11-5
「今度こそ船長は完全に気が狂っちまったと思うんだが」
アレンは鼻に皺を寄せて仲間の船乗りの『髭の三日月』に問いかけた。
「あんたはどう思う?」
『髭の三日月』は尖った顎鬚を引っ張りながら肩を竦めた。
「奥さんがあの世から会いに来たって話だろう? まあ、それで船長が元気になったんならいいんじゃないか」
「それはそうなんだが」
口篭った航海士を見ながら『髭の三日月』はニヤニヤした。
「何だ怖いのかよ、おまえさん。大丈夫だよ。船長の奥さんは例え幽霊になったとしても他人に酷いことなんかできる人じゃないよ」
「そうだよなあ」
ホッとしたように頷いたアレンは船長の立っている船尾楼を見上げた。
その朝、船長は長い間閉じ篭っていた船室を出て、数週間ぶりに甲板に立ったのだった。
相変わらず顔色は悪かったが、その表情は昨日の雨が嘘みたいに晴れた空のように明るくて、『ラ・ソリテア号』の乗組員達は大層驚いたのだった。
やっと奥さんのことを諦めたのかと思ったのだが、そうではなかった。
自責の念に駆られて苦しむ男の許に天使の姿をした奥さんの霊が現れたらしい。
自暴自棄になっている男を戒め、これからまっとうな人生を送ることを約束させたのだそうだ。
それで船長は生き方を改め、奥さんだけを一生愛し続ける決心をしたと言うんだが、本当にこれで良かったのだろうか?
アレンは首を傾げた。
船長のように若くて丈夫な男が、坊さんのような暮らしをするのは不自然だぞ。
『ラテディム海のオーガ』が修道士だと?
いやいや、それは似合わな過ぎるだろう。
けれども、そのうち船長はこの船を降りて修道院にでも入ってしまうのではないか?
それともイエズス会の宣教師にでもなって野蛮人の住む国にでも行くのだろうか?
これじゃあ、いつかは奥さんの幽霊が禁じたから、もう戦わないなどと言い出しかねないぞ。
あんなに豪傑で愉快な男だったのに寂しいじゃないか。
縄を結びつけた桶で海水を汲んで黒く焦げ付いた鍋を洗っていたエヴァは、額の汗を袖で拭いながら顔を上げた。
少し離れた所にこちらに背を向けて座り食事をしているがっしりとした男の姿が目に入り嬉しそうな顔をする。
額の怪我は大したことがなかったようね。
船室にばかり閉じ篭っていたら体に悪いと思っていたから外に出てきてくれて良かったわ。
ちゃんと食べてくれているようだし……
そう思ってから気がついた。
私ったらあの人のことをまるで家族のように心配しているんだわ。
家族……
お父さん、お元気かしら?
やっぱりティアベに着いたらそっと様子を見に行ってみよう。
エヴァはきれいになった鍋を乾かす為に逆さにして置くと、両手を空に上げて痛む腰を伸ばした。
休憩時間だわ!!
船の中でハンモックに寝ても良いのだが、それよりも太陽の光が暖かい甲板で仕事をする男達を眺めていたかった。
エヴァは皆の邪魔にならないように影になっている隅の方に行くと、麻の袋を敷いてその上に横たわった。
大層疲れて眠たいのだが、航海士と話している背の高い男が気になって仕方がない。
そして昨日のことを思い出しながら小さな溜息を吐いた。
私はあの人を憎むことはできなかった。
あんなに後悔している様子を見て、直ぐ許す気持ちになってしまったわ。
あの人は私を想っていると言ってくれた。
アルテュスの言葉を思い出し頬を染める。
信じてもいいのだろうか?
一度捨てられた悲しみは純真な心を臆病にしていた。
愛しい人をもう一度信じたいという気持ちと共に、苛められた子猫のように二度と痛い思いをしたくないという気持ちを拭い去れないのだ。
それに私が死んでしまったと思っているあの人は、いつまで私のことを好きでいてくれるのだろうか?
この船の人達は皆、彼に早く新しい女の人を見つけてあげたいようだ。
直ぐにでもアルテュスの前に姿を現して全てを話してしまいたい衝動を抑えて、エヴァは寝返りを打つと腕で目を隠した。
私は自分の決めたことをやるしかないんだわ。
全てが終わった時、もし船長さんが再婚していたりしたら、私達は別れる運命だったというだけのことよ。
だけどこの船の上にいる間だけは……
エヴァは両手で目を擦ると、雲ひとつない明るい夏の空を見上げた。
船長と航海士の給仕は台所の小僧がすることになっている。
幸いなことにもう一人の小僧がその権利を絶対エヴァに譲ろうとしなかった為、同じ船の上にいてもアルテュスと顔を合わす機会は訪れなかった。
それでもある日、食事の時間に船長が自ら台所の方に歩み寄ってきたことがあった。
どうやら『悪酔いブイヨン』に話したかっただけのようだが、近くで鍋から料理をよそっていたエヴァは動揺し、丁度その時に船が波に揺すぶられて持っていた皿を中に入った塩漬けの豚肉とキャベツごと床に落としてしまった。
船の上では食料は貴重品である。
食べ物を粗末にした不器用な小僧は飛んで来た料理長に背中を小突かれ、もう少しで鞭打ちされそうになってしまった。
恐怖に目を見開いたエヴァは、それでも興味ないようにその場を離れて行く船長を横目で窺いながら、か細い悲鳴を上げて謝った。
「ごめんなさい。ごめんなさい!!! もう二度とこぼしたりしません!! 一週間ずっと食事抜きでいいから許してください!!!」
暫く相手の肩を掴んで睨みつけていた『悪酔いブイヨン』は、エヴァを乱暴に突き飛ばすと怒鳴った。
「おまえはそんなに華奢で小さいから今回は見逃してやる。だが、今度やったら鞭打つぞ!!!」
「はい、ありがとうございます!」
「おい、俺達は腹が減ってんだ。ごちゃごちゃ話してないでさっさと仕事をしろよ!」
「そうだ、そうだ!!」
痺れを切らした男達に怒鳴られたエヴァは慌てて袖で涙を拭くと、しゃもじを手に取った。
エヴァが遠慮したので、ニールという名のもう一人の小僧は残った料理を全部自分の皿に入れてしまった。
だが大盛りの皿を料理長に見られた小僧はこっぴどく叱られた。
「何でおまえがこの船の誰よりも沢山食べなくちゃならないんだ?! マリオに半分分けてやれ!」
「でも料理長。こいつは罰も受けてないし、自分の食べる分を床に落としてしまったと思えば……」
「黙れ!!! いつからおまえは俺に意見できるような立場になったのだ?! こいつの罰は俺が決める。おまえに関係ないんだ。いいから半分分けてやれ」
ニールは不服そうに唇を尖らすと、自分の皿からエヴァの皿にキャベツと豚肉を少しばかり移した。
何で料理長はこんな奴に優しくするんだ。
もし、僕がやったのだったら、躊躇なんかしないで鞭打ちの刑にしただろうに。
不公平だ!!
エヴァは自分が船に乗ってから色々と教えてくれたニールが、それから素っ気無い態度を取るようになったことを残念に思っていた。
私は仕事中に余所見をしないように注意しなければならないわ。
あの人の姿を探すのは休憩時間だけにしよう。
天気が良い日は甲板に残ることができるので嬉しかった。
遠くからでもアルテュスの姿が目に入ると胸がドキドキするのだ。
その日はあまり風がなく昼食の準備をしている時に料理長から、釣りをしている男達の所に行って魚が釣れたか見て来いと命じられたエヴァは桶を手に持って船尾に向っていた。
帆を潜って左舷に行くと、釣りをしている男達に混じってアルテュスの横顔が見え、思わず足が竦んでしまった。
どうしよう?
料理長が魚を待っているから引き返すことはできない。
エヴァは胸を高鳴らせながら男達に近付いた。
船縁に身を乗り出し桶に水を汲みながら、息を潜め近くにいる男の気配を敏感に感じ取ろうとする。
耳に入ったよく知っている男の声に思わず手が緩み桶が海に落ちてしまい、危機一髪の所で垂れ下がった縄を捕まえた。
私ったら何をしているのかしら?
また失敗して叱られてしまうわ。
やっと水が溢れる桶を甲板に引き上げると、アルテュスから顔が見えない位置に回り、エヴァは男の一人に声をかけた。
「釣れましたか?」
男は振り向いてエヴァを見ると、頷いて自分の足元にあった桶からヌルヌルと光る魚を手掴みでエヴァの桶に入れてくれた。
魚をもらったのにあまり長居をしてはおかしいと思い、桶を持ち上げると台所の方に戻ろうとした。
だがその前に、手を伸ばせば届く距離にいる男の逞しい背中を縋るように見つめてしまう。
その視線を感じたのか男がこちらに振り向きそうになり、慌ててその場を離れた。
台所に向いながらエヴァは、気付かれなかったことに安堵しつつも少しばかりがっかりした気分を抑えられなかった。
暇潰しに歌おうよ
美しい娘の過去の恋
娘は水夫のなりをして
船に乗り込み職を得た…………
航洋船の船長は水夫を船首楼に呼び付けて
微笑みながらこう言った
おまえの優しい顔も
金の巻き毛も、たおやかな姿も
あの人を思い出させるのだ
遠い港に残してきた愛しい人を…………
からかうのは止してください
南の島で生まれ育ったこの私
私は孤児で両親も私に似ている姉妹もおりません
北海から来た船に乗り
貴方の国の港に着きました…………
並んで縄を引く男達の間に力強い歌声が響き渡る。
唄のように船長が台所の小僧に気を留めることはなく、そのようにして時は過ぎていった。
台所の仕事にも慣れたエヴァは、酷い失敗をすることもなく毎日を過ごしていた。
朝、甲板に出ると一番に遠くからアルテュスの様子を確認することがいつの間にか日課となっていた。
起床の合図と共にハンモックから飛び降りて階段を駆け上がり、船室から出てくる船長の姿が見える位置に陣取って朝食のパンを切るのだ。
食事の時間はゆっくりと見ている暇はなかったが、日が暮れて船室に引き上げる前の一時、アルテュスが船縁に寄り掛かり海を眺めていることを知ったエヴァはその時間になると自分も甲板に出て胸を高鳴らせながら、暗い空に浮かび上がる黒い大きな影をじっと見つめるのだった。
季節は移り変わり、いつしか帆を靡かせる風も肌寒いものとなっていた。
その日は朝から辺りを包んでいた濃い霧の所為で、『ラ・ソリテア号』の乗組員達は近付く危険を前もって察知することができなかった。




