10-6
食糧貯蔵室に所狭しと積んである樽や麻袋を満足そうに確認した男達は、灯りに驚いて床を駆け回る動物の鳴き声に声を上げた。
「おい、鼠がいるぞ!」
「直ぐにでも鼠狩りを計画しなければならんな。イタチを放すように言っておけ」
『ラ・ソリテア号』には鼠を退治する為にイタチを乗せているのだ。
食料貯蔵室を出た一行は、船首を目指して暗い船底を進んでいた。
「何だこの匂いは」
カンテラで廊下を照らしていた男が鼻に皺を寄せて呟いた。
確かに辺りには鼻をつんと刺激するような臭いが漂っている。
何か腐った物と尿と汗の入り混じったような強い臭いである。
「家畜を乗せているんだろう」
アルテュスはそう言うと、男達にさっさと進むようにと促した。
やがて、男達は外側から大きな鉄の閂で閉じられた船倉の分厚い扉に突き当たった。
だが、扉を開くと途端に吐き気を催すような強烈な臭いが男達を包み、入ろうとした彼らの足を竦ませた。
同時に波の音や何か軋むような音に混じって異様な物音が耳に入る。
祈りの言葉を呟いているような低い声と重い鎖を引き摺る音。
アルテュスは男のカンテラを取り上げると、辺りを照らすように前に掲げた。
暗闇の中にギラギラと光る目玉がずらりと見えて、隣に立った男が怯えたような声を出す。
「こりゃいったい何の動物ですか?!」
「……人間だ」
アルテュス達が捕獲した大型ガレオン船は奴隷貿易船だったのである。
翌日は朝早くから戦死した者達の弔いで忙しかった。
帽子を握り締めてその様子を見守っている『ラ・ソリテア号』の乗組員は、麻の袋に縫い込まれた仲間が海に落とされる度に、申し訳なさそうに顔を顰めて胸に十字を切った。
長い航海の間、共に辛酸を嘗めてきた同僚がいなくなってしまったのは悲しかったが、同時に自分が生き延びれたことにホッとしていたのだ。
彼らの魂が安らかに眠れますように。
地上を彷徨って、俺達を海の底に誘き寄せるようなことがありませんように。
「それで、どうするのですか?」
食事中、前に座ったメレーヌに尋ねられたアルテュスは溜息を吐いた。
「俺はどんな姿をしていたとしても、人を品物のように売り捌くことは感心しない。ギースの軍港にガレオン船を引いて行き、捕虜のことも含めて海軍の判断に任せたいと思う」
「でも、あれだけの人数だったら一儲けできますよ。捕虜だって近くの港で海事当局に引き渡せば良いじゃないですか。何でまた今まで絶対寄り付こうとしなかったギースに向う気持ちになったのです?」
アレンが口を尖らせて不服そうに言った。
「随分時間が経ったからな。思い出したくない嫌な過去だったんだが、もうどうでもよくなった」
「ギースまでは2週間程ですかね?」
「そうだな。俺達だけではないからな。もう少しかかるかも知れん」
アルテュスが話は終わったとばかりに殆ど手をつけていない皿を持って立ち上がったので、アレンは仕方なく肩を竦めると船長の背中に呼びかけた。
「彼らの世話は?」
「港に着くまでは一人も死んだりしないように、ちゃんと食べさせて出来るだけ船倉も清潔にしておくように頼んだぞ」
そう言うと、航海士の抗議も聞こえない様子でさっさと船室に下りて行った。
後に残されたアレンは膨れっ面で文句を呟いた。
「らしくもなく良心的になっちまって。修道士にでもなるつもりかよ?」
アルテュスは船室の扉に鍵を掛けると、上着を脱いで寝床の上に放った。
昨日から着たままのシャツは皺が寄って袖が破れ、点々と血の染みがついていた。
それも脱ぎ捨てると、上半身裸のままトランクの前に膝をついて中から新しいシャツを出す。
俯いて唇を血が滲むほどきつく噛み締めながら袖に腕を通した。
エヴァが自分の為に一針一針心を込めて縫ってくれたものだ。
それから、アルテュスは寝床に歩み寄るとその脇の壁に掛けてある額に被せた布を取った。
その途端、ぴくりと身を震わせる。
柔らかな丸みを帯びた頬に、人を疑うことを知らない大きな澄んだ瞳、口元には優しい微笑を浮かべている懐かしい妻。
ぴったりとした純白の頭巾に包まれた髪は、解くと蜂蜜色で甘い香りがして……
「エヴァ……」
絵を見つめる男の唇から苦しそうな声が漏れる。
どんな姿でも良いから、もう一度会いたい……
そんな思いを振り払うように額を壁に打ち付ける。
天国にいる彼女とは二度と会えない。
俺は死んだら地獄に落ちるのだから。
「……許してくれ…………」
聞く者のいない懺悔の言葉は、狭い船室に空しく響いた。
「マリナ」
ルイスは苛立つ心を静めようと暖炉の前の椅子に腰を下ろし、体を緊張に強張らせて立っている女にも座るようにともう一つの椅子を示した。
先程から何とかマリナを説得しようとしているのだが、彼女はどうしても俺の質問に答えようとしない。
今も硬い表情を崩すことなく椅子に浅く腰掛けると、俯いてスカートを引っ張って皺を伸ばしている。
男は溜息を吐くと、できるだけ落ち着いた声で話そうとした為、いつもよりも低い声で言った。
「マリナ、こちらを向いてください」
「……」
顔を上げた娘をまるで追い詰められた小動物のようだと苦々しく思いながら、ルイスは話し出した。
「いつも貴方が耳を貸そうとしないから最後まで話せていないが、春になったら私は船に戻らなくてはならない。このままの貴方をこの家には残していけないのです。貴方には二つの選択肢がある。一つ目は、既に何度も尋ねたように、お父さんの名前と住んでいる場所を教えてください。そうしたら、私がそこまで送って行こう」
「……」
「お父さんは生きているのかと尋ねた時、貴方は頷いたではないか。家に戻りたくない理由があるのなら、無理に帰すつもりはないが、理由を教えて欲しいのです」
「……」
「マリナ、マリナ、何故答えてくれないのです! 私は貴方の為を思って話しているのだ。何故そんなに頑なに拒むのですか?」
ルイスが思わず声を荒げて立ち上がると、女も弾かれたように慌てて立ち上がった。
「マリナ!!」
部屋を出て行こうとする娘の腕を掴んで引止めた。
「貴方の意向を聞いてあげようと思ったのだが、その驢馬のように頑固な性格は私に選択肢を与えてくれない」
そう言うと、強引に女の体を捕らえ自分の胸に引き寄せると小さな顎に手をかけた。
か細い悲鳴を上げたエヴァを驚いたように放した男は、目を丸くして口を開けた。
「マリナ、声が……」
顔を真っ赤に染めて瞳を潤ませたエヴァは、ルイスの腕から逃れると後も見ずに居間から逃げ出した。
そして、階段を駆け上がり自分の部屋に戻ると扉に鍵をかけ、ベッドに身を投げ出した。
中佐様は何であんなことをしたの?
どうしよう?
どうしたらいいの?
もうここにはいられない。
どこへ行けばいいのだろう?
「泣いては駄目。考えるのよ」
声は一度出すと、口を利けなくなったことが嘘のように普通に話せた。
生きていくのには、お金が必要だ。
でも、代書人の仕事はもうしたくない。
エヴァは城の女中が家出をしたことを自分の手紙の所為だと思っていたのだ。
私にできることって他にあるだろうか?
家事は一応できるわ。
どこかの屋敷で雇ってもらえるかしら?
その時、ふとある考えが頭に浮かび、エヴァは決心したように口元を引き締めるとベッドから飛び降りた。
「とんでもない! そんなこと私が許すとでも?」
「母上のご意見は尊重します。しかし、この前も母上が仰られたようにこの家の当主は私です。私が決めます」
「自分の親の名前も言えないなんて、何か疚しいことがあるに違いないわ。今までだって唖の振りをしていたに決まっています。貴方は騙されているのよ」
「母上、もうこれ以上話すことは何もありません。失礼します」
固い口調でそう言ったルイスが足早に部屋を出て行くと、母親は深い溜息を吐いて椅子によろよろと崩れ落ちた。
気分が悪くなりそうだった。
五人の子供のうち一人だけ生き残ったルイスは、両親の自慢の息子だった。
そして夫が亡くなり、家を継いだ息子にお似合いの嫁を探しているところだったのに。
なかなか身を固めようとしなかったあの子は、突然海から連れ帰った魔性の女に惑わされてしまった。
彼女の目を見れば分かりますって?
綺麗な皮を被った魔女かも知れないのに。
海にはそういう魔物が溢れていると聞いたことがある。
「奥様、大丈夫ですか?」
部屋に戻って来た侍女に声をかけられて初めて自分が涙を流していることに気がついた。
実家から自分についてきた中年の侍女は、召使いというよりも腹心の友に近い。
「アネッサ、おまえはどう思う?」




