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ある晴れた日の午後、エヴァは裏庭で太陽の匂いのするシーツやシャツを取り込んでいた。
ふんわりと広がる真っ白なシャツはとても大きく、本人のものではないことは一目瞭然である。
この季節にこのような晴天は稀だ。
その日は朝早くから城の洗濯女達が溜まっていた洗濯物の山を相手に奮闘していたし、エヴァもしまってあったアルテュスの服を虫干ししシャツやシーツを洗濯することに決めたのだった。
乾いた洗濯物を入れた籠を抱えて城に向かおうとしたエヴァは、大きなシーツを二人がかりで畳んでいる女中達の話に思わず歩みを止めた。
「……じゃあ、あんたは」
「そう、絶対駆け落ちだと思うわ!」
「でもあんな大人しい子が、まさかねえ……」
「本当かどうか分からないことをそんな風に噂にするのは良くないと思うわ」
辺りを憚らず大声で話していた二人にエヴァは、そう言うと足早にその場を離れた。
「義姉上」
庭で遊んでいた子供達がエヴァの姿を見かけて駆け寄って来る。
「サラは義姉上を襲った強盗に攫われたの?」
マリーにそう尋ねられたエヴァは黙って頭を振った。
それは違うと思う。
女中達にはあのように注意したけれど、本当は駆け落ちをしたのだろうと思った。
でも話すことはできなかった。
皆の知らないことを私は知っている。
数日前の夕方、部屋に入ってくるなりエヴァの足元に身を投げ出して泣き出した女がいた。
歳はエヴァとあまり変らないと思われる、サラという名の数年前から城で働いている女中だ。
そばかすの浮いた丸顔に赤味がかった金髪の娘で、地味で大人しい性格で仕事は遅かったが、言われたことはきちんとするので、他の使用人達の間でも評判は悪くなかった。
初めは何を言っているのかさっぱり分からなかったのだが、椅子に座らせて水を飲ませると少し落ち着き、真っ赤な鼻ですすり泣きながら語り始めた。
この城に勤める前から故郷の村の男と結婚の約束をしていたのだが、最近になって他の男を好きになってしまった。
約束と言っても二人の間だけのものだから、知らん振りすることもできるけれど、やはりきちんと別れてから新しい恋人と一緒になりたいと思う。
しかし、婚約者は正直で働き者なのだが、カッとすると暴力を振るう傾向がある。
その為、本人と会って直接別れを告げる勇気が出ない。
それに直接会いに行くには、少しばかりの休暇をもらえる感謝祭を待たなければならない。
その頃にはもう、とサラは自分の腹に両手を置いて俯いた。
手紙で別れを告げようと思ったが、自分は字を書けないし相手が納得してくれるような文も思いつかないと女中は嘆いた。
「だったら私が手紙を書いてあげるわ。だからそんなに泣かないで」
エヴァは服の裾に口付けながら感謝の涙を流すサラを困ったように見下ろした。
それから3日後、サラは城から忽然と姿を消した。
置手紙もなく、数少ない持ち物もそのまま女中部屋に残していなくなった娘を使用人達は心配し、城主に行政官に届け出ることを許してもらった。
あの手紙を元婚約者に出して、新しい男の人と一緒に出て行ったのかしら?
その人は彼女を大切にしてくれるのだろうか?
婚約者がいる女性を孕ませるなど、新しい相手は不実な男なのではないのか?
相手がちゃんとした人だったら、彼女は夜逃げなどしないで、ちゃんと暇をもらって出て行ったのではないか?
エヴァは自分が書いてやった手紙の内容を思い起こした。
できるだけ相手を傷つけないように言葉を選んで書いたつもりだ。
だが、別れを告げる手紙である。
どんなに優しい言葉を選んでも、相手に突きつける事実は変えようがない。
エヴァは別れを告げられた婚約者を思って、悲しい気持ちになった。
離れてしまった気持ちは元には戻らないのだろう。
知らない人だけど、あまり悲しむことがありませんように。
そして、どうか、どうか彼女が幸せになれますように。
市場の薄暗く埃っぽい路地は客や商人らで大いに賑わっていた。
道の両側に立つ店の間には色とりどりの布が張られ、道行く人々を雨や日差しから守っている。
そのような中を群集よりも頭一つ飛び出した大男が、人混みを掻き分けながらしっかりした足取りで進んでいた。
店の前に立つ店員が通行人に盛んに呼びかけている。
「いらっしゃい、いらっしゃい!!」
「あっと驚く程安い本物のダマスク織りの絨毯ですよ!!」
「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい!!!」
「イズニック産の陶器に、後宮で大人気のイズミル産の絹糸の反物だよ!!」
「琥珀、琥珀、琥珀!! 東海で採れた最高級の琥珀!!!」
「そこの旦那。産地直送の象牙細工は如何ですか!!」
かさ張る包みを脇に抱えた男は、熱心に呼びかける声にも振り向かずに歩いていたが、とある店の前で立ち止まった。
他の店のように客引きがいないその店には、入り口には濃い赤のビロードの布がかかっており、外から見ただけでは何を売っているのかさっぱり分からない。
男はあたりの喧騒にも負けない良く響く声で一声かけると、カーテンを捲って中に入って行った。
アルテュスは辺りを見回した。
前回来た時から何も変っていなかった。
剥き出しの板で囲われた小部屋には、真ん中に大きな机があった。
その周りでは、3人の女が針仕事をしている。
机の両側には小さな引き出しの沢山ついた箪笥があり、部屋の奥の棚には棒に巻いた布地が積まれている。
「これは、これは、『ラ・ソリテア号』の船長様!!」
隅の方に座っていた太った親父が両手を擦りながら近付いて来た。
アルテュスは抱えていた包みを机の上に置き、中から淡い青に横糸に銀糸が使われている豪華な絹布と、地味な色合いの質素な女物の服を取り出した。
「この生地でこの服と同じ寸法の衣装を仕立てて欲しい。5日後にはスチュヌアを発つのだが、それまでに仕上がるか?」
話を聞いていた女達がざわざわと話し出すのを、店の主人は手を振って黙らせた。
「勿論出来ますとも! さっさ、こちらにお座りください。お見積もりをいたしますので」
エヴァに自分の代わりに自分の服を航海に連れて行って欲しいと言われた時には、そんな女々しいことなどできるかと思ったのだが、帰りにスチュヌアでドレスを作らせてやろうと考え直して持って来たのだった。
だが航海に出てから、自分の船室に大事にしまって時折出して眺めているなどとは、絶対に本人には知られたくなかった。
手紙をもらってから、何故か時間が経つのが遅くなった気がする。
それでも少しずつ季節は移り変わり、やがて城の果樹園の林檎も赤く実って、木々の間を吹き抜ける風も大分冷たくなった。
葡萄酒、マスタードとチーズも取り寄せたし、キャベツは樽に漬け込んである。
ハムは食糧貯蔵質の天井の梁にぶら下がっているし、丸々と肥えた鴨が中庭の鳥小屋を歩き回っている。
晴れた日に寝室のシーツや肌着は全て洗濯したし、新しいシャツを10枚も縫ったのだ。
エヴァはもう一度、全ての準備が整っていることを確認して小さな溜息を吐いた。
後十日、それとも一週間位だろうか?
ここでじっと待っているのは耐えられないわ。
ヤンに頼んで、前のように一緒に港に行ってもらおう。
あの人が船から降りた時に直ぐ傍にいたい。
そう決心すると、自分の荷物をさっさと纏めて、義弟を探しに部屋を出た。
初めは反対していたヤンだったが、エヴァが熱心に説得した甲斐があり、とうとう一緒に港に向うことを約束した。
しかし、義姉に付き添うのは自分一人ではなく、父親に頼んで城にいる騎士3人にも同行してもらうようにした。
父親は初めに話を聞いた時には渋い顔をしたが、翌日、思い直したように、息子と嫁が港に向うことを許した。
どうやら、アルテュスが儲けをきちんと持って帰るか不安な様子だ。
ヤンはまだ若いが真面目で一本気な性格で、アルテュスよりも信用できると思われた。
長男を亡くし自分の跡継ぎをアルテュスにすると仕方なく決めたが、やはりずっと救いようのないならず者だと思っていた次男を少しばかり疑う気持ちを拭い切れなかったのだ。
ヤンは父親の許しを得ると、港での計画を練り始めた。
義姉上の身に何かあったら、兄上に申し訳が立たない。
港町では兄上の使っていた部屋を借りれるだろう。
ヤンは宿屋の間取りを思い浮かべた。
昼間もできるだけ、動かない方が安全だろう。
兄上の船が港に着いたら直ぐに宿屋に連絡が来るように、海事当局に頼んでおけば良い。
片時も義姉上の傍を離れるまい。
夜は騎士達と交代で部屋の前で寝ずの番をしよう。
とうとう『ラ・ソリテア号』は長い長い航海の最後の港であったスチュヌアを後にした。
数日後には故郷に戻れる。
その思いは船乗り達の日に焼け風で荒れた顔を明るくした。
皆の歌声も随分と元気良くなり、きびきびと作業を進めている。
船室で寝床に横になったアルテュスは頭の後ろで腕を組んで、ゆらゆらと揺れるランタンを眺めていた。
予定通りに仕上がった衣装は油紙で包んで、木のトランクに入れてある。
あの生地はさぞエヴァの瞳の色を際立たせて美しく見せるだろうと思って選んだのだ。
喜んでくれるだろうか?
エヴァにはあまり派手な装身具は似合わない。
そう思ったアルテュスはスチュヌアの市場で小粒の真珠を選び首飾りを誂えた。
もう少しで夢にまで見た妻を胸に抱き締めることができる。
数ヶ月間の長い旅をして来たというのにこんなことを考えるのはおかしいが、港に着いてから家までの距離がとても長く感じられるだろう。
エヴァは俺のことを待ってくれているのだろうか?




