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竜騎兵と花嫁  作者: 海乃野瑠
第16章 エル・ドラド
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16-4

朝、鳥の囀りで目を覚ましたアルテュスは、腕の中で安らかな寝息を立てているエヴァを起こさないようにベッドから出ると部屋を横切り雨戸を開いた。


まだ辺りは薄暗いが東の空が白く染まりつつあり、澄んだ空気が心地良い。


少し冷たい風には植物の瑞々しい香りが混じっているようだ。


全然注意していなかったが、もうこんな季節なのだな。


アルテュスは薄い雲のヴェールに包まれた空を眺めながら深呼吸をした。


ずっと冬眠でもしていたようだ。


いや、生き返った気分だろうか……


後ろのベッドで寝返りを打つ音が聞こえ、振り返ると丁度目を覚ましたエヴァが起き上がる所だった。


ベッドに座り眠そうな目を両手で擦りながら笑顔を浮かべた妻に声をかける。


「おはよう」


顔を赤らめて挨拶を返すエヴァを目を細めて見ながら思った。


何と愛らしいのだろう。


こんな何でもないことが途轍もなく嬉しい。


彼女を殺さずに自分の許に返してくれた天に感謝する。


その恩義に報いなければならない。


絶対に幸せにするぞ。


着替えながら決意を新たにしたアルテュスは去り際にエヴァの額に優しく口付け、彼女の為に侍女を呼んだ。




広間に姿を現した二人を友人達は安堵の表情で出迎えた。


この二人の嬉しそうな顔をみりゃ苦労した甲斐があったというもんだ。


男の方は自分の親友、女の方は自分の元生徒であり、皆の中でも一番気を揉んでいたマテオはふぅと息を吐いた。


これで肩の荷も下りたことだし、そろそろ学校に戻らなくてはならんな。


目を潤ませているオベルと膨れっ面をしたアルカンの肩を叩くと部屋を出るように促す。


「早くトリポルトに戻って、首を長くして待っているブリスとセラファンに良い知らせを伝えないとな」


どことなくぼんやりと寂しそうな顔をしていたルイスは、エヴァの笑顔を見ると口元を綻ばせて頷いた。


彼女にはずっと笑っていて欲しい。


そして、その為にはこいつが必要なんだな。


乳母が差し出した赤ん坊を抱き上げたエヴァの隣に立つ元部下の逞しい背中を見た。


そう思うと失恋の痛みも和らぐような気がする。


不思議と憎しみや嫉妬は感じなかった。


休暇は終わりだ。


軍船に戻らなくてはならぬ。


ルイスはすっきりとした顔で立ち上がると荷物を纏める為に居間を後にした。




客が帰ってしまうと城は急に静かになった。


ティミリアに行っているアルテュスの父と弟はまだ戻って来ていなかった。


マテオ達には年末ティアベとトリポルトに行った時にきっとまた会える。


だが、ルイスにはもう二度と会うことはないだろう。


エヴァはまだ芽の出ていない花壇に水をやりながら思った。


自分の命を何度も救い、その為に怪我まで負った男に幸せになって欲しかった。


神様、どうか中佐様の旅路が安らかでありますように…………


中佐様の気持ちに応えることはできなかったけど、これからアルテュスの無事を祈る時には彼のことも思い出すだろう。


エヴァは空になった桶と柄杓を片付けると家の方に戻り始めた。


「義姉上」


中庭を横切ると、丁度門の方からアルテュスの二人の妹マリーとユナがにこにこしながら近付いて来た。


二人共、腕に大きな布の包みを抱えている。


「もう使わない生地や端切れを沢山物置で見つけたので、染めて何か作るのに使おうと思って」


「一緒に作りましょうよ」


初めてこの家に来て子供達と仲良くなった時のように、自分達の遊びに誘ってくれる義妹達を微笑ましく思いながらエヴァは尋ねた。


「マダレン様は? 」


「ああ、父上達と一緒に町に行きました」


アルテュスの兄の許婚であったマダレンは相手が亡くなってしまった為、父親は一時アルテュスの相手にと考えていたのだが、アルテュスがエヴァを連れて帰ってきてしまったので今度はその弟のヤンと結婚させようとしていると聞いたことがある。


でも、ヤンはそれでいいのかしら?


謝肉祭で見た時は随分仲良さそうだったけど……


心配はいらないのだろう。


彼はアルテュスにそっくりなのだから。


嫌なことを無理矢理させようとしたら家出してしまうのではないかしら?


そうしたら多分、兄は弟を助けるのだろう。


船に乗ってどこまでも気の向くままに進んで行く……


風にはためく帆の音と鴎の鳴き声が聞こえるようだ。


エヴァは微笑を浮かべ頭を振ると急いでマリーとユナに追いついた。




月日は穏やかに流れ、やがて一年が過ぎた。


フェリックス・ド・ラ・クールが数ヶ月の裁判の末、国家に対する反逆の罪で断頭台の露と消えたことを城の者に伝えたのは、アルテュスに旅費を出してもらって敵の最後を見届けてきた羊飼いの少年であった。


冬になると国王が秋の初めにジュアンの町で起こった新教徒の大虐殺に耐えきれず気が狂ってしまったとの噂が流れた。


一月程部屋に閉じ篭って政務を放棄したり、兎狩りをすると言って槍を手にして宮殿の廊下を走り回ったりしたらしい。


敵国にでも攻められたらおしまいだと貴族達の間に不安が高まっているようだ。


何事かが起こるのを人々は待っていた。


そして、また李と杏の季節となった。


庭の花壇にはエヴァが手をかけた花が次々と咲き、今はすらりと伸びた鮮やかな立葵が並んで風に揺れている。


日向には豆の花が可憐な花を咲かせ、薔薇の隣には百合の黄色、風露草の薄紅色とクレマチスの白い花が交じり合い美しい。


大きな貝殻で囲った花壇の周りには矢車菊や白抓草が咲き乱れ、菩提樹の陰になる一角にはラベンダーの大きな茂みやセージ、タイム、ローズマリーなどのハーブが植わっていた。


木陰に椅子を出し縫い物をしていたエヴァは、ふと手を止めるとそっと溜息を吐いた。


ぼんやりとした眼差しは彼女に似つかわしくない。


足元には白い頭巾を被った小さなエヴァがしゃがんで花や小石で遊んでいる。


「まー! 」


小さな手で差し出された葉に乗せられた雛菊を食べる振りしながら、裾の長い服についた埃を払ってやった。


昼寝の時間だと迎えに来た乳母に抱かれた子はもっと母の傍にいたいとぐずっている。


エヴァは可愛い、自分の子のように愛しいけど……


幸せいっぱいの筈なのに、ここのところ気分が冴えないのだ。


理由は分かっている。


エヴァは浮かない顔で子供を抱いた乳母が城の方に戻って行くのを眺めていた。




アルテュスは優しかった。


さりげなく自分のことを気遣ってくれ、まるで妹のように守ってくれる。


そう、妹のように、なのだ。


初めはそれでもとても嬉しかったのに……


毎晩同じ部屋で休んでいるにも拘らず、再会してからまだ一度も夫婦の関係に至っていないのだ。


触れてくれない訳ではない。


無骨な手は信じられないほど優しく髪や肌に触れてくる。


優しい接吻は、初めは涙が出るほど嬉しかったのだ。


でも数ヶ月もするとそれだけでは満足できなくなった。


大切に想われていると感じるのに何故それ以上のことをしないの?


もう、女として愛されていないのだろうか?


だが、羞恥心が邪魔をして理由を聞くことも自分から誘うこともできなかった。


それに、もうひとつ心配事があった。


アルテュスは既に一年も船に戻っていない。


できることなら行かないで欲しい、一緒にいて欲しいと思うが、船乗りの妻として覚悟は決めているつもりである。


もしかして、私のために無理をしているのではないのかしら?




「アルテュス、待ってまだ明かりを消さないで」


蝋燭を吹き消そうとしていた男は首を捻って寝床の中に座っているエヴァを見た。


「話があるの」


「……何だ? 」


「船では皆貴方の帰りを待っているのではないの? 」


アルテュスは目を逸らすと肩を竦めた。


「顔も見飽きたから、さっさと船に戻れと? 」


「違うわ! 一緒にいてくれるのはとても嬉しいの。でも私の所為で皆に迷惑が……」


「かからない。俺の船は、去年の秋にティミリアの商人に売っぱらちまったから」


思わず起き上がるとアルテュスの袖を掴んで叫んでしまう。


「どうして?! どうしてそんなことしたの? 」


男は泣き出しそうな妻の顔を驚いたように見下ろした。


「おい、何故君が泣くんだ? 」


「だって私の所為でしょう? 大事な船を手放してしまって」


「エヴァ、君の所為ではない。俺がそう望んだんだ。俺が君の傍にいたいんだ」


エヴァは頭を振って手の甲で涙を掃うとにっこりと微笑んだ。


「私の為に自分を犠牲にしたりしないで。船の上で貴方は本当に生き生きとしていた。ずっとあんな笑顔でいて欲しいの。私は貴方の奥さんなんだもの、辛くても我慢できるわ」




途方に暮れたように立っている男の手を引いて自分の横に座らせる。


「アルテュス、そんな顔しないで。貴方を追い払おうとしているんじゃないの」


眉間に皺を寄せてそれでも小さく頷いた男の頬に手を当てる。


「貴方のこと愛してるの……だから、私の為に自分を殺して欲しくないの」


「エヴァ」


何故か鼻がつんとして涙が浮かびそうになる。


それでも気丈に顔を上げて笑顔を見せた。


「大丈夫、船乗りの妻は強いから。留守の間は夫の無事を祈りながら家を守り子を育てて。血を分けた子がいれば……」


そこまで話して自分の言おうとしていることに気付き頬を染めて口を噤んだ。


「……俺の子が欲しいのか? 」


頷いたエヴァは顔を赤くしたまま早口に言った。


「でも、エヴァのことはずっと変らずに自分の子のように育てるわ」


「ああ、分かっている」


目を細めてじっとエヴァの顔を見ていたアルテュスは、ずっと寝る時には着たままだったシャツを乱暴に脱ぎ捨てると細い肩を抱き寄せた。


「怖い目に遭ったことを思い出させるかと思って、手が出せなかった」


「貴方以外の人に体を見られてしまったけど汚くはないの。夫婦でするようなことは一度もなかったから」


熱の篭った接吻に応えながらエヴァは信じて欲しいと言うように夫を見つめた。


男の熱い手が肌着の裾から入り込み脇腹の柔らかな肌を撫でる。


「君の傷が浅くてよかった。でも、もし何かあったとしても汚いなんて絶対に思わないぞ」




力尽きた姿のままでエヴァは逞しい胸に抱かれていた。


揺れる蝋燭の光にしっとりと湿り気を帯びた黄金色の髪が柔らかなウェーブを描いて男の赤銅色に日焼けした肌に映えている。


気だるそうに頭を持ち上げたエヴァは滑らかに盛り上がった筋肉に指を滑らせた。


仰向けに寝転んだアルテュスの胸は呼吸と共に緩やかに上がったり下ったりしている。


自分の知らない傷がいくつかあった。


ああ、これは船の上で撃たれた時のだろう。


エヴァは唇を噛んでそっと肩の傷跡を撫でた。


彼が留守の間、多分心配で堪らないだろう。


でも、私と結婚したことを後悔して欲しくないの。


私は海が好きな貴方を好きになったのだから……


ふとあるものを見つけたエヴァは、目を潤ませるとそっとその場所に口付けた。


―――――――― アモ エヴァ(エヴァを愛す) ――――――――


心臓の上に鮮やかな色で彫られた薔薇が絡む自分の名前……


笑顔で貴方を送り出すことができるわ。


「エヴァ、ずっと君と共に……」


頑固な人。


でも説得してみせる。


私はずっとここで貴方の帰りを待っているから…………


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