10-3
戸を開けた中年の女は背の高い男の頭から爪先までジロジロ見ると、頭を傾げながら口を開いた。
「あんたはもしかして……」
「ゴンヴァル殿の息子だ」
アルテュスの言葉に女の表情が少しばかり緩んだ。
ゴンヴァルの世話をしている女だろう。
エヴァの被っていたような頭巾で頭を包み、黒い服に前掛けを着けている。
引き締められた薄い唇と頑固そうな顎をしているが、茶色の瞳は鹿の目のように優しい。
「ここの所あまり具合が良くなくて、寝込んじまっているんですよ」
台所の暖炉脇の釘に雪に濡れた外套を掛けながら女が言った。
冬になると持病のリウマチが酷くなるのだとエヴァが言っていた。
「おまえさん、お客様だよ」
小さな暖炉に赤々と火が焚かれた薄暗い部屋は暖かかった。
壁にはめ込んだベッドの中に口元まで毛布をかけて横たわっていたゴンヴァルが扉の方に顔を向ける。
アルテュスはギュッと拳を握り締めると部屋の中に足を踏み入れた。
客を通す為、扉を押さえて脇に避けた女は一緒に話を聞くつもりはないらしい。
飲み物を持ってくると言って、そっと扉を閉めると台所に戻って行った。
「義父上……」
お元気かと尋ねそうになったアルテュスは、口を噤むと俯いて首を振った。
前回見た時よりも一回り小さくなってしまったように見えるゴンヴァルは、とても顔色が悪く全然元気そうではなかったのだ。
勧められた椅子に腰を下ろしたアルテュスは、娘そっくりの青い澄んだ瞳で見つめられ、居心地悪そうに身動ぎして目を逸らした。
ゴンヴァルは不安に揺れる瞳でじっと娘の夫を見つめていたが、やがて恐る恐る口を開いた。
「……娘は、エヴァは死んだのですね?」
頬を殴られでもしたかのようにアルテュスは蒼白な顔で立ち上がるとベッド脇に跪いた。
「申し訳ない」
「……」
「貴方の大事なお嬢さんを私が殺してしまった」
深く頭を垂れて呻くように呟いた。
「それでも、あの子は幸せだったのでしょう?」
期待を込めたその言葉に、苦しそうに顔を歪めて頭を振る。
幸せだった筈がない。
俺に出会ったことがエヴァの不幸の始まりだったのだから。
薪の爆ぜる音だけがパチパチと響く静かな部屋の中、二人の男は暗い表情で、それぞれの想いに浸っていた。
「どうぞ」
いつの間にか部屋に戻って来ていた女が、アルテュスに温めた飲み物の入ったコップを勧めた。
いつか同じような寒い冬の日、エヴァが作ってくれたものと同じ香りがする。
熱い葡萄酒を啜ると香辛料の香りが鼻腔に広がり舌が痺れた。
ずっと黙っていたゴンヴァルが体を半分起こし、女に近寄るように手招きをした。
「隣の部屋にあるあれを取って来てくれ」
「はい」
暫くして部屋に戻って来た女は病人の膝の上に筒のような長細い包みを乗せた。
ゴンヴァルは暫くそれに触れずに眺めていたが、やがて震える手で取り上げると婿の方に差し出した。
「このようなことを虫の知らせというのでしょう。これは貴方が持っていた方が良い」
アルテュスが問うように見上げると、ゴンヴァルは悲しそうな微笑を漏らした。
「宿に帰ってから開けてください」
そしてベッドにゆっくりと横たわると女の方を見て言った。
「少し疲れてしまった。暫く眠ろう」
暇乞いをして背中を向けた娘婿にゴンヴァルが声をかけた。
「それで、子供は?」
アルテュスは顔を顰めて頭を振るとそっと部屋を後にした。
何か深い事情があるのだろう。
マティアスは暫くそっとしてやった方が良いと言っていた。
だから自分の家に連れて行こうと思ったんだ。
この娘の話を聞きたい。
いったい何処の誰なのか。
何故、あんな海のど真ん中にいたのか。
ルイスは馬車の中で自分の前に座る女の横顔を見つめた。
娘は曇った窓を指で擦って外を覗いている。
船の上で自分が矢継ぎ早に質問を浴びせると、ずっと困ったような顔をして頭を振っていた。
口が利けないことが分かった時、字が書けるのではないかと鷲ペンとインク壷を差し出したのだ。
その時のことを思い出した男は肩を竦める。
まるで触れたら火傷でもするかのように慌てて手を引っ込めた娘は、怯えた顔をマティアスと自分に向けたのだった。
しかし、初めに思ったように娘は文盲ではなかった。
試しに本を与えると貪るように読んでいる。
だが、貴族の娘のようななりをしていても、飾り気のないその仕草は洗練されたものではない。
そのうえ、助けた時に裸足だったので仕方なく見習い水夫の木靴を与えたが、足を痛めることもなく履いているようだ。
不思議な女だ。
豪華なドレスと木靴という不釣合いさは、どうも外観だけではないように思えるのだ。
ルイスは子供の頃から何でも物事をはっきりさせないと気の済まない性質だった。
部下達に口煩い上司だと思われているのも知っている。
好奇心というよりも、自分が全てを制御しているという安心感が欲しいのだ。
声が出せるようになったら、彼女は全てを話してくれるのだろうか?
エヴァは曇った窓から外を覗きながら、向かいに座った男に気付かれないようにそっと溜息を吐いた。
とても親切な方だと思っているのに何故か完全に心を許せない自分が嫌だった。
嘘を吐いた訳ではないけれど、素性を隠しているのだから同じようなことだ。
けれども、ルイスの質問に答えるつもりはなかった。
父親の所に帰されるのならまだしも、アルテュスの家には絶対に戻れないのだ。
女は結婚前は父親に結婚後は夫に守られると決まっているのだから、私が結婚していることが分かったら無理矢理に夫の家に帰されてしまうだろう。
だから決して素性を知られてはならなかった。
名前も……
名前を聞かれ答えようとして途中で口篭ったエヴァを見て、船医は笑って頷いたのだった。
「いいよ。我々はあんたを海から来た娘、マリナと呼ぶことにしよう」
お医者さんは私をそっとしておいてくれたけど、この方はまるで私の心の中を見透かすような眼差しで見るのだ。
一緒に行っても大丈夫なのだろうか?
別れを告げる時、お医者さんは安心させるように言ってくれたけど。
ルイスは幾らか煩い所はあるが誠実な男だ。
あんたを困らせるようなことはしないだろう。
ルイス・ド・クレリゴーの生家は、ギースの町外れのクレレグーという村にあった。
代々ド・クレリゴー家に受け継がれてきた領地である。
ギースは中世時代から軍港として栄えた町だ。
ルイスの曾祖父は、この国の海軍大佐として前世紀のS国との海戦の際に手柄を立てた男だった。
祖父も父も叔父も海軍に勤めていたので、長男であるルイスも7歳になると当たり前のように海軍兵学校に入れられ、翌年から見習い水夫として軍船に乗っていた。
その頃のルイスは几帳面で大人しい子供と思われており、船乗り仲間の間での評判は悪くなかった。
努力家で野心も持っていた少年は運も良かったのだろう。
丁度良い按配に乗っていた船の船長付きの小姓の一人が病に倒れ家に戻らなければならなくなり、代わりにルイスが呼ばれたのだ。
その後も士官候補生に推薦され、とんとん拍子に昇格して、一年前に32歳で今の地位に就いたのだった。
一年の殆どを軍船の上で過ごしている男は未だに独身で、休暇になると母親が待っている実家に戻る。
女は嫌いではなかったが、玉の輿を期待して擦り寄ってくる女達にはうんざりしていた。
そのうち跡継ぎを儲ける為に妻を娶らざるを得なくなるだろう。
せめて、それまでは自由に生きたいものだ。
やがて馬車は町を出て泥濘んだ田舎道を走り始めた。
この地方は冬でも滅多に気温が氷点下になることはない。
この日も朝から霧雨が降っていたが、雪にはなりそうもなかった。
さて、母には何と言ってマリナを紹介したら良いのか?
男はずっと窓から外の景色を眺め続けている娘を見ながら思案していた。




