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エヴァは手にした鷲ペンを振って不安そうな顔になった。
「書いて欲しいのは手紙じゃないんですか?」
難しい契約書なんかだったらお父さんじゃないと分からない。
男はゆっくりと確かめるように言った。
「おまえの仕事って……」
「父はティアベの代書人なんです。私は見習いって言うか、お父さんの仕事を時々手伝っていて」
男が出し抜けに大声で笑い出したので、エヴァはギョッとして後退った。
何で笑うの?
もしかしてこの人、ちょっと頭がおかしいのかしら?
男は椅子の背に反っくり返り、小屋の低い天井を見上げ吼えるような声で笑い続けている。
薄暗く狭い場所に知らない男と二人きりなのに気付き、エヴァは急に恐ろしくなった。
どうしよう?
こんな大きな男なら私なんて一捻りだろう。
何故か幼い頃に母に聞かされた御伽噺を思い出してしまう。
子供を頭から食べてしまう人食い鬼の話や、寒い冬の夜に人を噛み殺す狼男の話を。
仕事は諦めてさっさと帰った方が良さそうだ。
この人を刺激しないようにして、早く外に出なくちゃ。
慌てて商売道具を籠に戻すと、ランプを吹き消し、小屋の戸を開けた。
エヴァの後に続いて、やっと笑い止んだ男も出てきた。
そして、愉快そうな顔をして、怯えているエヴァに言った。
「どうやら、とんだ勘違いをしていたようだ。貴方のお父さんの家に案内して欲しい。手紙も書いてもらいたいし、お父さんに話がある」
急に丁寧な口調になった男を見上げて、エヴァはホッとした。
気が狂っている訳ではなさそうだ。
どんな勘違いだったのか知らないけど、仕事はちゃんともらえるようだわ。
手が悴んだエヴァに代わって小屋の鍵を閉めながら男が言った。
「俺はアルテュス・ド・タレンフォレスト、あの帆船の船長だ。数日前に嵐に遭遇したお陰であの有様だ」
「船長さんですか。でもあれ軍艦じゃないですよね?」
「ああ、あれは私掠船だ」
アルテュスの言葉にエヴァは目を輝かす。
「じゃあ、新世界に行かれたことがあるのですか?」
その様子に男は笑った。
「いや、俺の縄張りはラテディム海とその近辺だ。ラテディム海に獲物がいなくなったので、最近タルへブ海峡から西に出てきたのだが」
エヴァはとても興味を引かれたようで、男が今まで行った国や、海の上の生活のことを色々と尋ねてきた。
アルテュスがエヴァの質問に答えているうちに二人は宿駅に着いた。
アルテュスは扉の前で立ち止まり少女を見下ろして尋ねた。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな」
少女はにっこりした。
「エヴァです。父は代書人のゴンヴァルと呼ばれています」
エヴァだと?
アルテュスは苦笑いをした。
では我が花嫁は禁断の果実を男に勧め、原罪を犯した女と言う訳か。
アルテュスは宿駅の扉を開くと、エヴァに中に入るように促した。
「ちょっとここで待っていてくれないか? 部下にこれから貴方の家に行くことを伝えてくる」
二人が一緒に入ってくるのを見ていた船乗り達は、肘で小突き合って歯をむき出してニヤニヤしていた。
アルテュスは腹が立ったが、エヴァの見ている前で彼らに怒鳴り散らすこともできず、硬い口調で代書人の家に行くこと、帰りは多分遅くなることを告げた。
扉の方に戻ろうとしたアルテュスに、こんな場所でも相棒のしゃもじを放さない『悪酔いブイヨン』が呼びかけた。
「ちょいと待った、船長!」
『悪酔いブイヨン』に耳打ちされた台所の小僧が素早くテーブルの上に立ち、水夫の差し出したナイフで梁から吊り下がっている大きなハムの紐を切った。
小僧からハムを片手で受け取った料理人は、いきなりそれを船長に向かって投げつけた。
どっしりとしたハムを危ういところで受け止めたアルテュスは怒鳴った。
「おい、これは何だ!!」
「婚約祝いです!!!」
満面の笑顔を浮かべた船乗り達が一斉に答える。
「花嫁さんによろしく!!!」
アルテュスは顔を顰め、不思議そうな顔をしているエヴァの所に戻って来た。
「酔っ払いの戯言に付き合ってはいられない。行こう」
外は既に真っ暗だった。
雪の積もった地面だけがぼんやりと白く浮き上がって見える。
布巾で包んだハムを肩に背負い、片手にカンテラを持ったアルテュスは雪の道をエヴァと一緒に歩いて行く。
少女は男の歩調に合わせようと一生懸命だ。
だが、背の低いエヴァでは大男と同じ速度で歩ける訳もなく、木靴を雪に取られ転びそうになった。
エヴァが立ち止まって膝についた雪を掃い息を継いでいると、先に進んでいたアルテュスが振り返った。
「どうした? 足が痛いのか?」
「大丈夫です」
エヴァの所に戻って来たアルテュスは、頬を火照らせ息を弾ませている少女を見下ろして言った。
「早く歩き過ぎたな。その籠を寄こしなさい。貴方がカンテラを持って前に行ったらいい」
エヴァはホッとした顔をする。
「ありがとうございます」
ゆらゆらと揺れるカンテラで道を照らしながら、エヴァは思った。
ぶっきらぼうで怖い顔しているけど、悪い人じゃなさそうね。
後ろで男の長靴が雪を軋ませる音が聞こえる。
木々に遮られ既に港の明かりは見えない。
港町から帰る時、この場所は人家も少なく、エヴァは暗くなってからここを通るのが少しばかり怖かった。
だけど、今日は安心して歩けるわ。
この大きな船長さんを襲う命知らずな人などいないだろうから。
お客を連れて帰ったら、この一週間仕事がなかったお父さんは喜ぶだろう。
両脇に古びた建物の並んだ細い道を進んでいた二人は、ある小さな家の前で立ち止まった。
少女は玄関の扉を開くと、アルテュスの方を向いて言った。
「どうぞ!」
そして、アルテュスの後から家に入りながら呼びかける。
「お父さん、今帰りました」
答えはない。
「眠ってしまったのかしら?」
アルテュスは案内された台所の小さなテーブルにエヴァの籠を置き、肩のハムを下ろした。
エヴァは男の外套を受け取り、自分のショールと一緒に暖炉脇の釘にかけた。
それから、木靴を脱ぐと、アルテュスの足元を見て言った。
「長靴も乾かしましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
父親の様子を見に行ってきた少女は申し訳なさそうに言った。
「眠ってしまっています。ここの所、夜は体が痛くて睡眠不足だそうなので、もう少しだけ眠らせてあげていいですか?」
「ああ、構わない」
「食事を準備したら起こしに行きます。大したものはないですけど、どうぞ私達と一緒に夕食を食べていってください」
そう言ったエヴァにアルテュスは頷いた。
エヴァは屈み込み、暖炉の火を起こしている。
大きな暖炉の中には両脇に座れるようにベンチが備え付けてあり、火の上には鉄鍋が吊り下げられていた。
アルテュスは片方のベンチに座り、赤々とした火に照らし出される部屋を物珍しそうに眺めている。
部屋の隅には細かい彫刻を施した黒い木の棚が置かれていた。
よく磨かれた木のテーブルでは普段親子が食事をしているのだろう。
端の引き出しには、半分程になった大きな丸い黒パンが挟まっている。
質素だがきちんと片付いた台所だった。
エヴァは棚から出した皿にマリヴォンにもらった菓子を並べ、水を張った深皿からバターの塊を取り出すと小皿に乗せる。
そして、水差しからビールを素焼きのコップに注ぐと、アルテュスに勧めた。
暫くすると鉄鍋から沸々と音がして、スープの匂いが漂ってきた。
少女がくるくると働いている様を、黙って感心したように眺めていたアルテュスが口を開いた。
「ハムを切ろうか?」
エヴァは目を丸くする。
「えっ、でも、食べてしまっていいのですか?」
「ああ。その為に持って来たのだから」
アルテュスは可笑しくなった。
こんな重い物を何の為にここまで担いで来たのだと思っていたのだろう?
少女はアルテュスが薄く切って皿に並べたハムを嬉しそうに見ている。
そして、沢山食べ物の乗ったテーブルを見て手を叩いた。
「今夜はご馳走ね!」
その様子を見ながらアルテュスは考えていた。
俺は運が悪いとは言えないな。
女としてではないが、この娘は中々気に入った。
それにしても、さっきは手を出したりしなくて良かったぞ。
さて、どうやって結婚の話を切り出したものか?
父親が起きるのを待った方が良いのか、それとも娘にそれとなく匂わせた方がいいのだろうか?




