしにならないかな? と心配な気持ちもあったのだが、読書とかの趣味は夜とか空き時間にしているし、マスターが付き合ってくれないならお休みの意味って何なんですか、などと言われてはしょうがない。
ヴァイオレットとしても嬉しくてしょうがない申し出なので、喜んでお出かけの予定をたてている。
「遠出ですか。いいですね。どこですか?」
「そろそろ暑くなってきたし、湖はどうかと思って」
「はぁ。いいですね!」
言ってから、そういえばエルフにとって暑さ寒さはあまり気にならないのだったと思い出したけど、あいまいな相槌のわりに全力でのっかってくれた。
どうせ季節ネタなのだから、実際の不快指数など関係ない。このまま押し通すことにする。
実際、ヴァイオレットにとっても、この国は四季があり冬は冷えるが、夏はそれほどでもない、と言う印象だ。暑さ対策の魔法具は、食材の保冷のためのものくらいしか一般化していないのもその証左だ。
だがそれでも汗ばむのは事実だ。冷たい湖に足でもつければどれほど気持ちいいだろう。
最初のピクニック以降は町中でのお出かけをしてきたのもある。そろそろいい頃合いだろう。
「湖はどこにあるんですか?」
「町中にかぎるなら、南西側の城壁ぎりぎりのあたりに大きいのが一つと、街をでてなら、北東にすこし行ったところに、こじんまりとした湖があるんだ」
「なるほど。どちらに?」
「ナディアの希望にもよるけど、外の方が距離は近いし、人も少ないからゆっくりできるかな。もちろん、野生動物とかもいるから、危ないって言うなら中でもいいんだけど」
どうかな? と尋ねると、ナディアはにっと笑ってこう言った。
「そこって、漁はできます?」
思っていたより、ワイルドなお出かけになりそうだった。
○
街の中にある湖は、大きくたくさんの魚が住んでいる。そこにつながる川もあわせて、漁業をしようと思えば国の許可が必要になるし、許可をもった人々でつくられた組合を通して売るのが一般的だ。個人的に数匹とる程度なら許可をもらう必要はないが、売買は禁止だ。
しかしそれもあくまで、街の中でのことだ。なので街の外で漁業をするのは自由だ。しかしそれを街に持ち込んでも、組合員でない人間が売ろうとしても割安になってしまうし、わざわざ危ない外にでて、それを持ち運ぶ手間を考えれば、それほど儲からない。他所の村などで日持ちするよう加工したものを街に持ち込むのは漁業ではなく、食品商品の一環になるので、また違う扱いになるが、生きた鮮魚は個人が漁をしても儲からないのだ。
しかし生活の糧にするならともかく、片手間でする程度なら、儲けは二の次だと言ってもいいだろう。
なので漁ができるのか、の問いかけに対する返事は、できる。だ。
「あ、あったあった。これだよ」
「マスターのお家って、なんでもあるんですね」
倉庫にしている地下室の一室から漁に使う投網がでてきたことで、ナディアは自分が漁を提案したくせに呆れたような目になった。
確かに、個人が所有していて当然のものではないけども。
「私が言った漁と言うのは、釣りのことですよ」
「釣り竿はないね」
「……いや、まぁ、適当に枝をつかって釣り竿作れますし、いいんですけど、なんでなんですか?」
網があって釣り竿がないのはそんなに不思議なのか。そんなことを聞かれても、ヴァイオレットとしては答えは一つしかない。
「釣りって、別に好きじゃないし。ナディアは好きなの?」
「好きとか嫌いとかは、考えたことありませんね。狩りの一種ですから。久しぶりだからか妙にやる気がわいてくるので、もしかすると好きなのかもしれません」
ナディアが目を輝かせながらそう言うけど、見ていると釣りが好きと言うより、狩猟民族の血が騒ぐぜ、みたいに聞こえた。
「釣り具をその場で作れるのはすごいけど、とりあえず、使わないのももったいないし、これも持って行こうか」
「そうですね。使ったことないので、教えてくださいね」
はい、可愛い。さっきのあの白けた目を覚えているのに、教えてと笑顔で言われたらなんでも教えちゃう。反則だ。
出かけるのは週末、つまり二日後になるのだが、距離があるから早めにでたいし、多少荷物も必要だ。なのでこうして事前に用意しているのだ。
念のため、着替えとタオルも入れて、と。
「あ、ナディア、靴はどうする? 森を歩くし、街歩き用のだとつらいよね」
「それなら、元々はいてきた靴で大丈夫ですよ」
最初にはいてきた靴は、さすがに汚れていたので洗っていたのは知っているが、それからヴァイオレットが買った靴ばかりはいて、あまりはいていないようだったので、さすがにすり減っていたのかな? と思っていたのだが、まだ実用に耐えうるのか。
砂漠から超えてきたのに、頑丈過ぎない? と思いながら二人で靴箱に移動して確認してみる。ナディアが無造作に持ち上げる。
「!? え、き、木靴なの?」
「はい。湿った地面を歩くには向いているそうですけど、単に森に住んでいるので、一番手に入りやすいからですね」
「え、いや、ちょっと待って。これで砂漠超えてきたの? あ、ていうか裏面に滑り止め加工されてないじゃん」
「はい。そうですけど。そうそう、この街の布靴は歩きやすいですよね。その滑り止め? といい、つま先に力をいれなくても脱げないですし、走ってもかかとや指先にぶつからないですし」
「木靴不便過ぎない? と言うか、痛くないの?」
「別に痛いとかはないですね。なれじゃないですか?」
木靴はこの国では使用されていないが、しかし他の国では存在しているところもある。しかしその国で見た木靴ははきやすいよう内側を加工して、何枚も靴下を重ねて履いたりしていたはずだ。そもそも走ったらぱこぱこ前後にあたるって滑り止めもないとか、いい加減なつくりにもほどがあるだろう。
エルフ、その身体能力をいいことに文化の発展が、みたいな話をしたことがあるが、靴すらか。裸足でなきゃいいじゃんくらいのノリか。
最初こそ感心していたヴァイオレットだが、だんだんその屈強さに怖さを感じるようになってきたので、スルーすることにする。こんなに可愛いナディアが、脳筋のはずがない!
「そうかぁ。でもじゃあ、それなら今使っている布靴の方がいいんじゃないかな? 歩きやすい靴がいいかな、って思っての提案だからさ」
「そういわれたらそうですけど、あれで森に行って大丈夫なんですか? 染みてきません?」
「防水加工されているから、大丈夫だよ」
ただ悪路をいくなら、足首まで覆って固定することでより安定して歩けるようになる靴など、それ用にそう言った種類の靴も販売されているので言ってみただけだ。
すっかり忘れていた最初の靴、しかも独自生産の木靴なんて出してくるとは思わなかった。
「そうなんですか? マスターは靴は?」
「私は雨の日用の靴か、それこそこういうしっかりしたブーツか、どっちかだね。うーん、行った経験だと、ただの雨靴だと微妙かなぁ」
「その時は何を履かれていたんですか?」
靴棚を開いて物色しながら尋ねられたので、ヴァイオレットは一つ、最近履いていなかった奥の靴をいくつか引っ張り出す。
「えーっと、どうだったかなぁ。その記憶があいまいなんだよね」
それがわかっていれば、その靴を選べばいいのだが、なんせ何年も前の話だ。学生の頃なので、はっきり数えるのが億劫になるくらいには前だ。
記憶力は悪くないし、誰と行ってどんなことをしたかなど、その時の記憶自体はあるのだが、身に着けていたものまでは記憶にない。
靴を並べていって、赤い靴紐のついた靴を見て、はっと記憶が呼び起こされた。生き生きした緑の雑草の上に、ぱっと生えて移る赤い紐の記憶だ。思い出した。
そうだ。確か途中で靴紐がほどけたのだ。それでルロイに、靴紐のほどけない結び方を教わったのだった。
「思い出した。この靴だよ。こう言うしっかりしたブーツ持ってなかったから、普通の普段履きで、動きやすい靴で」
「じゃあ、私もそれでいきます」
「即断だねぇ。じゃあ、私もそうしよう」
ナディアが特別に運動をするわけではないが、庭作業を始めたことであった方がいいかな? と言うことで運動用の靴を購入済みだ。
街から出て森歩きをするほどではないが、過去に大丈夫だったのだから、大丈夫だろう。
「じゃあ、明日にでも、綺麗にして干して、履けるようにしておきますね」
「ありがとう、ナディア。お願いね」
ともあれ、これでお出かけの準備はできた。あとは週末を待つばかりである。当日は、釣りだけじゃなくて、水遊びもしようか、お弁当は何にしようか、とわくわくするような会話を重ねながら、日々を過ごした。




