15-6
「貴様は本当に救いようのない愚者だな! 」
マテオが呆れたように台所のテーブルに突っ伏している男に向って怒鳴った。
城の大きな台所は騒がしい男達に占領され、まるで酒場のようだ。
声を張り上げないと聞こえないのだ。
汚れたテーブルの上には酒を満たしたコップが並び、ベーコンの皮や胡桃の殻などが散らばっていた。
既にできあがった男がテーブルの下に転がって鼾をかいている。
他の男達はサイコロを振ったりトランプをしたり、彼らにしてみれば非常に大人しく過ごしていた。
石で囲った大きな暖炉の中には蓋をした鉄鍋が吊るされ、煮込み料理でも作っているのかグツグツと音がしている。
料理長のデヴィーは食料貯蔵室に下りて行く階段の前に陣取って、城主様の上等な葡萄酒やハムが食い荒らされないように見張っていた。
「彼女と別れてもいいのか? 」
答えはない。
マテオは友人に近付き肩を掴んで揺さ振った。
「こっちを向けよ。彼女が他の男と一緒になっても本当にいいんだな? 」
「……いい訳ないだろ! でも仕方がないじゃないか。エヴァは俺に愛想尽かしちまったに違いないんだから」
アルテュスは憔悴した顔を上げたが、左の頬に強い一撃を食らいベンチから騒がしい音を立てて転がり落ちた。
「何をしやがる!! 」
顔を赤くして立ち上がり今にも掴みかかろうとする大男を冷静に見ながらマテオは言い放った。
「いい加減に目を覚ませ。一度ぐらいエヴァの言うことも聞いてやれよ」
顔を顰めて突っ立っている友人を蹴飛ばすような勢いで台所から追い出した。
「ほら、さっさと行け!! 」
友人の消えた扉に背を向けながら、テーブルから水差しを取って自分のコップになみなみと酒を注ぐ。
そしてニヤリとしながら呟いた。
上手くいった暁にはボエルゴンディエ産の葡萄酒でも奢ってもらうとするか……
美しい衣装が汚れるのも構わずにエヴァは床に蹲っていた。
アルテュスが逃げるように去ってから随分時間が経っている。
…………これで終わりなの?
引き止めようとしたのだが、小さな掠れ声しか出なかったのだ。
その声は扉の軋む音に掻き消され、背を向けた相手の耳には入らなかっただろう。
部屋に一人取り残されると、膝が震えて立っていられず床にずるずると座り込んでしまった。
………………私はまた捨てられたんだ………………………
夫の出て行った扉がみるみるうちに霞んで、海のように青い絹の上に涙が零れた。
自分の行く先を心配するよりも、ただ悲しかった。
やっとまた会えたのに。
やっとここに帰って来れたのに……
これで本当に終わりなのだろうか?
もう、全然希望は持てないの?
立てた膝に顔を埋めながら男の謝罪の言葉を反芻する。
……………………ずっと貴方のことを想っていた……………
…………貴方のことを求めて気が狂いそうだった……………………………
わからない。
これは私のことを好きだったという意味ではないの?
好きなら何故別れなくちゃならないの?
でも、小さなエヴァのお母さんのこともあるし、彼にとって私はもう過去のことなのだろうか?
どれほど泣いていたのだろう?
幸いなことにその間、居間に入ってくる者はいなかった。
エヴァはやっと立ち上がると掌で涙を掃った。
泣いている場合じゃないわ。
しっかりしなくちゃ。
今まで天は私を守ってくれたもの、今度もきっと何とかなるわ。
婚姻無効の宣告ってどの位かかるのだろう?
明日にでもこの家を出た方が良いのだろうか?
でも、どこに行ったらいいの?
中佐様と結婚はできない。
とてもとても感謝しているけど、そんな風に彼のことを想ったことはない。
それにこの家を出ても私はあの人の妻だから。
ダヴォグール様に話さなければならないわ。
この数日間よく考えたが、兵士には到底なれそうもない。
いくら兵学校に行っても、彼らの仕事を手伝っても……
決して怖ろしいからじゃないわ。
死ぬのは怖くなかった。
大切な人や自分を守る為には人を撃つことも出来るかも知れない。
でも、自分から進んで人を殺すことは絶対に出来ないだろう。
たとえそれが王様の命令であっても。
それでも連れて行ってもらえるだろうか?
お屋敷か兵学校で身の振り方が決まるまで女中として雇ってもらえるかしら?
料理でも洗濯でも何でもするわ。
エヴァは燭台を手にして部屋を横切ると扉を開いて廊下を覗いた。
真っ暗で人の気配はない。
もう皆寝てしまったのかしら?
朝まで待たないで今夜中にダヴォグール様には話したかったんだけど。
扉を閉じてその前で暫く立ち止まって考え込んでいたエヴァは小さな溜息を吐く。
その時、急に扉が乱暴に開けられて、飛び上がったエヴァは燭台を取り落としそうになり蝋をぽたぽたと床に垂らしてしまった。
だが、後退りしながら、居間に飛び込んで来た男を見分けると驚愕に目を見開いた。
「おい、こんな所で何をやっているんだ?! 」
「……あの? 」
「泣いてたのか? 」
近付いて来た男はエヴァの顔を覗きこむようにしたが、直ぐに眉を顰めて体を起こす。
「いくら酷い目に遭わされても好きなんだろ? いくら泣かされてもあいつがいいんだろ? だったらそう言ってやれよ。簡単に諦めるな! 」
「……」
エヴァは相手を見上げて嬉しそうに唇を綻ばせた。
「何笑っている。さっさとあいつの所に行けよ! 台所で教官を前にしてグタグタと泣き言を並べてたぞ」
「アルカン、ありがとう」
「君のことまだ許した訳じゃないからな」
「うん、わかってる。でも心配してくれて嬉しい」
赤毛の少年は赤くなった顔を背けて吐き捨てるように言った。
「別に心配しているんじゃない。あの男に振り回されてる君を見ていると無性に腹が立つんだ!! どうしてそんなに何でも我慢するんだ? ずっと黙って捨てられたのを後悔してたんだろ? だったら、ちゃんと言ってやれよ。俺が知っているエヴァンはそんな意気地無しじゃなかった」
「行ってくる」
「そうだ。早く行って、馬鹿にするなって張り倒してやるがいいさ!! 」
エヴァは頷くとアルカンの脇を抜け小走りに扉に向った。
あの人を張り倒すことなど絶対に無理だけど、この勢いで思っていることを話せたら……
廊下は真っ暗だったが怖ろしくはなかった。
エヴァは蝋燭の明かりを頼りに台所に向っていた。
アルカンが来てくれなきゃ、また同じ過ちを繰り返すところだったわ。
そうなんだ。
私はずっとあの人のことが怖かったんだ。
叱られるかも知れない嫌われてしまうのではないかと、いつもびくびくして顔色を窺っていた。
だって私は何も持っていない孤児なのに、あの人は地位も財産もある船長さんで、対等なんかに絶対なれっこなくて……
違う、そうじゃない!!
そういう風に考えたのは捨てられてからで、それまでは彼があまりにも活力に溢れて荒々しく男らしいので気後れしていたのだ。
彼はあまりにも自分の知っている村の男達や父親とは掛け離れていた。
そして、自分よりもずっと大人で何を考えているのか分からないことが多かった。
でも、時折彼にいつもよりも近付けたと思える瞬間があった。
それはほんの僅かな時間だったけれども、まるで宝石のようにきらきらと輝いて心の中に甘い記憶として残っている。
悪戯っぽく目を輝かせ子供のような顔で笑っているアルテュス。
風邪をひいて熱を出した私の顔を心配そうに覗き込むアルテュス。
まるで壊れ物に触れるようにそっと私の髪を撫でるアルテュス…………
あれが彼の本当の姿だと思いたかった。
もう怖ろしくはないわ。
失うものなど何も残っていないもの。
エヴァはさわさわと衣擦れの音をさせながら台所へ向う階段を駆け下りた。




