11-1
春になって船に戻る前にマリナと婚約する。
婚礼は、多分秋頃になるだろうと思われる次の休暇に挙げられるように準備を進める。
そう決心したのだが、まだ本人には話せていなかった。
最近はルイスが傍に近寄るだけで、顔を引き攣らせて逃げ出すようになってしまったのだ。
窓際に立った男は陽のあたる庭を見下ろすと、苦虫を噛み潰したような顔をして肩を竦めた。
そこには一足早く訪れた春のような薄い緑色の服を着たマリナの姿が見えた。
見られているとは知らない娘は嬉しそうに笑っていた。
猟犬が二匹じゃれ合いながら彼女の周りを走り回っている。
動物相手だとあんなに自然な笑顔を浮かべるのだなとルイスは苦々しく思った。
どっちにしろ彼女に選択肢はないのだ。
親の許に帰りたくないと言うのなら、ここに残るしかないだろう。
そして母がいるこの家にマリナをこのまま残していくことはできない。
結婚さえしてしまえば母だって彼女を認めざるを得なくなるに違いない。
それは彼女の為なのだとルイスは自分自身を納得させようとしていた。
帰る家もない彼女を不憫に思っているからだ。
でなければ誰があんな小娘を妻にしたいなんて思うか。
確かに愛らしい姿をしているが、母の選んだ花嫁候補の中にはもっと美しく洗練された女がいた。
この数ヶ月マリナを観察した結果、どうやら良家の子女ではなさそうだという結論に至ったのだ。
俺が留守の間、屋敷の管理をきちんとできるか不安だが、あの正直そうな瞳は絶対に不義をはたらいたりはしないだろう。
一年の大部分を海の上で過ごす船乗りにとって、それは大事なことだった。
幸いなことに母上もまだ達者だし、傍にいれば色々教わることができるだろう。
ルイスはこれでこの件は片付いたとばかりに窓から目を逸らすと扉に向った。
だが、まだ疑問も残っている。
何故あんなボートに乗って海に出たのか?
見つけた時、何故あのような豪華な衣装を身に纏っていたのか?
何故読み書きが出来るのか?
ルイスは自分自身を納得させるように力強く頷いた。
別に今全てを明らかにしなくても、結婚してしまってからゆっくりと話を聞けば良い。
時間はたっぷりとあるのだ。
薄暗い部屋の暖炉にはまだ赤く熾った炭火がちらちらと瞬いている。
エヴァが使わせてもらっている以前は家庭教師が住んでいたというその部屋は狭く質素に纏められていた。
小さなベッドに礼拝用の机、それから長持と家具も最低限しかなかったが、エヴァにとっては十分居心地の良い部屋だった。
不透明なガラスの嵌めこんである小さな窓からは朝の内にしか日が入らなかったけれど、窓を開け放つと屋敷の裏にある鬱蒼とした森を臨むことが出来た。
春も近付くと夜明け前には森からは陽気な鳥の囀りが聞こえるようになり、エヴァは嬉しかったのだ。
だがその日の夕方、いつもの時間よりも早く何かから逃れるように慌しく部屋に戻って来たエヴァは、暖炉前の椅子にがっくりと腰を下ろすと両手で頭を抱えた。
中佐様は頭がおかしくなってしまわれた。
さっきは、もう少しで自分が既に結婚していることを話してしまいそうになった。
重婚は禁じられているから、もう二度と会わないとしても船長さんが生きている限り私は他の誰とも結婚できない。
それに中佐様は立派な方だと思うし、とても感謝しているけれど、もし私が自由な身だったとしても彼の妻にはなりたいと思わないわ。
それは、彼との結婚が船長さんとのそれと同質だと分かっているから。
この家では自分の居場所を見つけるのは更に難しいだろうし、ただ守られるだけの関係は嫌だった。
中佐様も本当に愛しい方が現れたら、船長さんのように簡単に私のことを捨ててしまうだろう。
財産も地位も持っていない私が彼らと対等な立場というのは無理だから仕方がないことだ。
同じ身分の男とだったら対等になれたかも知れないけれど、本のない仕事だけの生活は思い浮かべることもできなかった。
だからと言って何も持っていない女が一人で身を立てられるとは思っていない。
修道院に入るのは嫌だし、だったらやっぱりこの前決めたようにするしかないわ。
でもどうやったら中佐様に承諾してもらえるのだろう?
最近、中佐様は私を見るといつも不機嫌になられるから……
「俺が留守の間、マリナの保護を頼む」
ルイスが前に跪く騎士達にそう命じると、三人の男は承諾の印に頭を深く垂れた。
いずれも父の代から屋敷に勤めている忠実な信頼できる男達だ。
「できるだけ彼女が自分の部屋を離れないように見張っていて欲しい。一日一回、庭に出るのについて行ってやってくれ。食事も部屋まで運ばせる」
そう言うと騎士達は当惑した顔を上げた。
「マリナ様を監禁なさるということですか?」
「監禁とは人聞きの悪い。守ってやりたいだけだ」
ルイスは彼女に最後に話した時の様子を思い浮かべ、腹立たしげに眉間に皺を寄せ唇を歪ませた。
あんな優しい顔をしている癖に何と強情な娘だ!!!
結局、出発するまでに婚約することは叶わなかった。
マリナが拒んだのだ。
嫌われているのかと思ったが、身分がどうのこうのと言っていたから、どうやらそうではないらしい。
ルイスは何故自分が彼女にこのように執着するのか分かろうとしなかった。
若い頃の苦い思い出の所為で、ルイスは自分の意思に従わない者が我慢できなかったのだ。
その頃、海軍士官になりたての若いルイスの部下の中に反抗的な態度を取る少年が一人いた。
同い年の子供達と比べて驚く程発育のよかったその少年は、14歳で既に大人の体格をしていたということも、彼の態度に影響していたのだろう。
ルイスをあのようにてこずらせた部下は今日まで他にいなかった。
初めは仲良くなろうと努力したのだ。
だが、仕事の中でルイスにとって我慢ができないことが度重なり、少年の人を馬鹿にしたような態度は上司の冷静さを失わせ、やがて事あるごとに二人は衝突するようになってしまった。
叱られている間も皮肉を込めて見返してくる眼差しに堪えることができず、自分の手が痛くなるまで殴ったこともある。
絶対に涙を見せない少年が気絶するまで鞭打ちを命じたこともあるし、三日間食べるものも与えずに牢に繋いだこともあった。
数年後のある日、いつものように口答えをした少年――いや既に少年ではなかったのだが――を殴りつけようと上げた手を掴んだ相手は言ったのだ。
「先程辞表を出してきたから俺はもうあんたの部下じゃない。それでも良いと言うならいつでも相手になるぞ」
反抗的な癖に航海術にはずば抜けて優れていた部下を失ったことに苦い敗北感を感じながら、ルイスは去っていく男の逞しい背中をいつまでも見つめていた。
暫くの間、消息の知れなかった元部下は、数年前から海賊紛いの仕事をしていると風の便りに聞いた。
ルイスが軍船『セレスタ号』に戻ってから一週間程経ったある日、エヴァは騎士達の目を盗んで部屋をそっと抜け出した。
足音を忍ばせて階段を上がると、この数ヶ月間ずっと避けてきた部屋の扉を叩いた。
扉を開けた侍女はエヴァの顔を見るとびっくりした表情で後ろの主人を振り返る。
「誰?」
「奥様、マリナ様でございます」
女の膝から飛び降りたむく毛の犬が走ってきて、招かれざる客に向ってきゃんきゃんと鳴いた。
エヴァは臆する気持ちを奮い立たせ、香水の香りのする贅沢な内装の部屋の中に足を踏み入れた。
安楽椅子に腰掛けてトランプをしていた女の前に進むと頭を下げる。
「よくもずうずうしく私の前に顔を出せたわね」
エヴァは俯いたまま唇をギュッと噛んだ。
そしてスカートを握り締めると視線を上げ、女の険のある視線を受け止めた。
「今日はお願いがあって来ました」
ルイスの母親はフンと鼻を鳴らして黙っている。
「奥様がご心配なさっているように私はご子息とは結婚しません。でもこのままここに残っていることはできません」
息を吸い込むと一息に言った。
「私に男物の服と油紙とシーツを二枚ください。そうしたらここを出て、二度とご子息の前に姿を現さないことを誓います」
暫くエヴァの顔をジロジロと見ていた女がやっと口を開いた。
「貴方の望みの品を揃えさせましょう」
エヴァは空色の衣装を畳むと油紙に包み、それを今度は麻のシーツで包んだ。
そして、もう一枚のシーツを引き裂いて長細い帯を作ると、着ている服を脱いで丁寧に畳む。
もう二度と男の格好はすることないと思っていたけど。
胸に布をきっちりと巻きつけて、その上から男物の服を身につける。
髪は服の中に隠し黒い帽子を目深に被った。
最後に首に真珠の首飾りを巻くと、シャツの襟で隠れるように首元に通した紐をきつく締め上げた。
港町に行ったらこの首飾りを売って旅費を作る予定なのだ。
中佐宛の分厚い手紙をベッドの上に残すと、荷物を担いだエヴァは半年間暮らしてきた部屋を後にした。
約束通りルイスの母親は騎士達を遠ざけてくれたようで廊下には誰もいなかった。
エヴァは自分の姿を見て走り寄ってきた犬の頭を撫でると囁いた。
「ごめんね。行かなくちゃならないの」
門を出ると近くに止まっていた馬車から御者が降りてエヴァの方に歩いて来た。
「港まで送るようにと奥様から言い付かっております」
エヴァが乗り込むと座席の上には小さな皮の袋があった。
中には金貨が二枚。
「ありがとうございます」
遠ざかっていく屋敷を馬車の窓から見つめながらぽつりと呟いた。
ルイスの母親はこの娘を厄介払いできることを喜んでいたが、やはり良心が少々咎めたのだろう。
それに港まで送って旅費を与えれば、息子が戻ってくる時までこの娘が港町をふらふらしていることはないと思ったのか。
やがて屋敷が見えなくなり、エヴァは座席に座り直した。
しっかりしなくては。
まずは港に行ってティアベ行きの船を捜すことだわ。




