11-4
エヴァは無我夢中で暗い廊下に走り出た。
濡れた髪は解いたまま男物のシャツとズボンを身に付け、中に入れた藁が乾くようにと物置の中で木靴を脱いでしまっていたので裸足である。
ドシンドシンと凄まじい音と共に、まるで溺れかけているような誰かに助けを求めるような必死な叫び声がする。
あの声は船長さんだ。
船長さんが危険な目に遭っているんだ。
その時エヴァの頭からは、自分がアルテュスに捨てられたという事実はすっかり抜け落ちていた。
鍵がかかっていると思ったが、船室の扉は少しばかり開いて廊下に灯りが漏れ出ていた。
エヴァは壊れた錠前がぶら下がっている扉をそっと押すと中を覗き、途端に恐怖に目を見開いた。
壁には炎の消えそうなカンテラが吊り下がり、ゆらゆらと狭い船室の中を照らしていた。
ぷんと酒の強い匂いがエヴァを包んだ。
立っている所からはアルテュスの背中しか見えなかったが、自分の名を叫びながら壁に体当たりしている男はどう見ても気が狂っているとしか見えなかったのである。
壁から出来るだけ離れて弾みをつけ家具に体がぶつかるのも気にせず、一時も躊躇せずに頭から突っ込んで行く大きな姿は怖ろしいものであった。
「エヴァ……!!!」
耳を塞ぎたくなる程の激しい音を立てて壁に額を打ち付けた男は、暫くふらつくような危うい足取りで立っていたが、やがて気分が悪くなったのか額に手をやるとずるずると床に崩れ落ちた。
だが、直ぐにまた立ち上がるとよろよろしながら壁の方に向おうとする。
「止めて!! もう止めて!!!」
我慢ができなくなったエヴァは、悲鳴を上げて男の逞しい背中に縋りつき止めようとした。
「アルテュス!!」
後ろから抱き締める腕を振り払おうとしていた男はその声に急に固まったように動かなくなる。
そして、暫くの間、荒い息を吐きながらじっとしていたが、掠れた声で恐る恐る呟いた。
「……………………エヴァ?」
硬く筋肉の張り詰めた体からやっと力が抜けるのを感じたエヴァはそっと回していた腕を解いた。
男の手が自分から離れていくエヴァの手を掴む。
心臓がどくんと高鳴り手が震えた。
体の向きを変えたアルテュスは彼女の顔から視線を逸らし、きつく握った小さな手をじっと見つめている。
その額から血が流れているのを見たエヴァが何か言おうと口を開きかけると、急に手を放して床にがくりと膝をついた。
男が何か言ったがよく聞き取れなかったエヴァは、ほつれた髪が俯いた男の頭に触れるほど屈んで耳を澄ませた。
「……砲丸に腹をぶち抜かれたらいいか? それとも重石を首に括りつけて海に飛び込んだほうがいいか?」
彼は何を言っているのだろう?
「縛り首や斬首は簡単すぎるだろう。いったいどうしたら気が済む? 俺がどうやって死んだら君の魂は安らかになるのだ? 火刑か四つ裂きの刑か? 車裂でもいいぞ」
それ以上怖ろしい言葉が聞こえぬように両手で耳を塞いで叫んだ。
「止めて!」
「船の連中は俺に生きて後悔に苦しみ悶えろと言うのだ。だが俺はまだ十分に苦しんじゃいない。君以上の苦しみを味わって死ねば何とか……」
「もう何も言わないで」
「釘を打った樽に詰めて海に流されたら」
「いやよ。私は貴方にそんなことして欲しくない」
みるみる潤んだ青い瞳から涙が溢れて冷たい頬を伝っていく。
「俺は浅ましい奴だ。自分でやったことなのに。こんなになってもまだ、どんな姿でもいいから君に会いたいなどと思ってしまうのだ」
そして、アルテュスはいつの間にか床に座り込んでいたエヴァの顔を初めて見た。
大きな手がぎこちなく長い髪に触れる。
男は苦しそうに顔を歪めた。
「こんなに濡れて」
白い頬に流れる涙を震える指先でそっと拭った。
「こんなに冷たくなって」
眉を顰め唇を噛んで俯いた男をエヴァはじっと見つめた。
もしかして後悔しているの?
とうとうアルテュスは大きな溜息を吐くと自分の胸にエヴァの体を引き寄せた。
「あんな所で一人にしてごめん」
「……」
「守ってやると言ったのに。自分が酷い目に遭わせてごめん」
「……」
「怖い思いをさせてごめんな」
辛そうに耳元に囁かれる言葉にエヴァは口も利けずに涙を流している。
ぼんやりとしたカンテラの明かりがそんな二人の姿を照らしていた。
外は相変わらず雨なのだろう。
船長さんの匂いとお酒の匂い。
部屋の空気は冷たかったがエヴァは胸の中がほっと暖かくなるのを感じていた。
「自分勝手な俺の願いを聞いて……会いに来てくれて…………礼を言う」
アルテュスはかなり飲んでいるのか時々言葉を捜すように口を噤んで考え込んだ。
「…………だが……もうこんな所を彷徨っていないで……早く天国に行っておくれ」
どうやら彼は自分を幽霊だと思っているようだ。
エヴァは可笑しくなり思わずクスッと笑ったが、男は気付かないようだ。
眠気がするのか、気だるそうに壁に寄り掛かり目を瞑っている。
「もう、二度と会えない。俺は……愛する妻を殺めた俺は…………死んだら地獄に落ちるのだから」
思わず息を呑んだ。
「今何て? 今のもう一度言って?」
「……俺は君と同じ所には行けないから……二度と会えない」
「そうではなくて。私のこと、愛するって」
アルテュスは閉じていた目を開くと顔を顰めながら体を起こした。
「今更こんなことを言っても……」
エヴァは期待を込めて口篭った男の口元をじっと見つめている。
「……ずっと言いたかったんだ。つまらない自尊心さえ邪魔しなければ。だが、今となっては全て遅過ぎるだろう」
「言って」
哀願するように囁いたエヴァの唇を男の武骨な指がそっとなぞる。
「ずっと君を想っていた。いや、そんな生易しいもんじゃない。どうにかなってしまうほど君に恋焦がれていたんだ」
「だったらどうして?」
「別れの手紙を見て嫉妬に狂っちまった」
「手紙?」
アルテュスは大儀そうに懐から汚れて皺になった手紙を取り出した。
「これは……」
差し出された手紙を明かりに向けて読んでいたエヴァは驚きに目を丸くした。
所々インクが滲んで読めない文字もあるが、それは間違いなくエヴァが屋敷の女中の元婚約者に書いた手紙だったのだ。
どうして彼がこれを持っているの?
もう一通の手紙を広げたエヴァは混乱した。
書かれている内容が分からない。
……何これ?
私と一緒に駆け落ちするって、どういうこと?
誰がこんなこと……
背筋がすうと冷たくなる。
では、彼女は、サラはどうなったの?
エヴァは真っ直ぐに座りなおすと、また目を瞑ってしまった夫の方を向いた。
「船長さん。確かにこっちの手紙は私が書いたものだけど、貴方に宛てたものではないわ」
アルテュスは眠ってしまったのか、壁に寄り掛かり頭を妙な具合に曲げたまま動かない。
「誰がこんな悪戯をしたのか分からないけど、私は駆け落ちするつもりなんて全然なかった。だって貴方を愛していたから」
最後は呟くような小声で言ったので、もし仮に眠っていなかったとしても男の耳には入らなかっただろう。
暫く黙って考え込んでいたエヴァは決心したように口元を引き締めた。
やがて、立ち上がると両手に力を込めて男の大きな体を動かそうとした。
こんな曲がって眠っていたら寝違えてしまうわ。
本当に眠ってしまったようで、男はされるがままズルズルと床に横たわる。
寝床から毛布を取ってその体にかけると傍に跪いた。
「まだ貴方の許には戻れない。調べなければならないことがあるの」
ちゃんとアルテュスが息をしていることを確認すると、縮れた額の髪を掻き上げ、屈み込んで既に血の乾いた痛々しい傷口の脇にそっと口付けた。
夫の彫りの深い顔は無精髭の所為か以前より痩せて老けたように見える。
だが、やつれていても精悍さは失われておらず、彼はやっぱり凛々しい船長さんだった。
ランタンの灯りが間もなく消えそうに瞬いている。
「体を大切にしてお酒も程々にして、ちゃんと生きて。そして、私のことを忘れないでね」
男の耳元にそう囁くと、ポロリと一筋流れた涙を手の甲で掃い、立ち上がって扉に向った。
静かな寝息の聞こえる船室は既に闇に包まれている。
エヴァは物置に戻って大急ぎで身なりを整えた。
幸いなことに髪は少し湿っているだけで、着ているうちにシャツは乾いていた。
心が温かくなると体まで温かくなるから不思議だ。
そう思いながら木靴を履くと、エヴァは頬を染めて口元を綻ばせながら甲板に上がって行った。
もっと一緒にいたかったけれど、今は私は台所の小僧のマリオなのだから。
早く皆の所に戻らないと怪しまれてしまうわ。




