表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
竜騎兵と花嫁  作者: 海乃野瑠
第10章 後悔
51/90

10-2

男物のシャツを身に纏い髪をきっちりと布で包んだエヴァは、船室の硬いベッドの上に蹲っていた。


考えても考えても良い案は浮かばなかった。


港に着いたらどうしよう?


ギースがどこなのかもはっきりと分からない。


西の方だとは思うけど、ティミリアから遠いのかしら?


お金も持っていないし、どうやって帰ったらいいのだろう?


でも、城に戻ることはできない。


私はもう必要とされていないのだから。


多分夫は他に好きな人がいるのだろう。


肩を落として小さな溜息を吐く。


私が子供だったのだわ。


……逆らいもせずに、あんな風にボートに乗せられて。


酷いことをされたと思うのに、何故か怒りも憎しみも感じることはできなかった。


胸の中にあるのは、信じていた人に裏切られた悲しみだけ。


お父さんの家に帰る訳にもいかないわ。


父を想うと鼻がつんとして涙が溢れそうになった。


…………お父さん!!!


慌てて涙を食い止めるようにギュッと目を瞑り唇を噛んだ。


泣いては駄目。


もし、私が船長さんに捨てられたと知ったら、お父さんはとても心配して病気になってしまうだろう。


私を結婚させたことを悔やんで自分を責めるに違いない。


弟とお母さんのことを何年もずっと後悔してきたお父さんに新たな苦痛を与えたくない。


どこに行ったらいいのだろう?


誰を頼ったら?


それに……


エヴァは虚ろな瞳で船室の窓から見える海を見つめた。


私は口を利くことも出来なくなってしまった。




救助されてから、ずっと声を出すことができない。


言葉は喉から外に出ようとしているのに、何故か話すことが出来ないのだ。


顔を真っ赤にして苦しそうに声を絞り出そうとするエヴァを診た船医は言った。


「死ぬほど怖い目に遭った所為だろう。精神的なものだからある日突然治るだろうが、それまでは気長に待つしかない」


初めは顔を見る度にエヴァを質問攻めにしていた中佐は、やがて諦めたように何も尋ねなくなった。


そして、エヴァを自分の客として礼儀正しく丁寧に扱ってくれている。


だが、客といっても軍船である。


あてがわれた船室から一歩も出ることを禁じられ、食事の時だけ正装して食堂に行くことを許された。


ドレスはアルテュスにもらった一着しかないので、船室にいる時の為に男物の服を貸してもらっている。


女物の着替えも化粧品もないことをエヴァに詫びた中佐は、退屈するだろうと自分の本を何冊か貸してくれた。


ギリシア古典や聖書の中に何故か表紙がボロボロになった翻訳版のボッカッチョの『デカメロン』が混じっており、エヴァは夢中になって読み耽った。


本を読んでいる間は辛い事を忘れていられた。


これまでの数ヶ月がまるで夢のように思われてくるのだ。


軽いノックの音に、本を膝の上に置いたままぼんやりと空を見つめていたエヴァは扉の方を振り向いた。


「マリナ、夕食の時間だ。そろそろご用意を」


そう言って船室の中を覗き込んだのは医者のマティアス・ダノだ。


この船の人達は私のことを海から来た者―マリナ―と呼ぶ。


名前を聞かれてエヴァと答えたのだが、唇の動きだけではマリナと読み取れたのかも知れない。


素性の知れない私にこの人達はとても親切にしてくれる。


感謝の気持ちと共に、任務中に自分のことで煩わせて申し訳ないという気持ちがあるエヴァはできるだけ役に立ちたいと思っていた。


軍人達にもその思いは伝わった様子で、毎日の食卓の準備は自然とエヴァに任されるようになった。


食堂に着くと、エヴァは音を立てないように手際よく皿とコップを並べ、パン切れを籠に盛る。


見習い水夫が大きな樽から注いでくる葡萄酒の入った瓶をテーブルの中央に置き、すり潰した胡椒や生姜を零さないように注意しながら小皿に入れた。




海軍中佐でこの船の船長であるルイス・ド・クレリゴーは、向かいの席に座って隣の船医の話に頷きながら食事をしているマリナを見つめていた。


不思議な女だ。


船の上の質素な食事にも嫌な顔もせずに嬉しそうに食べている。


大海原に頼りないボートに乗って漂っていた美しい娘。


初めは誰かが中にいるなどとは思わなかったから、ぐっすりと眠ったマリナを見つけた時は心底驚いた。


服装や装身具から見ると金持ちの商人か貴族の娘のように見えた。


だが、その仕草は少しも気取った所がなく、まるで羊飼いの少女のように無邪気で、男の目には大層新鮮に映った。


口が利けない海から来た娘。


後、数日でこの船はギースに到着する。


そうしたらマリナをどうすれば良いのか?


まさか兵舎に連れて行く訳にはいくまいし。


食事の後、マリナを船室に送って行ったルイスが食堂に戻ると、窓辺の椅子に座ってシェリーを舐めるようにちびちびと飲んでいた船医のマティアスが振り向いた。


「それで?」


「何だ?」


「あの娘をどうするつもりだ?」


マティアスのからかうような口調が癪に障ってルイスは素っ気無く答えた。


「実家に連れて行く」


船医は驚いたように片方の眉を上げると口を開いた。


「本気かよ。お堅い軍人さんにもやっと春が訪れたのか?」


「せめて話せるようになるまでは面倒を見てやるつもりだが、おまえの考えているようなつもりはない」


ルイスは不機嫌そうにそう言うと、マティアスに背を向けて部屋を出て行った。




クリスマスの三日前の夕方、吹雪の中を港の入り口にある塔の間を通っていく帆船があった。


甲板には一人の男が、乗組員達が入港の作業で忙しくしている中、身動ぎもせずに、静々と近付いて来る雪を被った丘を見つめている。


冷たい風にもビクともしないで立っている男の睫には雪が絡まり、まるで涙のように光って見える。


アルテュスは苦しそうに顔を顰めると白い息を吐いた。


ここで初めてエヴァを見かけたのだ。


赤いショールに包まって俺の方を見ていた。


あの時、俺はとんでもない勘違いをして……


もし過去に戻ることができたら。


……あの瞬間からやり直したいと思う。


だが時間は過去に遡ることはなく、着々と歩み続けている。


そして俺の記憶は傷口から血を滴らせたまま、永遠にこの胸に刻み付けられているのだ。


決して癒えることのない傷。


エヴァ、エヴァ、君がいる所から俺のことは見えるのだろうか?


毎晩眠れぬほど苦しんでいる、死ぬほど後悔していると知ったら、君は少しは楽になるのか?


明日は君を愛している人を苦しませない為に一芝居打たなければならない。


上手くできるだろうか?


ちゃんと嘘をつけるだろうか?




見覚えのある田舎の小道。


時折ドサリと枯れ枝に積もった雪が落ちる音がする。


どんよりと曇った空は低く、朝から白いものがちらちらと舞っている。


あの日も雪が降っていた。


エヴァと初めて一緒にこの道を歩いた夜。


俺に会ったりしなければ、今頃彼女は元気にこの道を歩いていたかも知れないのに。


見覚えのある景色を辛そうに眺めながらアルテュスは、凍った道を町に向って進んで行った。


婚礼を挙げた教会の横を通る時には流石に平静ではいられず、ブルブルと震えながら駆けるようにして通り過ぎた。


目的地に着いたアルテュスは片手で胸を押さえながら動悸が静まるのを待った。


古ぼけた小さな家はあの時からまったく変っていなかった。


屋根には重たそうに雪が積もり、捻れた煙突から白い煙が一筋出ている。


家の窓は、明かり取りの奥まった小窓以外は断熱の為に雨戸が閉めてあった。


玄関の前は雪を掻いた跡があるが、既にその上から薄っすらと粉雪が積もっている。


何も変っていないことに少しばかりホッとしたアルテュスは、大きく深呼吸をすると手を上げて戸を叩いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ