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丁度船乗り達が列に並んで給料を受け取っている時に、船長が女を抱えて戻って来た。
「出航の準備だ!」
その声に皆驚いて顔を見合わせるが、通常の給料の倍を払うと言われて、躊躇する間もなく持ち場についた。
『ラ・ソリテア号』の乗組員は、船長の突飛な思いつきには慣れていたし、この船に乗っていることをとても誇らしく思っていた。
その上、いつもより金が貰えるなら願ったり叶ったりだ。
数ヶ月の長い航海からやっと港に着いたばかりだと言うのに、船を降りようとする者はいなかった。
出港作業が済むのを見届けたアルテュスは、エヴァを担いだまま船室に向った。
エヴァは目を閉じて微笑みながら、その間ずっとアルテュスの肩の上で男の上着にしがみついていた。
腹を圧迫されて苦しかったが男の体温を感じる。
やっと、やっと会えたのだ。
先程チラッと見た夫の顔は前よりも更に日に焼け、少しばかり痩せたように見えた。
それとも頬に影を作っている無精髭の所為だろうか?
だが狭い船室に入った途端、硬い寝床に投げ出されて小さな悲鳴を上げる。
酔っ払っているのかしら?
服からも随分お酒の匂いがするけれど。
寝床の上に起き上がると、アルテュスは背を向けて屈み込み大きなトランクの中を探っていた。
「これに着替えろ」
そう言って大きな包みを寝床に投げると、男はエヴァの顔も見ずに船室を出て行った。
気遣わしげにその後姿を見送ったエヴァは、気を取り直すと荷物を包んでいる油紙を開いた。
「まあ、何て美しいのでしょう!」
包みから出した衣装を寝床の上に広げ、両手を打ち合わせて感嘆の声を漏らす。
それは、春の海のようにキラキラと光る明るい青の絹のドレスだった。
雲のような純白のレースが襟と袖口を飾っている。
……これを私に?
震える指先で滑らかな生地にそっと触れる。
これを着てもいいってことよね?
「これでいいのかしら?」
時間がかかったが、何とか一人で身に着けることが出来た。
胸から腹までぴったりと締め付けるドレスは、腰の辺りを膨らませたスカートの前が開いており、一面にビーズの刺繍をした銀色の布地が窺える。
袖は肩の部分を小さく膨らませ、所々をリボンで結んでいる流行の型だった。
包みの中に一緒に入っていた小箱には、小粒の真珠の首飾りが淡い光を放っていた。
こんなに美しい物をくださるなんて、船長さんは何てご親切なのだろう。
髪は一人で結い上げることはできないわ。
でも、こんなドレスに三つ編みでは可笑しいし……
少し考えて、解いたまま背中に流すことにした。
恥ずかしいけれど、船長さんに綺麗に見られたいから。
視線を感じて振り向くと、船室の開いた扉の枠に寄りかかるようにしてアルテュスが立っていた。
暗くて表情は良く見えないが、じっとエヴァのことを見つめているようだ。
エヴァは頬を染めて微笑んだ。
「……良く似合う」
その低い声を少しばかり素っ気無く感じたのは気の所為だろうか?
「どうもありがとうございます」
礼を言うと、アルテュスは大したことではないとでもいう風に首を振った。
エヴァは首を傾げて夫の姿を見つめる。
抱きついたりしたら嫌がられるかしら?
でも、ずっと寂しかったから……
戸口を塞いでしまうほど大きくがっしりとした体。
あの長い腕に抱き締められたい。
逞しい胸に顔を埋めたい。
ドキドキしながらそっと一歩を踏み出した。
だがエヴァが近付いて来るのに気がつくと、アルテュスは顔を背け船室を出て行こうとする。
「船長さん?」
去って行く大きな背中を追うように問いかけたが、短く鋭い声で遮られた。
「ついて来い!」
「でも、靴が……」
エヴァの小さな声はアルテュスの耳に入らなかったようで、どんどん先に行ってしまう。
仕方がなくエヴァは裸足のまま、汚さないようにドレスの裾を絡げて男の後を追った。
甲板では乗組員達が忙しく立ち働いていた。
既に港を出てから数時間が過ぎており、港町は影も形もない。
辺り一面に広がっているのは、緑がかった灰色の海である。
彼らの邪魔にならないように注意してアルテュスの後を追いかけた。
メインセイルの右側には10人程の水夫が集まり何か作業をしているようだ。
男達を押し退けて船縁に手をかけたアルテュスはふらふらしながらその上によじ登った。
エヴァはハッとして小さな悲鳴を上げかけたが、急に腕をきつく掴まれ体を引き上げられた。
足元がグラグラと激しく揺れ、慌ててしゃがみ込む。
アルテュスと一緒に、縄で吊り下げられたボートの中に座ったエヴァは問いかけるように男の顔を見上げた。
だが男は縄に手を添えて立ったまま船縁から身を乗り出している水夫達に指示を喚いている。
ボートはずるずると降りて行き、やがて水に浮かんだ。
アルテュスは屈み込むと乱暴な手つきでボートの腹から縄を外す。
そして縄をぐいと引き寄せると、腕の力だけで帆船の横腹をよじ登り始めた。
エヴァは目を丸くしてその様子を眺めていたが、男の姿が船縁を越えて見えなくなり、縄が引き上げられると初めてボートの縁を掴み腰を浮かして呼びかけた。
「船長さん?! どうしたの?」
「さっさと船を出せ!」
吐き捨てるようにそう言った船長を船乗り達は驚いた顔で見つめる。
「でも」
「命令だ!!!」
それでも皆、まだ躊躇っているように動かずに船長とその隣にいる航海士を見つめている。
アレンがアルテュスの腕を掴んだ。
「船長、いったい何をするつもりなんですか?! 絶対に後悔しますよ!」
アルテュスは腰から短銃を抜き、焦点の合っていない目を眇め、非難するように叫んだ航海士の頭を狙う。
「命令に従えない奴は撃ち殺す」
銃声が轟き、船乗り達は慌てて持ち場に戻った。
帆が一杯に風を孕み『ラ・ソリテア号』はぐんぐん速度を上げ始めた。
風に乗って、か細い叫び声が船乗り達の耳に届く。
「アルテュス、アルテュス!!! ……行かないで!!! …………どうして?……」
アルテュスは顔を顰めて耳を塞ぎ、何度も壁にぶつかりながらよろよろと船室に戻った。
そして、寝床に崩れ落ちるように倒れ込むと、そのまま睡魔に襲われ意識を手放した。
窓から差し込む朝日に目を覚ましたアルテュスは、寝床の上に起き上がり呻き声を立てた。
頭がガンガン割れるように痛い。
喉がカラカラに渇いて口の中が粘ついている。
まるで洋酒漬けの李にでもなったような気分だった。
俺は何でこんなに飲んだのか?
もう直ぐティミリアに着くのだな。
早く家に帰って、エヴァに……
そこまで考えて、怖ろしいことを思い出した。
別れの言葉が綴られたあの手紙。
懐を探り皺になった手紙を取り出すと、歯を食い縛って凝視した。
何度読んでも期待したように内容は変る筈はなく、苦しそうな溜息を吐いて寝床の上に放り出す。
これは確かにエヴァの筆跡だ。
だが、何か引っ掛かる。
思い出せ。
何か妙なことがなかったか?
痛む頭を両手で抱えて目をきつく閉じる。
床が軋みながら傾き、トンと軽い音がして目を開いたアルテュスは屈んで足元に転がっているものを拾い上げた。
片方だけになってしまった底の磨り減った小さな木靴。
アルテュスは血の気の失せた顔を強張らせた。
船室を飛び出して階段を駆け上がり、甲板に出ると額を突き合せて何やら相談していた船乗り達がぱっと辺りに散らばった。
アルテュスは自分から慌てて視線を逸らす男達には構わず、ずかずかと船尾楼に歩み寄った。




