12-2
それからは何事もなく時は流れ、やがてまた雪の降る季節が訪れた。
ある日、料理長にクリスマスの一週間前にはティアベに着くと告げられたエヴァは、ホッとすると同時に寂しい気持ちになった。
海では怖ろしい目にも遭ったし、船の上の生活はとても不便だと思う。
それに、自分が女だということを隠し続けるのにも苦労した。
塩を含んだ風の所為で唇はひび割れ顔と手は日に焼け、髪は梳かすこともできずこんがらがって多分切らなければならないだろう。
服も垢と塩でごわごわになっている。
それでも、とても楽しかったわ。
船長に近付く機会は殆どなかったので正体がばれる心配はなかったが、今となってはそれも少しばかり残念に思えてしまう。
もしかしたら二度と会えないかも知れないのだ。
本当に何も知らせずに船を降りてしまっていいのだろうか?
後になって自分が後悔するようなことにはならないのか?
エヴァは頭を振ると両手で頬をパシンと叩いた。
ここまで来てこんなに気持ちがふらふらするのは、私が弱い証拠だわ。
これからすることは必要なことだ。
このまま男の服を脱いで船長さんの傍に残って幸せになったりしたら、それこそ後で後悔するに決まっているわ。
数日後の夕方、『ラ・ソリテア号』は港の入り口に建っている二つの塔の間を通っていた。
空はいまにも雪が降り出しそうに低く灰色だ。
エヴァは皆の邪魔にならないように甲板の隅で船縁に摑まりながら、潤んだ瞳で目の前に聳える古びた建物を見上げていた。
風と塩で表面の石は白く変色し下の方には貝や海草がこびり付いている。
だが、何と大きくて力強いのだろう。
エヴァが生まれる前からずっとティアベの町はこの二つの塔に守られてきたのだ。
……ただいま戻りました
自分の生まれ育ったこの町にもう一度戻れたことは奇跡に近いのではないかと思ったエヴァは、跪いて神に感謝の祈りを捧げた。
長い長い旅からやっと暖かい我が家へ帰って来た気がする。
エヴァは凍えた指先に息を吹きかけながら微笑を浮かべた。
私ったらまるで子供みたいに興奮しているわ。
懐かしいこの町に戻れたことがとても嬉しかった。
帆船は静かに港に滑り込み、既に大勢の人達が集まっている波止場に錨を下ろした。
作業を終えた乗組員達は給料をもらう為、甲板に一列に並び始めた。
後ろの方で背伸びをしながらエヴァは、会計係の机の横に立っているのは誰なのか確認しようとしていた。
だがどうやら若い方の航海士のようだった。
船を降りる前にもう一度船長さんの姿を見たいけど、いったいどこにいるのかしら?
既に自分の分の金を懐にした『悪酔いブイヨン』がエヴァの傍にやって来た。
自分の荷物と一緒にしまってあったエヴァの大きな包みを抱えている。
「ほら、おまえさんの荷物だ。達者でな」
そしてエヴァの手を熊のように大きな手で握って付け加えた。
「もし気が変ったらこの船に戻って来るといい。俺達は正月の3日に出港する予定だから」
エヴァは泣き出しそうになって頷いた。
「ありがとうございます。ジャックさんもお元気で」
『悪酔いブイヨン』もつられたように太い腕でごしごしと目を擦ると、もう一度困ったことがあったら自分達の泊まっている港町の宿屋に来るようにと言って去って行った。
さて、これからどうしようかしら?
今日は泊まる所を探してお父さんの様子を見に行くのは明日にした方がよさそうだわ。
給料はもらえないものと思っていたが、挨拶をして船を降りようとしたエヴァをメレーヌは呼び止め、金貨一枚をくれたのである。
ルイスの母親からもらった金もあるので、急に自分がとても金持ちになったような気がした。
そして今、エヴァは重たい布の包みを抱えて懐かしい道を歩いていた。
港町の宿駅に泊まるつもりだったが、よく知っている景色を眺めているうちに堪らなくなり、外からだけでも見に行こうと自分の家に向って歩き出した。
途中で荷物だけでも宿屋に置いてくればよかったと後悔しながら、エヴァは息を切らしつつ凍った道を進んでいた。
毎日仕事を探しに通っていた道である。
近くには、春にはタンポポの若い芽や良い香りのするスミレを探したり、夏には野苺を摘んだりシロツメクサで冠を編んだりした野原があり、見慣れた自然の生垣や今は枯れ枝を北風に晒している大きな楢の木があった。
子供の頃は母に連れられて近くの農家に山羊の乳や卵を買いに行ったこともあるし、父のゴンヴァルと一緒に港町に出かける時、父の手を放して転んで膝を擦り剥いたこともある。
いつしか走るようにして道を急いでいたエヴァであるが、自分の家のある通りに出ると急に戸惑ったように歩みを止めた。
父に姿を見られてはならなかった。
どうしてこんな所に一人でいるのかと聞かれるだろうし、本当のことは絶対に知らせる訳にはいかない。
しかし、この寒い中いつまでも外に立っていても何も分からないだろう。
お父さんは冬になると具合が悪くなるから。
少し前から小麦粉のようにサラサラとした雪が降り出し、辺りには人っ子一人いない。
窓から覗いてみたら何か分かるかしら?
エヴァはゆっくりと辺りを見回しながら灯りの漏れている小さな窓に一足一足近付いて行った。
ドンッ!!!
急に家の扉が開き飛び出してきた男に突き飛ばされたエヴァは尻餅をついた。
痛む尻を擦りながらやっとのこと立ち上がって振り返ると、背の高い男はそちらを見ることもなく何やら喚きながら角を曲がって行ってしまった。
どうして?
エヴァは男が消えた街角を見つめながら不安そうな顔をする。
あれは船長さんだった。
顔は見なかったけれどあの姿は間違えっこない。
どうして船長さんは私の家に行ったの?
何であんなに慌てて走り去って行ったのだろうか?
寒気が足元から這い上がってきてエヴァは思わず身震いをした。
知らないままではいられなかった。
急いで家に近付くと扉を拳で叩く。
だが答えはなかった。
ずっと叩き続けていると、誰かがぶつくさ言いながら近付いて来る足音が聞こえた。
「今度はいったい何だ?」
扉を開いた不機嫌そうな中年の男が、驚きで口も利けないエヴァを睨みながら言った。
「ニコラス、なんだい物乞いかい? うちは施しができるような身分じゃないよ。早く追っ払っちまっておくれ!」
後ろから女の怒鳴り声がする。
扉を閉めそうになった男にエヴァが慌てて尋ねた。
「ゴンヴァルはいますか?」
「ゴンヴァル? 知らないよ。ここは俺達の家だ」
「いつからここに住んでいるのですか? お願いです、教えてください! 前にここに住んでいた代書人はどこに行ったのですか?」
エヴァの必死な声に男は玄関に入って扉を閉めるように言った。
「こんな所で話していたら凍えちまう」
そして台所から出てきた女と二人でエヴァのことをジロジロと見た。
「さっきの男も代書人がどうのこうのと言っていたが。一月ほど前に、ここに住んでいた爺さんが死んで後家さんも出て行ってしまったので、俺達がこの家を安く買ったのさ。あんたは身内かね?」
エヴァは青ざめて唇を振るわせた。
「父です」
「……それは残念だったね」
二人は決まり悪そうな顔になり、エヴァに台所に入るように勧めた。
「私達は良く知らないのだよ。ここに来た時には既に葬式も終わって家具も運び出された後だったからね。暖かい飲み物をどうだい?」
「いえ、ありがとうございます。お邪魔しました」
エヴァは礼を言うと、急いで家を出た。
お父さん、お父さん……!!!
エヴァは薄っすらと雪の積もった道をとぼとぼと歩いていた。
辺りは既に薄暗くなってきている。
冷えた頬に熱い涙がぽろぽろと零れた。
もう少し前にティアベに来ていたら顔を見ることができたかも知れなかったのに。
そう思うと残念で堪らない。
喉に何か塊がつかえたように苦しくエヴァは呻き声を上げながら空を見上げた。
暗い空から音もなく次から次へと雪片が降ってくる。
白い花びらはエヴァの睫や髪にとまり冷たい雫となった。
暫く泣いていたエヴァは袖で涙を拭くと、きりっと唇を引き締めた。
こんな私を見たらお父さんはきっと心配するだろう。
私は天涯孤独の身になってしまった。
だから強くならなくてはいけないわ。
お父さんもお母さん達と一緒に天国から私のことを見守ってくれているだろうから……
そう思うと、足元に降ろしていた荷物を背中に担ぎ直し、しっかりとした足取りで歩き出した。
「エヴァちゃん?!!」
驚愕の叫び声を上げたマリヴォンは、暫くエヴァが幽霊ではないのか疑っている様子だったが、ちゃんと生きていると分かると甲斐甲斐しく世話を焼き始めた。
「まあ、何てなりをしているんだい? こんなに雪に濡れて冷たくなって! 服だってボロボロじゃないか」
直ぐに湯を沸かし風呂の準備を始めた女を感謝の眼差しで見ながら、エヴァは簡単に事情を説明した。
「エヴァちゃん、入ってもいいかい?」
布を敷いて湯を張った狭い桶の中で冷えた手足を温めていると、着替えを抱えたマリヴォンが入って来た。
久し振りに風呂に入ってさっぱりしたエヴァは、マリヴォンの服を借りて女の姿に戻った。
「ありがとう、マリヴォン小母さん」
「お父さんは本当に残念だったよ。あんたが生きていると分かっていたらもう少し……」
マリヴォンは頭を振ると涙を浮かべているエヴァの肩を抱き寄せた。
女の体は温かく懐かしいラベンダーの香りがした。
エヴァは堪らなくなり女の肩に額を押し付けて泣き出した。
マリヴォンはエヴァが泣き止むまでずっと黙って優しく背中を叩いてくれた。
「……どうして私が死んでしまったと思っていたの?」
「丁度一年前にあんたの旦那さんが訪ねて来てね。あんたがお産で亡くなったと教えてくれたそうだよ」
その時、隣の部屋からマリヴォンを呼ぶしわがれた声が聞こえてきた。
「うちの役立たずの老いぼれはまだ生きていると言うのに」
そう呟いたマリヴォンにエヴァは言った。
「私はもう大丈夫だから。ペレック爺さんの所に行ってあげて」
マリヴォンが部屋を出て行くと、エヴァはそっと溜息を吐いた。
優しい小母さんが心配するから、もう泣いてはいけないわ。
でも、何故船長さんはそんなことをお父さんに言ったの?
私が死んだと思ったから、お父さんは悲しさのあまり病気が重くなってしまったのじゃないかしら?
その時、初めてエヴァの胸の中に夫を恨む気持ちが生まれたのだった。




