13-7
「『ラテディム海のオーガ』の船だって言うから喜び勇んで乗ったのに!」
「ああ、もう本当に勘弁して欲しいよ! 人に見られたら僕達何だと思われるか」
見習い水夫が二人、ぶつぶつ文句を言いながら桶の中に山と積まれた洗濯物を甲板に干している。
幼子が服を汚すのは日に7、8回、そのうえ昨日は雨だった所為で、普段は洗ったハンモックを乾かす為に使われている荷下し用の起重機の綱にずらりと20枚程の裾の長い小さな肌着が行儀よく並んで風にはためいていた。
白い服は新しいものではなく穴を繕った跡や染みが所々に見える。
最後の一枚を吊るし終わった見習い水夫は起重機から軽々と飛び降りた。
そして、濡れて寒さに赤くなった手をズボンで拭きながら桶を持ったもう一人の少年に言った。
「でもまだ洗濯の方がましだよ。ルディのように男の癖に赤ん坊を一日中背負ってなけりゃならないなんてことになったら恥ずかしくて死んじまうよ」
「ルディったら、出港の日は背負った赤ん坊が泣き止まなくて自分も泣きながら甲板を歩き回っていたな」
「この船には女は乗せないって決まりがあるそうだし、子守として雇われたんなら仕方ないっちゃないけどな」
「おら、サボってないで終わったらさっさと甲板の掃除を手伝え!!」
いつの間にか後ろに来ていた船乗りに怒鳴られて、少年達は首を竦めると慌てて仲間が跪いてたわしで床板を擦っている方に駆け出した。
昨日は霧が濃く一日中雨が降っていたのだが、明け方から雨が止み気温が上がった。
春の兆しではないかと若者は喜んだが、もう少し経験のある者達はこれは厳寒の前触れではないかと恐れていた。
毎年2月末から3月にかけて急激に気温が下り吹雪となることがあったのである。
船尾楼の自分の席に腰を下ろした船長は船足を確認しながら航海士に指示を与えていた。
このまま進めば予定通りにティミリアに着けそうだ。
この付近の水域は安全とされていたが悪天候の危険は皆無ではなく、赤子を連れた旅をできるだけ長引かせたくなかったのだ。
そして、ティミリアに入港したら『ラ・ソリテア号』の修理をする予定だった。
船体にこびり付いた貝や海草を取り除き腐ったり傷んだ板を外して新しいものに取替えコーキングするには一月ほどの時間が必要だった。
その間に赤ん坊に洗礼を受けさせ正式に自分の養子とするつもりだ。
そういえば父は乳母を雇ってくれたのだろうか?
アルテュスは赤ん坊に山羊の乳を飲ませようと顔を真っ赤にして奮闘している少年の方を横目で見ながら眉を潜めた。
不器用な奴だなあ!
あれじゃあ俺の方がよっぽど……
乳を入れた牛の角がぐらりと傾き、とうとう堪りかねた赤ん坊が大声で泣き出すのを見ると思わず腰を浮かしそうになる。
丁度その時、少年の脇から差し出された丸太のように太い腕が泣き喚いている子と哺乳器を取り上げた。
「ほら、よく見てな。こうやって飲ませるんだよ」
腰のベルトにしゃもじを挟んだ太った赤ら顔の男は『ラ・ソリテア号』の料理長だ。
周りの皆が驚いて目を見張っているうちに『悪酔いブイヨン』は手際よく赤ん坊に乳を飲ませ、飲み終わると起こして胸に抱き抱えポンポンと背中を叩いてげっぷをさせた。
満腹になりウトウトしかけている子を感嘆の眼差しで自分を見つめているルディに返しながら男はニヤリと笑った。
「家には幼い弟妹が大勢いたからな。俺は畑仕事ができるようになるまでずっと子守をさせられてたんだ」
文句を言いながらも船乗り達は皆顔つきが穏やかになっている。
この船の上では最近は殴り合いどころか怒鳴り声も殆ど聞こえない。
作業中はいつもの動作に合わせた歌を歌っているが、その他に子守唄が混じるようになっている。
『髭の三日月』がリュートを抱えて懐かしい曲を奏でると、耳を澄ませている厳つい男達の顔が夢見るように和らぐのだ。
中には故郷の村や懐かしい母親を想って涙ぐむ者さえもいた。
アルテュスは子守唄を歌ってもらった記憶はないので感傷的になることはなかったが、歌に聞き惚れている仲間達を見回して思った。
確かに別の船の者にでも見られたら大の男が情けないと思われるかも知れない。
だが、俺は今敵に出食わしたらこいつを守る為、以前よりも勇ましく戦える自信があるぞ。
自分の犯した罪に一時期は押し潰されそうになり、救いを求めて酒に溺れた。
やっと立ち直った時、ある決心をした。
3年後、弟が18になるのを待って家業を譲り渡し自分は船を降りて僧院に入る。
別に急に信仰厚くなったという訳ではないが、真面目に苦行を積めばこの世の苦しみから解き放たれると聞くではないか。
もしもその時、父親が亡くなっていたらヤンが成人するまでの間、自分が後見人となれば良い。
しかし、どうやら神は罪深い船乗りの祈りは必要としていないようだな。
それよりも罪の重さにきちんと向き合え、逃亡することは許さないと、この赤ん坊を自分の許に送り込んだのだろう。
だったら自分の運命に従う他ないだろう?
今まで俺は自分勝手に気ままに生きてきた。
人の気持ちも考えず、いつだって自分の考えだけで強引に物事を進めてきたのだ。
この船の奴らは頼もしい船長だと慕ってくれているが、それは自分がこの船の持ち主で船長であるからだと思っていた。
俺だって奴らを自分の部下としてしか見ていないのだから同じことだと。
だがあの後、情けなくも堕落的な生活を送っていた間、俺を見放した者はいなかった。
この船は俺の家だ。
そして彼らは俺の家族だ。
幼い頃から家族には疎まれ海軍では上司や同僚と上手く付き合えず、やっと好きになった女には裏切られた。
女などもう絶対に信用しない二度と恋などするものかと決心した時、エヴァに出会ったのだ。
彼女はあまりにも無垢で優しくて、あの澄んだ瞳で見つめられると決心が揺るぎそうになることを止められなかった。
だが、俺は自分の気持ちを押し隠して、どうせ裏切られるのだから期待をしない方が良いなどと強がっていた。
本当はまた自分が傷付くのが怖かったのだ。
離れていると昔の女のことを思い出してしまって、不安と期待でおかしくなりそうだった。
そんな時にあんな手紙を受け取ったから、やっぱりという気持ちと、いつしかエヴァに心を許してしまっていた自分に対する憤りと俺にこんな仕打ちをする彼女に対する怒りで狂っちまったんだ。
こんなに臆病で愚かな男は愛想を尽かされても仕方がないのに……
「世界は狭いとはよく言うが凄い偶然だな」
馬車に揺られながら毛皮の外套に包まったエヴァは向いに座っているマテオに頷いた。
「……ええ」
今朝早く都を立った二人を乗せた馬車の前後を護衛の兵が固めている。
制服を着ていなくてもれっきとしたトリポルト陸軍部隊の騎兵に守られた馬車の中は安全の筈だった。
エヴァの話を最後まで聞いたマテオはもう一度確認するように言った。
「君を捕らえたフェリックスという名の新教徒の男は、ラソン公の配下の者でどうやら君をアルテュスの家で襲った男と同一人物のようなのだな? そしてその時に君に撃たれた傷がもとでそいつの兄が死んだと。丁度我々がトリポルトに戻る頃にアルテュスの家から使いの者が戻って来る予定なんだ。この事件は思ったより簡単に片付くかも知れないぜ?」
暗い顔をして俯いてしまったエヴァを慰めるようにマテオは言った。
「そいつの死に責任を感じることはないぞ。戦だと思えばいいだろう。今回だって上手く逃げ出せたから助かったものの、そうじゃなけりゃ奴らはあんたを殺していただろうからな。それに怪我は足だったんだろう? 死んだのは適切な治療をしなかった所為だろうさ」
エヴァはその言葉に頷いたが暫く下唇を噛んで黙ったままだった。
どうやら相手は相当の悪党らしいから、早く全てを明らかにして彼女の罪悪感を軽減させてやらないといけないな。
エヴァの受けた傷が完全に癒えるのを待つこともできたのだが、マテオは出来るだけ早く彼女をトリポルトに連れて帰りたかったのだ。
「でも、私の所為でお兄さんが亡くなって私のことが憎いというのは分かるけれど、どうして船長さんと私の仲を裂こうとしたのかしら?」
「さあ、それは本人に尋ねてみなけりゃ分からないな。それよりも、もし疲れていなかったら奴とラソン公との会話をもう一度繰り返してもらえるかい?」
エヴァは頷くと考え込むようにしながらぽつりぽつりと語り始めた。
その顔を痛々しそうに見ながらマテオは、時折相槌を打ったり続きを促すような質問をしたりした。
エヴァの左の頬には青紫の打ち身が出来ている他に鞭で打たれた傷があったのだ。
打撲傷や擦り傷は数週間すれば消えてなくなるだろうが、左の耳から顎にかけて斜めに走っている頬の傷については今よりも薄くはなるが完全には消えないだろうと都で診てくれた医者に言われていた。
男だったら名誉の戦傷となるのだが、若い女性には顔に傷跡が残るのは辛いだろう。
エヴァはあまり気にしていない風だったが、マテオはトリポルトに着いたら直ぐに傷を癒す効果のある薬や薬草を取り寄せることを考えていた。
数日後、トリポルト陸軍兵学校の訓練所とされている学校裏の野原に呼び出されたエヴァは、知らせを持ってきた二人の兵と共に馬で雪で泥濘んだ道を兵学校に向った。
どうしたのだろう?
ダヴォグール様が直ちに兵学校に来て欲しいと言うなんて。
何があったのだろうか?
気が急いて思わず早駆けになると男達はエヴァを守るようにぴったりと寄り添って馬を走らせた。
そのままの服装で来るようにと言われた為、毛皮の縁のついた帽子を被り外套に包まっているがその下には地味な色合いのドレスを着て横乗りで馬に乗っている。
門の前で馬を下りると兵の一人に手綱を預け、もう一人の男について徒歩で建物の裏手に回った。
エヴァにとっては一年間歩き慣れた懐かしい道であった。
学校の中に女性が入ってくることは滅多にないのだろう。
すれ違う生徒や兵が不思議そうな顔をしてエヴァの姿を目で追った。
建物のある場所から野原までは下り坂になっており、辺り一面に3日ほど降り続けた雪が積もっていた。
だが白い絨毯のような雪の上には土の色に汚れた跡が点々と図柄を描くように走っている。
一人の男が巧みに手綱を操り雪の上の跡をなぞって行く間、残りの者達は馬に跨ったまま順番を待っているようだ。
男達は皆、同じ形の兜を被りピカピカに磨いた甲冑を身に付けている。
そして片手に剣を持ち背中には火縄銃を背負い鞍の脇には皮のベルトで留めた斧を吊り下げていた。
冷たい空気に人と馬の吐き出す息が白く立ち昇り、辺りはしんとして号令の声以外は時折野原の端に立っている枯れ木から積もった雪がドサリと落ちるだけだ。
エヴァ達が近付くと待っている男達の中からマテオが出てきた。
馬から下りた男はエヴァの肩を抱くと皆の方に連れて行った。
馬に跨った一人の男の前で立ち止まると敬礼をする。
兜は被っていないが細かい模様の彫られた銀色の鎧を身に着けた軍人は馬の上から二人に片手で合図をした。
「ド・リュスカ様!!」
エヴァが驚きの声を上げ困ったように元教官の方を見ると、マテオは頷いて苦笑いをしながら言った。
青白く厳しい顔に尖った顎鬚を蓄えた男は、トリポルト陸軍兵学校の校長であり王軍の将校であるジル・ド・リュスカだったのだ。
「すまない、エヴァ。君のことは全て白状してしまったよ。公爵様は快く許してくださったが一つの希望を申されたのだ」
「一人の負傷者も出さずに新教徒の犬共を仲間割れさせたとは手柄だったな。差し支えなければ将軍に盾突いた男について詳しく聞きたい」
「公爵様はルエの町を襲った首謀者について話をお聞きになりたいそうだ」
「はい」
エヴァは緊張しながら馬車の中でマテオにした話を繰り返した。
馬が待ち切れないように鼻息荒く足踏みをするのを手綱を引き締め制しながら公爵が叫んだ。
「フェリックス・ド・ラ・クールか!」
「ご存知なのですか?」
「新教徒の中でも過激派と言われる小集団の頭だ。新教徒でありながら王の近臣であり中立的な態度を取り続けるラソン公を自分らの統率者として王に刃向かせようと色々策を練っているようだが、今回のことで失敗に終わったようだな。この男のことは随分前から我々も知っていたのだが、確実な証拠がなく手を出せなかったのだ」
大きな瞳で自分を見上げているエヴァの方をチラと見て頷くと、腰から短銃を抜いてマテオに差し出した。
「これを受け取ってくれ」
相手が恭しく頭を下げて礼を言うのを手を振って遮ると馬首を建物の方に向けた。
「引き取ってよし! もし考えが変わったらいつでも君の生徒を我が隊に歓迎するぞ!」
そして、部下達に鋭い声で指示を与え馬の腹に踵を打ち付けると敏捷に丘を駆け上がって行った。
二人はその様子を眺めていたが、公爵の姿が見えなくなるとマテオはエヴァの背中を押した。
「家に送って行くよ。道々話したいことがある」
屋敷への帰り道、マテオはエヴァと並んで馬を進めながら鼻に皺を寄せて言った。
「ややこしいことになったな。公爵様は俺達が敵に手出しするのを望まないだろう。今日明日辺りにアルテュスの家から使いの者が着く筈だ。どうするかその時に決めよう」
「ド・リュスカ様は」
「奴を捕らえて裁判にかけるつもりだろうな。残念ながら奴が君達にしたことは王に対する反逆罪と比べたら取るに足らないものだ。復讐は無理だろう」
「復讐なんて……。私はただ何故あんなことをしたのか知りたいだけです」
屋敷の中庭で馬から下りたマテオは布に包んで持っていた銃をエヴァに差し出した。
「これは君が持っているべきだ」
公爵がくれたのは金属の部分に細かい唐草模様の彫ってある、以前あの野原でエヴァが撃ったことのある銃だった。
恐る恐る両手で受け取ると考え込むようにしているエヴァにマテオが言った。
「使わなくても記念に取っておけ。もう二度と撃てないなどと考えているんだろう? それを乗り越えることができたらよい兵士となるんだろうけどな」
そして、俯いて指先で銃床の模様をなぞっているエヴァを見て付け加えた。
「それに、もしアルテュスに振られても行く所が見つかったじゃないか。竜騎兵エヴァン・ド・タレンフォレスト殿」




