悲劇の恋人達
最低限の灯りが灯された子供部屋の中には二人の人物がいました。ベッドに半身を埋めた少年が傍にある椅子に腰掛けた青年に、寝る前の御話をせがみます。
最早日課となった行為に青年は、膝に乗せた本に手を乗せ、静かに微笑みました。
『いつものお話ですか? いいですよ』
『今日はどんなお話をしてくれるの?』
『……そうですね。今日はある罪人と彼が愛した少女のお話です。それではシャリア様、始めましょうか』
『うん!』
『では、昔々……』
昔々ある所に深き森に罪人が住んでいました。海のように青い髪と瞳を持つ青年は俗世に係わることなく、ただ一人、動物と自然と共に住んでいました。
それもそのはず、青年は罪を犯したのです。許されざる罪を。命があっただけでも僥倖と言えるでしょう。決して犯してはならぬ罪、それは自らを産み落とした二人の人間を殺したこと。
彼の家庭はとても裕福とは言えませんでしたが、親二人、子一人、三人だけ暮らしていけるには十分でした。 ですが青年の両親は幼い彼を愛してはいませんでした。
父は毎日、浴びるように酒を飲み、女を侍らせる。暴力を振るうこともめずらしくはありません。母はそんな夫に愛想をつかし、愛人を作って殆ど家に戻ることもなく、金に困った両親は幼かった青年を娼館へと売り飛ばしたのです。
女の、時には男の慰みものとなりながらも青年は耐え続けました。心を閉ざし、現実から眼を背けることで。
ですが、それから数年経ったある時のこと、彼は偶然、街中で父の姿を目にしてしまいます。いつものように酒を片手に彼は売り飛ばした息子についてこう言いました。
『息子? とうの昔に売ってやったさ。役に立たないやつだったが、見目だけは良くてな、最後だけでも俺の役に立ったことを感謝して欲しいくらいだ』
父は、いえ、青年の父であった男は悪びれる様子もなく、そう言って笑っていました。青年の頭の中で何かが切れる音がしました。
硝子が砕ける音に似た何か。今まで眠っていた憎しみが膨れ上がって行くのを感じます。青年は目の前をひらひらと飛んでいた蝶を右手で包みこむと、そのまま握り潰しました。
青年の顔に浮かぶのは残忍な笑み。薄い唇はまるで三日月のように歪められていました。
『許さない、許さない……許さない!!』
青年は醜い感情を隠すように顔を左手で覆い隠しました。
それでも後戻りは出来ません。もう、賽は投げられてしまったのです。握られていた右手を開いた時、つい先程まで蝶であったものの羽がひらり、と地面に落ちました。
そのまま雑踏に紛れ、かつて蝶であったものは踏み潰されて行きます。そう、弱きものはこうして踏み潰されていくのです。
日が暮れ、夜の帳が下りた時、青年はかつての我が家にいました。手には抜き身の剣を提げたまま。しかし簡単に人の命を奪う刃物を携えていても、青年の心はまるで処刑台に向かう殉教者のように穏やかでした。
青年がまず最初にした事は家の中にいた父を殺すことです。いつものように酒に溺れる姿を見て、彼は最早何の感情も抱きませんでした。
憎いとさえ、彼の空虚な心は感じなかったのです。
『ひぃ……! や、止めてくれ!!』
必死に逃げ惑い、遂には壁に追い詰められた男を青年は冷たい瞳で見下ろしました。最後には醜く命乞いを始めるかつての父に青年は躊躇いなく剣を振り下ろします。
肉が裂け、骨が砕けても青年は止めようとしませんでした。男が物言わぬ、ただの肉塊と成り果てても。青年は笑っていました。幼い頃、あんなにも恐ろしかった存在が簡単に死んだのですから。
それなのに彼は狂ったように笑うと同時に涙を流していました。
何故涙が出るのか、それは彼にも分かりません。何故なら彼の心はとうに壊れていたのですから。
いつしか青年は返り血で真っ赤に染まっていました。鮮やかな髪も白い肌も着ていた服でさえ、元の色すら判別出来ないほどに。
青年は男を殺した後、母であった女が帰ってくるのを待っていました。三十分経っても、一時間経っても女は帰ってきませんでした。
しかし今まで彼が耐えてきた時間に比べればなんてことありません。結局、彼女が帰って来たのは夜も明け始めた明朝のことです。
女は帰宅した瞬間、家の中に充満する生臭い匂いに気付きました。恐る恐る足を進めればそこにはかつて夫であった男の無残な骸と乾ききって黒くなった剣を携え、自身もまたどす黒く染まった青年でした。
恐怖のあまり女は青年を息子だとは気が付きません。
青年は硬直している女を本能のまま、斬り殺しました。頭を割り、腹を裂き、原形を留めないほど無茶苦茶に。そして目的を失った青年は兵士が家に駆けつけるまで立ち尽くしていました。両親であった死体と共に。
決して犯してはならない親殺しをしてしまった青年は本来なら死を待つ身でした。
しかし彼と両親の関係を、彼らが青年にした事を知った王は大層彼に同情し、二度と人の世に現れない事とただ一人孤独に生きる事を条件に、人の寄り付かない森の奥深くで生きることを許しました。
それもそのはず、王の父も彼の兄もまた最低な人間でした。我が子を駒にすることも厭わない冷血で矮小な。きっと両親に疎まれた青年と自分を重ね合わせたのでしょう。
ですがその約束は一年も経たぬ内に破られることになります。森を訪れた一人の客によって。
復讐を果たし、生きる意味を失った青年は森の奥で静かに暮らしていました。
もう彼を悩ます人間もありません。自然と動物だけを友人に彼は孤独に、心にぽっかり空いた穴を抱えながら。
誰も訪れるはずのない青年の小屋に客が訪れたのは彼が慎ましい昼食を終えた時でした。
目の前に立っていたのはまだ二十歳には届かない少女です。太陽の光を集めたように眩しい長い金色の髪とラズベリーと同じ色をした宝石のような瞳。
森を歩くには明らかに不似合いな淡い薔薇色のドレスに大粒のルビーがあしらわれた耳飾り。正に良家のお嬢様と言った出で立ちです。
青年の姿を見つけた少女はまるで花が咲くような柔らかな微笑を青年に向けました。一度として向けられたことのない感情。自分の手で殺した両親も娼館で出会った女たちでさえ見せなかった純粋な表情。
『ああ、よかった。私、困っていたんです。散歩に来たつもりが迷ってしまって。あの……貴方はお一人で住んでらっしゃるのですか?』
『まあ、そうだけど……君は?』
少女は『 』と名乗りました。青年もまた何となくつられて挨拶します。ただそれだけなのに少女は嬉しそうに笑ったのです。彼女は自分を親殺しの罪人とは知らないのでしょう。
当たり前です。民たちの混乱を避けるために自分は死んだ事になっているのですから。
それから二人は取り留めのない事を話しました。自分のこと、彼女のこと。
ただ親殺しと娼館にいたことは勿論、隠していました。それはこんな純粋な彼女に聞かせて良い事ではないからです。
結局、お茶までご馳走した青年はまた会うことを約束して彼女を森の入り口近くまで送り届けました。
少女を見送った後、青年は気付きました。彼女との短い時間は、今までの悲惨な人生の中で一番心が安らいだという事実に。
それから数日後、少女は約束通りに青年の元を訪れました。彼女が作ったというお菓子の入ったバスケットを携えて。
その次の週も、そのまた次の週も少女は青年の家に通い続けました。ただ取り留めのない話をし、二人でお茶を飲む。それだけで青年の心は満たされていました。それが続くうち、やがて二人は心を通わせるようになりました。
それでも青年は彼女に全てを話すことは出来ませんでした。
いえ、愛しいという心を知ってしまったが故に青年は言えなかったのです。彼女に拒絶されれば彼は生きていけません。彼女の笑顔を失うのが何よりも怖かったのです。
これが失うことの恐怖だと、彼は初めて知りました。空虚な心を満たしてくれた、壊れた心を繋ぎ合わせてくれた彼女に、彼がしてあげられることなどあるのでしょうか。
ですが幸せな時はいつまでも続きませんでした。いつものように夕食の準備をしていた青年の前に武器を携えた兵士たちがやって来たのです。
兵士たちは言いました。青年が我が王との約束を破り、聖女をたぶらかしたと。
そう言われても青年は聖女など知りません。そのむねを兵士に伝えると彼らは嘲りの笑みを浮かべこう言い放ちました。
『この期に及んでもまだとぼけるか。お前の元に通っていたあの少女のことだ』
その言葉に青年はひどく驚きました。まさか彼女が聖女なる存在だとは気付いていなかったのです。それもそのはず。彼女は青年が俗世から離れていた間に、この国にやって来たのです。驚く青年を余所に兵士たちは青年に武器を突き付けました。
彼に抵抗するつもりなどまったくありません。元から死んでいるようなものだったからです。……最後に心残りがあるとすれば彼女の笑顔をもう一度だけ見たかった。
次の瞬間、無防備に眼を閉じた青年の耳に届いたのは信じられない声でした。
『待って! 彼を傷付けないで。この人は何も悪くないの!!』
目を開ければ、夕暮れを背に立っていたのは青年が愛する少女でした。彼が好きな金色の髪は夕焼けに照らされてとても綺麗です。
『何をおっしゃるのです、聖女様! この男は親殺しの罪人なのですよ!? 貴女様は早く陛下の元にお帰り下さい。きっと我が王も心配されております』
『嫌です! この人は私が愛し、私を愛してくれる人です!! お願い、止めて……』
宝石のような瞳に涙をためて少女は懇願します。ですが兵士は首を縦には振りません。いかなる理由があろうとも王の命に逆らうことは出来ないからです。
これ以上は無駄だと兵士たちは再び武器を構えます。少女の懇願も虚しく、矢は青年に向けて放たれました。 矢が貫いたのは青年ではありません。聖女と呼ばれた少女でした。彼女は咄嗟に青年を庇ったのです。崩れ落ちる細い体を青年は慌てて受け止めました。
『良……かった。……貴方が無事で』
兵士たちは動きません。いえ、動くことが出来ません。少女の胸を貫いた矢は無情にも彼女の命を奪って行きます。知らず知らずの内に、彼女が好きだと言ってくれた青年の瞳から涙が流れ落ち、少女の頬を濡らしました。
『泣か……ないで』
『愛してる。誰よりも愛してる……お願いだから、僕をおいて……逝かないで』
嗚咽を堪えながら青年は少女が差し出した手を握ります。
ごめんなさい、と謝罪の言葉を残して少女は目を閉じます。彼女の瞳が青年を写すことも、彼女が青年の名を呼ぶことも二度とありません。
『嫌ダ……嫌ダ、嫌ダ、嫌ダ!!』
その瞬間、青年の中に僅かに残っていた何かががらがらと音を立てて崩れ落ちました。彼は慈しむように少女に口づけると静かに彼女の体を横たえます。
次に顔を上げた彼はもう、彼女の愛した青年ではありません。彼は少女と共に死んだのです。青年は不気味な笑みを湛え、兵士たちに近付いて行きました。
まず始めに一番近くにいた兵士の首を捩曲げて絶命させると剣を二本奪い、一本を弓を構えた兵士に向けて投擲しました。
投げられた剣は兵士の脳天を穿ち、鮮やかな血の花を咲かせます。雄叫びを上げて斬り掛かって来る兵士を難無く躱し、兵士の首に向けて思いきり剣を叩き付けました。ゴキ、と鈍い音を残して兵士はあっけなく崩れ落ちます。
『ば、化け物め!!』
恐怖に駆られ、背を向けて逃げ惑う兵士たちにも青年は容赦しません。彼は一人残らず斬り殺しました。凄まじい運動能力は既に人のものではありません。もはや人ではなく、魔物へと身を堕としてしまったのでしょう。
全てを終わらせた青年は愛する少女の元に向かいます。安らかな表情を浮かべる彼女を抱き上げました。嫌でも感触が伝わって来ます。
彼女は酷く軽く、そして体はいつ目を開けてもおかしくないほど、暖かかったのです。
ですが彼女が自分を見てくれる事は二度とありません。
青年は少女を家の中に横たえると、彼女との思い出の詰まった家に火を放ちました。この家を彼女と自分の墓標にするためです。
彼をつき動かすのは殺意だけ。夕暮れに染まった空と燃え上がる家に背を向けて青年は歩き始めました。……憎き王を殺すために。
おしまい。
『……それで、その人はどうなったの?』
純粋な好奇心から少年は青年を見上げました。子供は純粋でありながら時に残酷です。青年はしばらく考えた後、笑みを深くしました。
『そうですね……彼はきっと復讐を果たしたのでしょうね。ですが、青年の話はまた別の機会に。明日のお話は今宵のものより、もっと心躍りましょう。さあ、もうお休みの時間ですよ』
少女を愛した青年がどうなったのか、それを知るのは物語りの語り手たる青年だけです。
私が滅多に書かない(と言うか苦手だし、あんまり好きでもない)バットエンド?死ネタに挑戦してみました。デキは……まあ、お察しです。
最初と最後に出て来た少年と青年は皆様もお察しの通り、千夜一夜物語、つまりはアラビアンナイトの王とシェヘラザードをモチーフにしています。ただしこちらは少年と青年ですが。
ちなみ青年が最後に言った台詞もシェヘラザードのものです。と言うか全然心躍る話でもないと言う……!
この話はこれで終わりですが、一応次は本編にさわりだけ出た王様の話になるかと思います。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました!