研究室
「ただいまー」
「おかえりなさい、マスター」
城にもよって用事をすませれば、予定通り夕方になってしまった。玄関をくぐり声をかけると、すぐにナディアが顔をだしてくれた。
駆け足気味にダイニングから出てきたナディアは、にこっと微笑みながら目の前まできて出迎えてくれた。
その笑顔に、疲労が溶けていくようだ。胸が温かくなる。ささやかだが間違いのない幸福を噛みしめるヴァイオレットに構わず、ナディアは行きはなかったヴァイオレットの荷物に目を丸くした。両手に鞄をもっているだけでなく、背中にも大きなリュックを持っていることも気が付いたのだ。
「わ、大荷物ですね。手に持ってるのだけでも持ちますよ」
「ありがとう。じゃあ、研究室まで運ぶのを手伝ってくれる?」
「はい、もちろん」
ナディアはヴァイオレットよりも小柄な、いかにも儚げな華奢な少女だけど、腕力はヴァイオレットより強いくらいなので、遠慮なくお願いする。
荷物を渡して、ナディアを先頭に地下に降りて、北側のヴァイオレットの研究室にはいる。一番最初にこの家に来た時に、全室案内したのだけど、研究室は基本的に入室禁止にしているので、ナディアは物珍しいのかきょろきょろしている。
「机の上においてくれる?」
「あ、はい」
ヴァイオレットは部屋の端にリュックを下ろしながらそう指示する。ナディアははっとしたように慌てて荷物を置いた。
「面白いものはないでしょ?」
「いえ、でも、本がいっぱいで、すごいです。道具もたくさんで」
ナディアはきらきらした瞳で言ってくれるけど、それは掃除をしてもらうために入ってもらうヴァイオレットの私室も同じだ。この部屋は実験に使う魔法具や素材、研究秘にあたる書類を置いているので立ち入り禁止としているが、一般的な書籍なら自室に多く置いている。
「魔法書とか学術書とか、興味ある? 私の部屋にあるものなら、好きに読んでもいいよ」
「あー、いえ、それは大丈夫です」
笑顔で断られた。お勉強がしたいわけではないらしい。薄々感づいてはいるけれど、ナディアはあまり勉学に興味がなくやる気もないようだ。とは言え、料理など今までかかわりのなかったことも熱心にしてくれるので、けして不真面目なわけではないが、体を動かしている方が好きそうだ。
見た目はご令嬢として窓辺でゆったりと読書でもしていればとても絵になりそうなので、少し残念な気もするが、無理強いすることもない。むしろ、下手に勉強熱心すぎても困る。知りたいなら教えてもいいが、弟子にするためにナディアを呼んだわけではないのだから。
とは言え、読書自体、ヴァイオレットにとっても趣味であるし、小説等も普通に所持している。ナディアもそれらを全く読まない訳ではない。むしろ、ロマンス小説などは好んでいるようで、倉庫にある書棚にある小説をすすめた時は喜んでいた。
今度、もっとナディアが喜びそうな小説ももっと仕入れておこうかな、と思いながらヴァイオレットは苦笑する。
「そっか。入っちゃダメって言ってるけど、今なら私がいるから、少しはいいよ。何か気になるもの、ある?」
「えっと、これっ、ってわけじゃないんですけど、何というか、マスターがここでお仕事してるんだなって思うと、なんだかドキドキしちゃっただけで。どんなふうにお仕事されてるんですか?」
「うーん、まぁ、色々するけど、一番多いのは机に座っての書類仕事かな。魔法陣の構成を考えたり、実際に書いたり、仕様書や企画書、色々と書くのが多いからね」
「やっぱりそうなんですね。あの、ちょっと座ってもらってもいいですか?」
「え? いいけど……」
小さな子供が、親の職場を見て興奮するのはわからないでもない。だけどナディアの反応は少し変わってるな。とは思ったけど、照れ顔でお願いされて断ることもない。
ヴァイオレットは素直に席についた。ついでに、今回持ち帰った魔石に書き込む魔法陣を改良する予定なので、以前書いた資料を引き出しからだしておく。これで明日はすぐにできる。文鎮替わりに上にインク壺を置いてから振り向く。
「えっと、これでいい?」
「は、はい! えへ、えへへ。マスター、カッコイイですっ」
「え、あ、ありがとう。ふふ。照れるね」
席に座った後姿を見せただけなのに、何故かにこにこ笑顔で褒められた。唐突で意味がわからないけど、だけどとびきり可愛い笑顔で全力で褒められれば嬉しいに決まっている。ヴァイオレットは頬を緩めながら頭をかいて誤魔化しながら立ち上がる。
「荷物、運んでくれてありがとう。忙しいのにごめんね。何してたとこ?」
「あ、そうでした。今ちょうど、夕食の支度を始めたところです」
「そうなんだ。手伝おうか?」
「いえ、今日はお仕事の日ですもん。大丈夫です。今からまたお仕事ですか? できたらすぐ呼んでも大丈夫ですか?」
「もちろん、いつでも大丈夫だよ。あ、でももちろん、急かしているわけじゃないから、自分のペースでおお願いします」
「はい、わかりました。ふふ。私、頑張りますから、楽しみにしててくださいね」
「ん? うん、わかった。楽しみにしておくね」
めちゃくちゃハードルをあげてきた。ヴァイオレットなら、もし新しい料理に挑戦するとして、作る前からそこまでなかなか言えないものだ。
でもそう言う自信たっぷりに言えてしまうところ、無邪気で、凄く可愛いなと思って、ヴァイオレットはついナディアの頭を撫でてしまった。
帰ってきてすぐなので、手を洗うのを忘れていたのに、ナディアは嫌がることなく、はにかんで受けてくれた。
気づいた以上仕方ない、控えめに、後頭部まで撫でるのは遠慮して軽く撫でて終わりにした。
「じゃあ、また後で」
「はい。また」
ナディアを部屋から見送る。同じ家にいて、すぐ会うのに、どうしてか名残惜しく感じてしまった。そして、見送ってから、自分も手を洗う必要があるのでいったん上がってうがいまで済ませた。
ナディアは特に何も言わなかったが、キッチンの隣を通るときは少し気恥ずかしかった。
○
「マスター、お待たせしました。ご飯ですよー」
こんこん、とノックして教えてくれた。研究室には勝手にドアを開けないで、と言っておけばちゃんとこうして丁寧にしてくれるところ、本当に好感をいだく。
ヴァイオレットは肩をまわして大きく伸びをする。
「んんーっ」
何気なくした動きだが、ぐっと背中が押し込まれ、腰がそれて気持ちがいい。以前腰が痛くなってしまった動きだが、ナディアがマッサージをしてくれたからか、非常に具合がいい。機嫌よく立ち上がってドアに向かう。
「お待たせ、ナディア。ありがとう」
「いえ。でも、今何かうめいてました? 大丈夫ですか?」
足でもぶつけられました? と心配された。耳がいいなぁと思いつつ、ヴァイオレットは否定する。
「いや、伸びをしただけだよ。長く座って集中すると、やっぱりかたまってこってくるからね。行こうか」
部屋を出て一緒に歩き出しながら、ナディアは相槌をうった。そして両手を胸の前にあげてわきわきと動かすような動きになる。
「ははぁ。よかったら、今日もマッサージしましょうか? あ、夕食後とか、時間のある時に」
「うーん……すごく嬉しいんだけど、本当にいいの?」
「はい。もちろん。またしてあげるって言いましたよ? マスターがしてほしいなら、毎日してあげます」
ぽん、と両手の前で手をあわせた絶妙に可愛い感じで上目遣いで、健気すぎることを言われた。率直に言ってきゅんとした。なにこの子可愛すぎる。知ってたけど。いい子過ぎる。
もうなんだか、好きっと叫んで抱きしめたいくらいだった。さすがに自重して、ヴァイオレットは後ろ手に手を組んだ。
「うーん、じゃあ、お願いしようかな。」
「はい。いいですよ」
「あ、じゃあ、せっかくだし、お風呂上りにお願いしてもいい?」
「えっ、お、お風呂上りにですか? え、そ、それは、えっと、まだ」
軽い気持ちで続けてお願いしてみたのだけど、ナディアは目を見開いて動揺している。ヴァイオレットは変なことを言ってしまっただろうか、と動揺しながらもできるだけ平静を装う。
「駄目? せっかくならお風呂上がりでほぐれた体のほうがいいのかなって思ったんだけど」
「んんっ。だ、駄目ってことは、ないですけどー。しょ、しょーがないので、いいですけどぉ」
「う、うん。じゃあ、お願いします」
ナディアは異常に瞬きをして視線をそらして、妙に間延びした声で言いながら、一歩先に進んでヴァイオレットに顔を見られないようにした。
あえて並んだりしないけど、なに、その反応は。何故そんなにも動揺しているのか。
お風呂上りに会うことはそんなにないけど、たまにトイレやキッチンでバッティングするくらいはあるし、その時は普通だった。初日は自分から訪ねて来てくれたのだから、お風呂上がりの姿を見せてはいけない、みたいなことないはずだ。
気になるが、本人がいいと言っている以上、変につっこむのもおかしい。変なことを頼んだつもりもない。自分からマッサージを提案してくれたのだから、セクハラと言われることもないはずだ。
「は、はやく、食べましょう。ご飯冷めちゃいますし」
「うん。そうね」
とりあえず夕食をいつも通り食べていると、ナディアも落ち着いてくれたのでスルーすることにする。
夕食はもちろん美味しかったし、この間話したヴァイオレットの好物をつくってくれていたので、べた褒めしておいた。




