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竜騎兵と花嫁  作者: 海乃野瑠
第11章 幻
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11-3

初めの一週間は船酔いで仕事をするどころではなかった。


エヴァは一日中暗い船内でハンモックに横たわったまま情けない呻き声を上げていた。


今まで船に乗った時は全然何ともなかったのに、なんでこんなことになるの?


自分を雇ってくれた料理長と航海士に申し訳なくて弱い自分に腹が立ったが、起き上がることさえ出来なかった。


料理長は数日すれば慣れるだろうと笑って、酔い止めの薬草を煎じた湯をもう一人の台所の小僧に持たせてくれた。


ハンモックで寝るのは、船長の船室に設えてある頑丈な鎖で吊った寝床とは勝手が違い、コツを掴むまではその上に這い上がるだけでも大変だった。


広げて両端を鉤に引っ掛けると、ハンモックの方を向いて初めに片方の脚を乗せる。


そしてもう一方の脚を振り子のように動かして弾みをつけると、身体ごと回転させながらハンモックの上に仰向けに乗っかるのだ。


弾みをつけ過ぎると反対側に転がり落ちてしまう。


料理長の言ったように二週間目から大分気分も良くなり、食欲が出て来たエヴァはやっと甲板に顔を出した。


澱んだ空気の篭っている薄暗い船内とは対照的に、外は夏の日差しが眩しく爽やかな潮風が気持ち良かった。


料理長ともう一人の小僧との三人だけで、五十人を超す男達の食事を作るのは、それも彼らに文句を言われない食事を作るのは並大抵なことではなかった。


天気が良く風も少ない日には竈を使うことが出来たが、少しでも海が荒れると火災の危険があるため火は使えなかったのだ。


その日は幸いなことに竈に火を入れることが出来たので、エヴァは料理長の指図に従い、麻の袋に入った大量の豆の中から石やごみを取り除き、細切れにしたベーコンと一緒に大きな鍋に入れてスープを作った。


長い柄のついたしゃもじを両手で握ってスープをかき混ぜている時にふと思いつき、乾燥させた月桂樹の葉の他にパセリとタイム、それからこれだけは新鮮な葱を刻んで入れてみた。


どっしりとしたまな板の上で大きな丸い黒パンを十ほど薄切りにすると流石に手が痛くなり、人差し指の付け根に肉刺ができた。


食事の時間になると交代で並ぶ男達にスープをよそった椀とパンを小僧と一緒に配り、鍋の底に少しだけあまったスープを二人で分けて食べた。


食べ終わると今度は汚れた鍋や食器を縄の切れ端を巻いたタワシで擦って海水で濯がなければならない。


疲れ過ぎて口も利けないエヴァに『悪酔いブイヨン』は良く働いてくれた褒美だと杏を二つくれ、甲板の隅に行って休むことを許してくれた。


一緒に仕事をしていた小僧は既に昼寝をしに行ったのか姿が見えなかった。


よく熟した杏はとても美味しく疲れた身体に力が戻ってくるような気がした。


以前も思ったけれど、船の上で働くことは大変だけど全然辛いことではないわ。


エヴァは甲板の隅で船縁に寄り掛かり、周りで働く男達を眺めながら微笑んだ。


皆生き生きと楽しそうに働いているわ。




そんな風に少しずつ船の生活に慣れていったエヴァだったが、一つだけ気になることがあった。


船に乗ってからまだ一度も船長の姿を見ていないのだ。


船酔いで寝ていた時は会うことはないと思ったが、甲板に出てからは少なからず構えていたのに肩透かしを食らった気分だった。


台所を手伝うようになって一週間が過ぎた頃、とうとう我慢ができなくなって料理長に尋ねてみた。


「この船って船長はいないのですか?」


できるだけさりげない風を装ってそう聞いたエヴァに『悪酔いブイヨン』は呆れたような顔をした。


「本当に何も知らないんだな。『ラ・ソリテア号』の船長は『ラテディム海のオーガ』だって船に乗っている者だったら誰でも知っているぞ。本名はアルテュス・ド・タレンフォレストと言ってな。そこいらの航海士なんかより帆船の操縦に長け、ずば抜けて強い戦闘力を持ち、その器量と大胆さで他国の船乗りにも名を知られている男だぞ。そしてわしらにとっては愛すべき頼もしい船長だ」


まだ何か言いたそうな料理長をじっと見つめていると、男は鼻に皺を寄せて付け加えた。


「船長は最近あんまり具合が良くなくてな」


「病気なんですか?」


「いや、病気と言うか。少々頭がいかれちまったと言うか……」


口篭った男にエヴァは急き込んで尋ねた。


「まさか怪我をしたのですか?」


「まあ、おまえさんもこの船に乗っているからには知っておいた方がいいだろう。船長は最近奥さんを事故で亡くされてな、それからおかしくなっちまったのさ」


「奥様を? 事故で?」


「ああ、そうだ。事故だ。事故ではないなどと言う者がいたら俺が張り倒してくれるわ」


頭を振りぶつぶつと不満気に呟いている男を見ながら、エヴァは少しばかり頬を膨らました。


あの人は自分の意思で私を海に捨てたのに。


だが、この船の乗組員は皆船長のことが好きだから庇おうとするのだろうと思いあたり、そんな風に慕われている男が羨ましくなった。




硬い寝床に仰向けになったアルテュスは暗く低い天井を力なく見つめていた。


船の傾きによって窓から入ってくる光が壁の上で揺らいでいる。


そこから少女が優しい微笑みを自分に向けているのを知っていたが、そちらを見る気力はなかった。


自分はこんな風に段々と気が狂っていくのだろう。


今までは昼間は仕事をしていれば意識を逸らすことが出来たのに、最近はどこにいても彼女のことを想ってしまう。


甲板に立てば白い波の間に空色の衣装が見えないか目を凝らしてしまい、夏の空を見上げれば同じように青く澄んだ瞳を思い浮かべてしまう。


波の音からは彼女の笑い声が響き、風に膨らむ白い帆の影に頭巾のリボンが靡いているような気がしてくる。


そして、昼食に食べたスープまで彼女の作った料理の味がするように思えてしまうのだ。


ずっと船室に閉じ篭ったままの男の顔色は悪く、無精髭が頬と顎を覆い目の下には黒い隈ができている。


だが、男の苦しみは昼間だけではなかった。


夜になっても穏やかな眠りが訪れることはなく、汗でじっとりと湿った寝床の中で悶々としていた。


流石に三日程睡眠を取らないと意識が朦朧としてくるが、だからといってぐっすり眠れる訳ではなく、ウトウトしては悪夢を見て飛び起きることを繰り返すのに疲れ果てて、意識を失うまで酒を飲むのが習慣となっていた。


初めの数日は何とか船長の気を紛らわせて甲板に出てくるように説得しようとしていた航海士達も、諦めたのか船室に寄り付かなくなった。


一日二回料理長自ら運んでくる食事には殆ど手をつけず、酒ばかり飲んでいるアルテュスを『悪酔いブイヨン』は不安げな眼差しで見ていた。


船乗りにとって何よりも大事な財産は自分の体だ。


病気になったら船を降りなくてはならない。


このままでは船長は体を壊してしまう。


アルテュスは自分の部下達の密かな企みを知らなかった。


過去の女を忘れるには新しい女が必要だ。


次に訪れる港で彼らは船長を船から引き摺り下ろし、港町の女の許に引っ張っていくつもりだった。


そして数日間、男を誘惑することに慣れている女と一緒に閉じ込めてしまえば良い。


そうすれば、いくら奥さんが恋しくても、男だったら食指が動くだろうよ。




その日は朝から雨が降っていた。


暗い雲に覆われた空は今にも崩れ落ちてきそうに低く、斜めに降り注ぐ冷たい雨が銀色の針のように荒れた海の上に突き刺さる。


泡立ちながら船へと打ち寄せる波を背に男達は不満気に鼻を鳴らした。


穀物を挽いて水で練った食物はまるで漆喰のようだ。


冷たい夕食を配り終え、台所の周りを片付けたエヴァは、一目を避けて髪を乾かせる場所を探していた。


船員達がずらりと並んでハンモックを吊るす船内で髪を解くことはできないだろう。


人気のない船尾に向う途中、船尾楼に上がる階段の所で一人の男に道を塞がれた。


「おい、おまえ! 何処へ行く?」


「様子を見てくるように命じられて……」


勿論誰にも何も命じられてはいなかったが、解るでしょうという風に船室のある辺りを身振りで示すと、水夫は黙って通してくれた。


急いで船尾楼に上がると今度は中央にある狭い階段を下りていく。


こっちは船長さんの部屋だわ。


姿を見せない船長の様子を少しだけ覗いてみたい気持ちもあったが、見つかったらまずいことになりそうだ。


辺りはしんとしており、通路を歩くエヴァの木靴の音だけが響いている。


船長の船室の近くに予備の縄や帆を締まっておく物置があったのを思い出して、そちらに向った。


幸い鍵はかかっていなく、中に入ったエヴァは脚を縮めると戸を引き寄せた。


ここだったら髪が乾くまでいられるわ。


埃っぽい物置の中は、畳まれた布の上に腰を下ろすと殆ど動けないほど狭かった。


雨に濡れて重たい上着を苦労して脱ぐと身体に張り付くシャツから長い三つ編みを引っ張り出した。


上着を乾くように広げることはできそうもない。


何とか髪を解いたエヴァは立てた膝の上に額を乗せると溜息を吐いた。


風邪をひかなければいいけれど。


複雑な気持ちだった。




私は彼に会いたいのだろうか?


自分が傷付くことが分かっているのに?


あんな風に何の説明もなしに捨てられたのが、気になっているのだわ。


私と結婚したことを後悔している、別れたいとはっきり言ってくれれば良かったのに……


悲しい気持ちで考えていたエヴァは、ふとあることに気付いて青ざめた。


でも、私が生きている間は他の女の人とは結婚できないのだわ。


だから殺そうとしたのね……


私は彼の船に乗ってどうしようとしていたのだろう?


涙がぽろりと零れた。


泣いては駄目。


船長さんのことはもう忘れよう。


冬までちゃんと働いて、黙ってティアベで船を降りればいいのだわ。


それでも疲れていたのだろう。


いつしかウトウトしていたエヴァは突然聞こえてきた物音に飛び上がって目を覚ました。


心臓がドキドキしている。


海賊が襲ってきたのだろうか?


寄り掛かっている壁が何かが激突したようにビリビリと震えている。


苦しそうな男の叫び声がする。


エヴァは恐ろしさに身を竦ませた。


何が起こっているの?


ここに隠れていたら大丈夫なのかしら?


だが、エヴァは新たな衝撃と共に耳に入った声にハッとすると立ち上がった。


「……エヴァ!!!」


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