9-5
涙ではっきり見えないが、『ラ・ソリテア号』は自分を置き去りにして去って行く。
「アルテュス、アルテュス!!! ……行かないで!!!」
いくら呼んでも夫は戻って来てくれなかった。
「………………どうして?」
帆船から押し寄せて来る波折りがボートを大きく揺らし、小さな悲鳴を上げてボートの縁に縋りつく。
波の頂上に持ち上げられて、次の瞬間谷底に転がり落ちた小さなボートは危うく傾き、水飛沫が長い髪を濡らした。
すっかり声が嗄れてしまったエヴァは、両手に顔を埋めると肩を震わせてすすり泣いた。
何故こんな仕打ちをされるのかさっぱり分からない。
ただ自分の一生を捧げようと思っていた人に捨てられたことが悲しかった。
言われたことはないけれど、好かれているのだと思っていた。
とんだ自惚れだ。
帆船の姿は見る見るうちに豆粒のように小さくなり、やがて水平線に消えてしまった。
ボートはゆらゆらと頼りなげに広い海の上を漂っている。
やっと泣き止んだエヴァはボートの底に仰向けに寝た。
次第に暗くなってくる空は雲に覆われ灰色だったが、それでも素晴らしく美しかった。
泣き腫らした瞼や火照った頬に当たる風が心地良い。
耳の辺りでちゃぷちゃぷと水音がする。
エヴァは天と海に身を委ねるとゆっくりと目を閉じた。
死ぬのは怖ろしくなかった。
懐かしい父と、どこかで待っていてくれているだろう母と弟のことを想った。
泣き過ぎたのだろうか、それともこの揺れの所為だろうか、体中から力が抜けてふと意識が途切れそうになる。
暗い海の上、木の葉のようにくるくると回るボートの中で、春の海のような美しいドレスを纏ったエヴァはいつしか深い眠りに落ちていた。
「アレン!」
アルテュスは舵取りに指示を与えている航海士の傍に行くが、相手は冷たい瞳で船長を一瞥するとそっぽを向いてしまった。
「おい、何を怒っている?」
「覚えていないんですか?」
「……いや、漠然としか」
アレンは口篭る相手に背を向けたまま、きつい口調で言った。
「自分が奥さんにした仕打ちも?」
思わずアレンの腕を掴んだアルテュスは哀願するように問い詰めた。
「お願いだ、教えてくれ! 何があった? 俺はいったい何をしたんだ?」
航海士は肩を聳やかした。
「あんたは止めようとした俺の頭に銃を突きつけてぶっ放したんですよ!」
「だが、おまえはぴんぴんしているではないか」
「酔っ払っていて手元が狂ったからいいものの、命中していたら今頃はあの世です」
「……すまなかった」
珍しく素直に頭を下げた男は恐る恐る尋ねた。
「それで、エヴァは?」
「本当に覚えていないんですか?」
アルテュスは顔をクシャクシャに顰めると首を振った。
エヴァの悲しい叫び声が微かに耳に残っている。
「俺は、妻を……殺してしまったのか?」
アレンはやっと相手を哀れむような目付きで見上げると答えた。
「ボートに乗せて海の真ん中に置き去りにしたんですよ」
「場所は?」
「どうするのですか?」
「当たり前だ、直ちに探しに行くぞ!!」
「ちょっと待ってください。今すぐ計算します!」
弾んだ声で航海士は答えた。
上手廻しの号令がかかると、船乗り達の顔がぱっと明るくなり皆きびきびと作業に勤しみ始めた。
早く、早く!!!
ボートを降ろした場所に戻るのだ。
船乗り達の掛け声が途切れ途切れに辺りに響き、『ラ・ソリテア号』は素早く針路を変更する。
「西南西へ27マイル、その後、西に直行して38マイル」
昨日の夕方から航海日誌に記された情報を基に海図の上にその位置を割り出した。
運良く風向きが変わり、追い風を受けた帆船は白い水飛沫を上げながら波を乗り越え進んで行く。
アルテュスは怖ろしい顔をして甲板の上を行ったり来たりしていた。
複雑な気持ちだった。
助かって欲しいと思うと同時に、裏切られた怒りも未だに胸の中で燻っている。
エヴァの顔を見たら、自分が苦しい思いをすることが分かっていた。
憎しみすら感じてしまうかも知れない。
それでも、やはりもう一度あの大きく青い澄んだ瞳を覗き込みたかった。
あの優しい笑顔が二度と自分に向けられることはないと分かっていても。
何とこの船は鈍いのだ!!!
もっと早く進めないのか?
「後どの位かかるのか?」
「この速度でしたら、4時間程で戻れるでしょう」
「もっと早く進めないのか?」
「これで精一杯です」
「もう少し速度を上げる為、何か海に捨てられるものはないのか?」
「船長」
噛み付くように問いかけてくる船長を航海士は手を上げて黙らせた。
そうだった。
俺が無理に出港させたから、食料だって十分にないのだ。
お願いだ。
どうか、どうか……
昨夜の強い風に空を覆っていた厚い雲が千切れ、久し振りに太陽が顔を覗かせていた。
藍色の海にすっと長く白い航跡が走る。
「そろそろです」
「おい、何か見えるか?!」
船長に呼びかけられた見張り番は、慌てて一生懸命に目を凝らすが、視界に広がるのは水ばかりだった。
「自分で見に行く」
アルテュスは縄に手をかけると横静索をするすると登り始めた。
あっという間に見張り台によじ登ったアルテュスは、おろおろしている見張り番を押し退けると、片手をひさしにして前方を睨みつける。
暗く広がる海面は、西日を反射してキラキラと光っていた。
しかし、期待していたものはどこにも見えなかった。
昨日の風向きから考えて、ボートの流された可能性のある水域を既に2時間以上も彷徨っているのだ。
これ以上探しても無駄だろう。
そう思ったアレンは見張り台を見上げて呼びかけた。
「船長!」
「……」
「船長、もうすぐ日が暮れます。もうこれ以上……」
「黙れ!!!」
見張り台の上に立った男は、眉を顰め歯を食いしばって前方を見つめている。
もう手遅れなのだろうか?
二度とあの優しい声を聞き、愛らしい姿を見ることはできないのか?
……俺が、殺してしまったのか?
「おお、あれは何だ?!」
アルテュスと反対の方角を見ていた男が叫び声を上げた。
はっきりとは分からないが、確かに黒っぽい点が水面を漂っているようだ。
「北北東に向え!!」
直ちに号令がかけられ、帆船は針路を変えた。
甲板に降りたアルテュスは近付いて来る黒い物体を食い入るように見つめていた。
無意識のうちに両手を組み合わせ、祈りの言葉を口にしていた。
辺りを包む黄昏の中でも次第にボートの姿がはっきりと現れてくる。
叫びながらバタバタと走り回る船乗り達で甲板の上は一斉に騒がしくなった。
「もうちょっと右だ、右!!!」
「進みすぎだ、戻れ!」
「おい、鍵竿だ!」
「縄を持って来い!」
「こっちだ、こっちだ!!」
やっとのことでボートを引き寄せると、船縁に身を乗り出していた皆が息を呑んだ。
一瞬の静粛の後、辺りは怒鳴り声と足音で騒然となった。
「うわっ!!」
「止めろ!!!」
「おい、早く押さえろ!!」
「放せ―――!!!」
台所から様子を見に来ていた『悪酔いブイヨン』が揉み合っている男達に駆け寄ると、そのうちの一人を甲板に力一杯突き倒し、その背中の上にドシンと腰を下ろした。




