零
心の底に巣食うペストは、いつだってそれを困難にさせる。
いや、その存在があるからこそ、そのことを認識できたのであって、それがなければ、そもそも我々はそれを考えることさえなかったのかもしれない。
言い換えてみれば、その死を思わせる病は苦しみだけを与えるのではなく、ある種の幸福を我々に与えているのであって、決して全部が全部まるごと悪いとは言えないということに、彼は遠からず気付いたのである。
・・・‐ ・ ・‐・ ・‐‐ ・‐ ‐・ ‐・・ ・‐・・ ・・‐ ‐・ ‐‐・
魔神が現れた。
「お前の望みを言ってみろ。一つだけ叶えてやる」
事の発端はスタンプカード。いつも贔屓にしている商店街がスタンプラリーを始めたので、もちろん俺はそれに乗っかった。
二〇店中好きな八店をまわって一定額以上の買い物をし、スタンプを八個集めるという単純なものである。『達成すると豪華な景品が!』と説明には書いてあったが、所詮は商店街。世界旅行だとか、液晶テレビだとか、人気ゲーム機だとか、そういう類のものは一切期待していなかった。
していなかった。が、まぁなんだ。これは予想外。まさかの願いを叶える魔神ときたもんだ。さすがのオラもびっくらこいたぜ。というか、まだスタンプ七個目なんですけど……。
え、何? 商店街中に散らばったスタンプを七個集めると願いが叶うって? スケールデカいんだか、小さいんだか分からねぇな。あと、願い三つじゃなくて一つってケチか! それより何よりここどこ?
なんとも形容し難い不思議空間に俺はいる。浮いているのか、地に足をつけているのか、それすら曖昧。感覚は曖昧なのに、意識ははっきりしている。考え事は平常時と寸分違わずしっかりできそうだった。
ちなみに俺が利用した七店目は肉屋である。ここのメンチカツは本当においしい。一つ八〇円と値段も良心的。噛り付いた瞬間、アツアツのメンチカツから肉汁が出てきて、そのあと口に広がる……いや、今そんなことはどうでも良い。
その時に何か不可解な事はあったかな……。そうそう、不快な事ならあった。
接客していたのがいつものおっちゃんではなくバイトで、すべてにおいて手際が悪くイライラ。せっかくのメンチカツもおいしさ半減。
なんであんなの雇ったかな。そもそも、俺は思うんだよね。商店街の良いところは――
「早くしろや!」
魔神が今どきの若者口調で怒鳴る。神にとっても時間は無限ではなく有限ということだ。
うーん……願いか。何を願おう。こういう時の鉄板のお願いは『叶えられる願いの数を増やせ!』だよな。よく『その三つの願いを四つにしてくれ!』っていうのを見るけど、元の三を四にするのに三のうち一使って四にしたら、結局残り三。バカじゃねぇの!
さて、俺はそんなことしない。正々堂々と男の勝負。一つは一つ。一は一。一かける一は一。一欠ける一はゼロ。ん? 掛け算って引き算なの? ってか『レイ』じゃなくて『ゼロ』って言う方が何で浸透しているんですかね?
ちなみに俺のモットーは『プラス一とマイナス一でゼロなら、ゼロとゼロでゼロ』つまり『平坦が一番』ということ。
また、脱線した。仕方ないじゃないか、考えるということは楽しいのだから。
しかし、俺は頭の中ではものすごく考えているというのに、口に出せない。いや、出さない。怖いのかもしれない。自分の考えを晒すということが。相手の話に合わせようとして思考。相手にとってどんな反応が良いのか思考。相手との行き違いが怖い。思考錯誤が怖くて試行錯誤できない。
必要最低限のことだけ話す。そうしているつもり。ほぼ無口で無愛想。無愛想というより無表情。ほとんどいつも真顔らしい。感情の表現の仕方が、今一つ分からないのだ。
友達はいない。できるはずもない。客観的に見て、こんな奴と友達になりたいだなんて思わない。分かっているが、しかし、自分というものはそう簡単に変えられないのだ。生まれ持った性格ならなおさら。
努力すれば変われる。そんなの妄言だ。二十歳で身長一六〇センチのやつが、十年間、牛乳飲み続けたり、早寝早起きしたりして、三十歳までに身長を二メートルにできると思うか? 無理だろう? 第一、そんなことで身長は伸びないし、伸びるにしろ限度ってものがある。つまりは、そういうことだ。この生来的な性格はどうやったって変わらない。不可能なんだ。そんなこと。
いじめられたこともあった。気持ち悪いと散々罵られた。机に死ねだのなんだのと落書きをされた。複数の生徒から暴力を振るわれた。クラスの皆の前で辱めを受け笑い者にされた。だが、そうされても俺は表情を変えない。いや、心に深く傷を負ったのは間違いないのだが、それが表に出ない。次第に周りは本格的に気味悪がり、いじめはなくなった。
俺は人を信じられなくなった。いわゆる人間不信。ただ、全く外部と接触しなくなったわけではない。
なぜなら、そうしてしまうと自分が生活できなくなるからだ。生きていけないから。
それゆえ、俺はいっそう心を閉ざして生きていくことになる。どんな言葉も嘘に聞こえ、どんな行動も悪行に見える。すべての行為は己のため。他人の幸福を望むのも自分のため。
なぜだか、色々とそう考えるうちに気持ちが楽になってきた。割り切った。この世界はこういうものだと。
自分もその一部だと。
俺は人を疑って生きていく。たとえ、恥の多い生涯を送ることになってしまったとしてもだ。
とは言ったが、もう自分にうんざりしていた。生き辛い。だが、先程も述べたようになかなか自分の性格なんて変えられない。
だとしたら、願いは――自分の性格を変える? いや、この性格を変えてしまったら、それは果たして俺なのだろうか。俺ではない誰か。……面倒くさいな、俺。
最近思うのだが、俺は中二病な気がする。ここまで述べてきたこともすべて含めて。
いや、本当にいじめは辛かったし、人を信じられなくもなった。ただ、今思うとアホらしい。考えすぎは良くないな。
中二病は心の病を救う心の病です。
さてさて、難しいぞ。俺は何を望んでいるのだろう。
事が難しいわけではなく、俺が難しく考えすぎているのか? じゃあ、もっと単純に……。
友達が欲しい。仲間が欲しい。そして、愛する人が欲しい。本当の意味でのそれらを手にしたい。結局、俺はどこまでも愚かで滑稽で、どうしようもなく阿呆なのだ。
そのためには……魅力。そうだ、魅力が欲しい。
誰もかもを惹き付ける魅惑の力。
俺は真っ直ぐ魔神の顔を見据える。
……ぶっさいくだなぁ。
「今、失礼なこと考えただろう」
何故分かる。俺の無表情から読み取るとは。神すげぇ。
「願いは決まったか」
この異様な空間に浮かぶ黒い太陽。
いつからそれがそこにあったのか、いや、本当にそこにあるのかすら分からない。
曖昧な境界線上で黒く光る太陽の眩しさに当てられた俺の意識は灰色に霞んでいった。