10-4
数日後、荷造りを終えたアルテュスは、仲間達に2週間で戻って来ると約束をしてトリポルトに向けて旅立った。
だが、町を出る前にある建物の前で馬車を止めさせ、御者に暫く待つように言って中に入って行く。
煤に汚れ石には苔の生したその建物の入り口には門番の小屋があったが、用を足しにいっているのか誰もいなかった。
アルテュスは案内も待たずに中に入ると、階段を上り薄暗い廊下を進んで突き当たりの部屋の扉を叩いた。
男の声がそれに応え、引き摺るような足音が扉に近付いて来た。
扉についている小窓が開き、外にいる人間を確認しているようだ。
「先日、仕事を頼んだ者だ」
「ド・タレンフォレスト様ですね」
鍵を開けた男は部屋の中にアルテュスを招き入れた。
建物の中でも毛皮の外套に身を包み、やはり毛皮のついた黒い帽子を被った中年の男だ。
立てた襟と帽子の間から覗く赤ら顔は白髪の混じった髭に覆われている。
天井の高く広い部屋は薄暗く寒く、所狭しと様々なガラクタが置いてあるようだ。
だが、暗さに目が慣れてくると、ガラクタと思われたのは大小の額に入った絵画だったことが分かる。
大部分には布が掛けてあり、風景画あるいは肖像画なのか見ることができなかった。
ミシミシと軋む床の上をアルテュスは男の後について、家具の陰になっている隅の方に歩いて行った。
そして、立ったまま懐から財布を取り出すと、机の上に投げ出した。
「約束の金だ」
台に上がって棚の上から布に包んだ四角い物を降ろした男は、それを両手で抱えて机の上にそっと置いた。
包みを解こうとした男をアルテュスが身振りで止める。
「ご確認なさらなくて良いのですか?」
「ああ、そのままでいい。ご苦労だった」
アルテュスは領収書を受け取ると、包みを小脇に抱えて足早に建物を出て行った。
待たせておいた馬車に飛び乗り、出すように命じて座席にどさりと腰を下ろす。
御者がパシリと鞭を鳴らし、走り出した乗り物は町を出て解けた雪で泥濘んだ田舎道を進んで行く。
四角い包みを大事そうに膝の上に抱えたまま、アルテュスは魂を抜かれたかのようにぼんやりと馬車に揺られていた。
寄木細工で床を覆った贅沢な部屋は鬱金色と萌黄で纏められていた。
奥の壁には、彫刻され金箔で覆われた額縁にキラキラと輝く大きな鏡が嵌め込んである。
ガラスのついた窓には重たいビロードのカーテンがかかっている。
暖炉には赤い火が燃え盛り、部屋の中には濃厚な香水の香りを含んだムッとするような暖かい空気が篭っていた。
そして、暖炉前の安楽椅子には、むく毛の子犬を膝に乗せた年配の婦人が腰掛けていた。
レースの襟以外は飾り気のない黒っぽい服を着ているが、結い上げた白髪に輝く髪飾りと大きな宝石のついたペンダントが女の身分を示している。
若い頃はさぞかし美しかったと思われる女の顔は青白く、頑固な性格を表すように眉間と口元に深い皺が刻まれている。
女は斜め前に立った息子の方を見もせずに、犬の毛に白く細い指を通しながら口を開いた。
「それで、どうなさるおつもり?」
「彼女が口が利けるようになるまでは、ここに置いてもらいたいと先程から……」
「ご自分のなさっていることをちゃんと分かっているのでしょうね? 貴方はド・クレリゴー家の当主なのですよ。身元の知れない唖の女など連れてきて」
女は自分が苦労して纏めようとした縁談を次から次へと断る息子に憤慨していた。
また面倒なことは自分に任せたまま、さっさと死んでしまった夫に対しても腹を立てていた。
だが母親のそんな気持ちに気付かないようにルイスは突っ立ったまま、イライラと上着から出ているシャツの袖を引っ張っている。
「では、母上は身寄りのない可哀想な娘をこの寒い中に放り出せと言われるのですか?」
「そのようなことは言っていません。大体ちゃんとした家の娘だったら何故一人で海になど出たのです?」
「何か事情があるのですよ。とにかく、陸にいる間は私がマリナを保護しますので」
ルイスはそう言って、母親に頭を下げると反対される前にそそくさと部屋を後にした。
「マリナ、今日は天気も悪くない。ギースに行って見ませんか?」
与えられた小部屋の窓際に座って刺繍をしていた娘はその声に顔を上げた。
黄色い花模様の描かれた薄紅色のふんわりとした服を纏い、頭には縁をレースで飾った薄手の布を巻いている。
その姿を満足そうに見ながらルイスは思った。
思ったとおりこの娘にはこのような明るい色が良く合う。
母上が怒っているのは、俺が彼女に亡くなった妹の服を貸してやったからだ。
これから町に行って新しい服を作ってやるつもりだが、出来上がるまで普段着代わりにあの豪華な空色の衣装を着せておく訳にもいくまい。
着替えを持っていないマリナに、放っておけばどうせ虫の餌食になる服を少しばかり貸してやって何が悪いのだ。
幸いなことに小柄でほっそりしていた妹の服はマリナにぴったりだった。
召使に妹の外套と帽子を持って来させると、自分も毛皮の外套を羽織って玄関に向った。
ガタゴトと騒がしく走る馬車の中、ルイスは向いに座るマリナに説明する。
「ギースでは毎年クリスマスの季節になると市が開かれるのです。その期間は近辺の町村から大勢の人が集まって来て、港には外国の船も多いから色々面白い物が見れますよ」
確かに自分がマリナを町に連れて行ったら、これからどんな噂が流れるかは見当がつく。
俺は構わないが、彼女はどう思っているのだろうか?
俺と噂になったりしたら迷惑なのだろうか?
じっと見つめるていると、マリナは頬を染めて居心地悪そうに視線を逸らした。
そんな様子を見ながらルイスは考える。
母上も一目見れば分かるだろうに、一度も会おうとしないのだから。
この娘の顔には気立ての良さが表れている。
高貴な生まれではないかも知れないが、表面だけ美しい偽善者達と比べたらどれほどましか。
ふと妙な考えがルイスの脳裏を過ぎる。
もし、いつまで経っても声が出せないままだったら、いっそのこと妻にしてしまったらどうだろうか?
エヴァは祭りの雰囲気を楽しんでいた。
この地方特有の尖った塔のある大きな教会の前広場は、市に来た人々で大いに賑わっていた。
外国の商人に近くの村から来た農夫、晴れ着を着た娘や一張羅を身に纏った船乗り、そして買い物に訪れた客に混じって武装した警備兵の姿がちらほら見えた。
ティアベの市とは比べ物にならない賑やかさだ。
屋台を一つ一つ見て歩いていた二人は、途中で魚のフライを摘んでビールを飲み、立ち止まって大道芸人の芸や芝居を見た。
喜劇役者の夫婦が舞台の上で喧嘩をして男の方が大袈裟な身振りで尻餅をつくと、観客はワッと拍手喝采して笑い転げた。
エヴァも思わずクスリと笑みを漏らす。
笑うのは本当に久し振りだ。
エヴァは隣の男が満足そうに自分のことを見ているのに気付かなかった。
占い師の小屋に行ってみようと誘われ、ルイスの後に続いて人混みから出たエヴァは、小屋の前の木に寄りかかり背を向けて立っている男を見かけると息を呑んで立ち止まった。
黒っぽい服に身を包んだ男はずば抜けて背が高く、逞しい体つきをしているのが後ろからでも分かった。
黒い縮れた髪が帽子からはみ出している。
ルイスが驚いたように自分を見ているが、体が強張ったように動かない。
「どうしたのです? 気分が悪いのですか?」
ドクンドクンと耳鳴りがする中、気遣わしげな問いが遠くに聞こえた。
どうしてこんな所で会ってしまうの?
船長さんはもう私の顔も見たくない筈なのに。
エヴァはルイスの後ろに隠れるようにして大きな男の背中を見つめていた。
その時、小屋の中から若い娘が出てきて、待っていた男の腕を取った。
エヴァ達の所からは、女が顔を紅潮させて何やら熱心に男に話しかけているのが見えた。
胸がズキンと痛んだ。
あの人の新しい恋人、それとも新しい奥さんなのだろうか?
馬車に乗ってからずっと寒そうに青ざめた顔をしているマリナを向かいに座る男は気遣わしげに見守っていた。
窓から外を覗いているが、その目には外の景色は何も映っていないようだ。
市を見ている時は寛いでいるように見えた。
芝居を観ていて笑顔さえ浮かべていたのに。
あそこで彼女は何を見たのだろう?
ルイスはマリナが怯えたように自分の背中に隠れた場面を思い起こした。
あの時、自分達は占い師の小屋に行こうとして、急にマリナが立ち止まったのだった。
別に怖がるようなものは辺りに何もなかったと思う。
小屋の前には笑い合っている恋人達がいた。
近くの村から祭りに来たと思われる若い男女の他に回りには誰もいなかった。
マリナは何にあんなに怯えたのか?
結局テントには入らずにそのまま帰って来てしまったが、もし占い師に会いに行っていたら何か分かったのだろうか?
この娘のことを理解したい。
独りで海の上を漂っていた理由、口を利けなくなった原因を知りたい。
何があったのか?
何故こんなに悲しそうな瞳をするのか?
同情を込めた視線でマリナの方を伺いながらルイスは決心した。
マティアスにはあまり質問をするなと言われたが、家に戻ったら様子を見て話してみよう。
「確かに、これはどう見ても別れの手紙だな」
マテオ・ダヴォグールは手紙をテーブルの上に投げ出すと、向いに座って頭を抱え込んでいる親友を見つめた。
テーブルの上には食後に召使が持って来た胡桃の入った鉢と酒の入ったコップがあった。
「それで……」
口篭ったマテオにアルテュスが顔を上げる。
「何だ?」
「貴様はどちらの方が楽になるのか?」
「……」
「これが偽物だった方がいいのか? それとも……」
「分からないんだ。エヴァが俺を裏切ったことが事実だと知ったら、良心の呵責は減るのだろうか? だが同時に胸の苦しみは増すのではないか?」
「貴様は何でまた女にそんなにのめり込むんだ? 浮気されたらさっさと離縁して別の女を捜せばいいだろう? この世の中半分は女なんだから」
「……」
「貴様に否という女は滅多にいないだろうに」
アルテュスは黙ったまま、テーブルの上の半分酒の入ったコップを虚ろな瞳で見つめている。
「何故彼女でなくてはならないのだ?」
口篭った男を幾分哀れみの浮かんだ眼差しで見ながら言った。
「それは、ただ彼女を自分の所有物として見ていたからではないのか? 飼い犬に手を噛まれたとでも思っているのではないか?」
「違う!! 俺は……」
テーブルの上でギュッと拳を握り締めると俯いた。
俺には今更そのようなことを言う資格はない。
彼女を愛していたなどと……




