15-4
アルテュスは背中で両手を縛られて湿った地面に座らされた男を見下ろした。
「さて、入り口には見張りの者が立っているが天幕の中には俺達二人だけだ。ちゃんと斧が当たるように首さえ繋いでおいてやれば少々痛めつけても公爵様は許してくださるだろうよ」
捕虜は肩を竦めるとそっぽを向いて口を窄め唾を吐いた。
その相手を馬鹿にしたような態度にカッとなったが、自分を抑えつつ極めてゆっくりと口を開いた。
「俺のことはいくら憎んでも構わん。俺に対しておまえがやったことは許してやってもよい。だが、エヴァを傷つけたことだけは絶対に許さんぞ」
だが、そう言いながらも一番傷つけたのは自分だと思い出して苦しそうに顔を歪めた。
俺にはこいつを責める権利なんてないんだ。
相手はアルテュスが躊躇しているのを見抜いたのか、ずるそうな目で見上げると薄ら笑いを浮かべた。
「ちっこいけどよく締まったいい体しているなあ、あんたの奥方は。尻なんかこう丸くぷりっとして……」
目の前がカッと真っ赤に染まって次の瞬間、男の襟首を両手で掴み宙に吊るし上げていた。
見る見るうちに男の顔は紫色になり、白目を剥いて口から泡を吹き始めた。
「おい、止せ!!! 」
「公爵様は許さぬぞ!!! 」
ずっと中の様子を伺っていたのか、天幕に駆け込んで来た兵達がアルテュスの腕を掴み男を放させようとする。
アルテュスは唇をぎりと噛むと、ぐったりとなった男を地面に放り出した。
「殺しちゃいないさ」
そして、怒りを静めるために深呼吸をしながらド・ラ・クールの脇腹を軽く蹴った。
「おい、起きろよ! まだ話は終わっちゃいないんだ」
だが、苦しそうに体を折り曲げ耳障りな音を立てて荒い息をしている男を見ているうちに全てが馬鹿馬鹿しくなってきた。
こんな腐ったような奴に説教なんかしても意味ないだろ?
そのうえ俺にはそんな権利はないだろうさ。
そう思うとさっさとこんな場所を去って家に戻りたくなる。
エヴァにちゃんと謝りたい。
許されなくてもよい。
もう一度だけ、あの澄んだ青い瞳に映りたいんだ。
アルテュスは血と泥で汚れた顔に苦笑いを浮かべると、片手で男を乱暴に引き起こし地面に座らせた。
「フェリックス・ド・ラ・クール、おまえはあちこちで散々悪事を働いてこれから首都に連行され裁かれる身だ。国王を支持するルエの町でやったことで多分八つ裂きの刑にでもされるんだろうな」
兵達はこの大男がまた何かをやらかすのではないかと恐れているように周りでうろうろしている。
アルテュスは相手の目線に合わせるように屈み込んだ。
「おまえが俺に対してやったことは許してやる。何故おまえが俺のことをこんなに憎むのか大体想像がつくからだ」
そして、血走った目で睨んでくる男を静かに見返しながら言った。
「妻も多分おまえを許すだろう。優しい女だからな。そして俺はこれから彼女の許に帰る。おまえの引き裂かれた死体が共同墓地に捨てられ、おまえの呪われた魂が地獄の闇を彷徨っている間、俺達は子に囲まれ睦まじく幸せに暮らしていくだろう」
それだけ言うとアルテュスは男に背を向け兵達に頷いて天幕を後にした。
強がりだ。
あんな奴の前で見栄を張って何て情けない男なんだ、俺は。
ジル・ド・リュスカは部下に略奪を許さなかった為、皆すでに陣営に戻って来ており荷造りする者達が忙しなく辺りを駆け回っている。
そんな中、アルテュスは口を硬く引き結び肩を聳やかして急ぎ足で馬を繋いである一角に向っていた。
エヴァは……
多分俺を許してくれるだろう。
だが、あんな仕打ちをした男をもう夫とは思えないに違いない。
彼女を守るべき立場にある俺があんな酷いことをしたんだからな。
エヴァを自由にしてやるべきだろう。
自分からは絶対に離縁したいなどと言う筈ないから俺がそうなるように仕向けるしかない。
そんなこと思いもしないに違いない……
ルイス・ド・クレリゴーは口煩いが信用できる男だ。
彼ならエヴァを幸せにしてくれるだろう。
畜生、胸が苦しいぞ。
アルテュスは歯を食い縛って未練を振り切るように自分の胸を拳で叩いた。
額に手をかざし伸び上がるようにして森の方角を見ていたエヴァは小さな叫び声を漏らした。
黒く見える木々の間で何かが動いているように見えたのだ。
目の錯覚ではない。
豆粒のように小さいが、確かに馬に乗った人々が城の方に向かっていた。
あの人が帰って来る!!!
エヴァは石の壁に寄りかかると頬に両手を当てた。
冷たい風の中でも顔がカッと熱くなり心臓がドクドクと激しく打っている。
慌てて階段の方に行こうとしたら膝が震えて転びそうになった。
やだ私ったら……
しっかりしなくちゃ。
これから自分の運命が決まるというのに何興奮しているんだろう。
早くお義父様に知らせなきゃいけないわ。
スカートの裾を絡げると急いで階段を下り始めた。
自分にとってとても辛いことになるかも知れない。
この城を追い出されてしまうかも知れないのだわ。
それでも、沸きあがってくる嬉しい気持ちが抑えられなかった。
居間の扉を勢い良く開けて飛び込むと中にいた人々が驚いて振り向いた。
そして皆目を見張る。
大きな瞳をきらきらと輝かし頬を赤く染め、口元に優しい微笑を浮かべたエヴァは天使のように美しかったのだ。
眩しそうな顔をして立ち上がったヤンが言った。
「兄上達が戻って来たのですね」
エヴァは大きく頷くと義父に向かって口を開いた。
「馬に乗った人が十人ほど隣の領地からこちらに向って来るのが見えました」
「万が一敵ということもある。城門の方の警備を強化しておけ」
アルテュスの父は召使を呼びつけそう言ったが、丁度その時、慌しく広間に入って来た兵が嬉しそうに報告した。
「アルテュス様とご友人がもうすぐお戻りになられます!!」
「本当に彼らだと見分けがついたのか」
「はい、先頭の馬は絶対にアルテュス様です。あんなにがむしゃらに馬を飛ばす人は他にはございません」
不安そうな顔になったエヴァに傍にいたヤンが安心させるように言った。
「大丈夫です。兄上は馬から落ちた位で死んだりしませんよ。岩のように頑丈な人ですからね」
「出迎えの用意を!」
エヴァは居間を出ると小走りに子供部屋に向った。
もうすぐ小さなエヴァと引き離されてしまうかも知れない。
いつも乳母に抱き癖をつけると叱られるのだが、日に日に愛らしくなってくる幼子と少しでも長く一緒にいたかったのだ。
やっと帰って来た。
中庭で馬から下りたアルテュスは手綱を下男に渡すと忙しなく辺りを見回した。
迎えに出てきた親や兄弟から少し離れた隅の方に赤ん坊を抱いた愛しい姿を認めると、ひゅうと音を立てて息を吸い込み激しく顔を顰めた。
エヴァは頬を打たれたような顔をして唇を震わせるが誰もその様子に気付かなかった。
「怪我をしているのか?! 」
「早く手当てを! 」
「先に風呂だ、風呂!!! 」
慌ただしく使用人が風呂の準備を始め医者が呼ばれた。
赤ん坊を抱いたままエヴァはそっと部屋から出て行った。
子を乳母に預け寝室に駆け上がると窓際の長持から新しいシャツを取り出す。
夫の無事を祈り一針一針心を籠めて縫ったものだ。
指先で縫い目をそっとなぞると涙が一滴ぽろりと零れ布に染みをつくった。
暫くの間、膝に服を乗せたまま考え込んでいたエヴァは深い溜息を吐くと立ち上がった。
夫の航海中に作ったシャツを全て腕に抱えると扉の方に向う。
強くならなくちゃいけないわ。
部屋を出る前に足を止め口元をキュッと引き締めると涙の乾いた目できれいに片付いた寝室の中を見回した。
これを下に持って行ったら、戻って来て荷造りした方がよさそうね。
大した荷物はないけど……
ド・リュスカ様の許で竜騎兵になる覚悟はできていないけれど、決心がつくまでダヴォグール様の所か兵学校にいさせてもらえるかしら?
広間に下りると女中の一人に抱えていた服を手渡した。
「人数分ちゃんとあると思うわ」
そして、次に台所に向い料理長のデヴィーに簡単な食事の準備を頼んだ。
「脂身の多いベーコンを薄く切って火で焙ってね。それから塩漬けキャベツの新しい樽を開けて」
「それから粒入りマスタードですね。焼き立てのパンもありますよ。ほら、これを持っていって奥の印のついた樽から葡萄酒を入れてきてくれ」
デヴィーは満面に笑みを浮かべ、心得たと言うように白い前掛けをした自分の膝をパシンと両手で打つと、小僧に水差しを渡して酒蔵に行かせた。
「夜はご馳走にして頂戴ね」
「丁度丸々肥えた鴨が6羽もいますから。素晴らしいローストができますよ」
「子供達には何か甘いものも作ってあげて」
「萎びた林檎を干し葡萄と煮ましょう。とっても甘くなりますよ」
エヴァはにっこりと頷くとデヴィーに礼を言って台所を出た。
小さなエヴァの所に戻る前に他に何かすることあるかしら?
そうだ。
寝室の準備を頼まなければならないわ。
皆とても疲れているでしょうから。
そう言えばお医者様はもう帰られたのかしら?
船長さんの怪我が酷くなければいいのだけど……
それから荷造りだ。
軽い足音を響かせてエヴァはしっかりと顔を上げて暗い廊下を歩いて行った。




