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竜騎兵と花嫁  作者: 海乃野瑠
第8章 新世界へ
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8-5

ある晴れた日の午後、長いスカートの裾を絡げ、息せき切って石の階段を駆け上がる女がいた。


白い頭巾を被り地味な色の服を身に着けた娘で、前掛けに包んだ何かを大切そうに抱き締めている。


頬を染め目をキラキラと輝かせ、まるで少女のように若く見えるその女は、次期城主の奥方のエヴァである。


エヴァは踊り場の正面にある部屋に飛び込むと窓辺に駆け寄った。


窓からは城の裏手にある野原が見渡せた。


この時期は、緩やかな斜面一面に鮮やかな紫のイヌサフランが咲き乱れている。


開け放した窓から入ってくる早秋の風が、頭巾を後ろで結わえているリボンをさわさわと揺らした。


「神様……」


エヴァは手に持っていた手紙を胸に押し付けると、跪いて頭を垂れ感謝の祈りを捧げた。


そして、手紙に唇を押し当ててから封を切った。


アルテュス、アルテュス、アルテュス……!!!


読んでいたエヴァの唇が震え、青い瞳が曇ると涙がポロポロと零れる。


涙でインクが滲み、慌てて手紙を畳むと膝の上に置いて両手で顔を押さえた。


だが、止めようとしても、涙はまるで泉のように後から後から湧き出てくる。


嗚咽を我慢できなくなったエヴァは、事件の後からずっと張り詰めていた糸が切れたかのように声を上げて泣きじゃくった。




「義姉上、兄上からの手紙は?」


暫くして、居間に下りてきた義姉にヤンが不安そうな顔で尋ねる。


居間にいた皆がエヴァの方を見た。


「お元気そうよ。無事向こうに着いて、10月末には帰って来ますって」


泣いた所為でエヴァの目元は少しばかり赤かったが、その晴れやかな笑顔を見て、ヤンはホッとしたように体の力を抜いた。


「それはよかった。では、後1月もしないうちに戻られるのですね?」


エヴァは嬉しそうに頷く。


初めはあまり嬉し過ぎて信じられず、涙が止まった後、何度も何度も手紙を読み返したのだった。


「ご無事で帰って来ますように」


「義姉上、良かったね!!」


ヤン以外の子供達は、兄のことを少しばかり恐れていたが、仲の良い義姉が笑っているのが嬉しかったのだ。


「明日から忙しくなるわ。貴方達のお兄様の好きな物を全て準備しておきたいの」


あの人が世界一美味いと言っていた葡萄酒は、確か、ボエルゴンディエ産だったわよね?


ボエルゴンディエってどこにあるのか知らないけど、そこから葡萄酒を取り寄せなければならない。


勇気を出して、お義父様に尋ねてみよう。


杜松の実の香りをつけた塩漬けキャベツに、ブナの木屑で燻した燻製のハム。


それから、蜂蜜でほんのり甘みをつけたピリッと辛い粒入りマスタード。


あと、3年間熟成された赤いグドセ・チーズに油の乗った鴨の丸焼き。


何も忘れないように、書き留めておかなくちゃ。




嵐を通り抜けた『ラ・ソリテア号』と商船3隻は、それからは快適な追い風に恵まれ、順調に航海を続けていた。


その日は、日没までに約180マイルを進んだ。


ティミリアに戻る前に、一部の品物をステュニアで売る予定だったので、途中敵国の水域を通り抜けなければならない。


アルテュスは甲板に出て水平線を見つめながら呟いた。


「行きと同じように敵船に遭遇しなければいいのだが」


私掠船の船長だった時と立場が入れ替わり、今度はこちらが狙われる方だった。


傍にいたメレーヌはその独り言を聞いていたようだ。


「海賊にもですよ」


新大陸から戻る商船を狙うものは多い為、注意をするに越したことはなかった。


厄介なことは避けて、出来るだけ早く国に戻りたいのだ。


アルテュスは見張りの人数を増やすことを指示すると、『悪酔いブイヨン』の許に向った。


出港してから既に1月が過ぎ、新鮮な食料の蓄えはかなり減っていたが、珍しい野菜や果物で作られる料理は穀物のスープや塩漬けキャベツにうんざりしていた船乗り達には好評だった。


アルテュスは料理長が差し出す皿を黙って受け取ると、近くの木箱に腰を下ろす。


皿の中身はどうやらペティンと呼ばれる芋を煮て潰し、塩と香辛料で味付けしたもののようだが、不味くはない。


「ラードかクリームを入れたら美味いんじゃないか?」


そう言ったアルテュスに『悪酔いブイヨン』は頷いた。


「流石だね、船長。今度はラードを入れてみるよ」




東の空が薄っすらと白く染まった頃、見張り台に上っていた男が、けたたましい叫び声を上げ皆を起こした。


「船だ!! 船だあ!!! 船を発見!!!」


まだ薄暗い船の上をバタバタと船乗り達が駆け回り、辺りは一斉に騒がしくなる。


「船長、この距離でははっきりとは分かりませんが、どうやら海賊船ではないようです。どうしますか?」


大きな欠伸をしながら甲板に出て来たアルテュスにアレンが問いかけた。


「風向きはこっちの方が有利だな。よし、接近しろ」


そう答えたアルテュスは、後ろに続く商船には近寄らぬように伝えろと連絡係の男に命じた。


武器倉庫の鍵が開けられ、列に並んだ乗組員達は次々と手渡される武器を手に甲板に駆け上がって行く。


朝靄の中にぼんやりと浮かぶ帆船の黒い陰が段々と大きく明瞭になり、やがてどっしりとした存在感を持つ3本マストのキャラベル船が姿を現した。


「国旗はないようだな」


アルテュスは自国の旗を揚げさせ、威嚇襲撃を命じる。


だが、暗い空に爆音の反響が途絶えても、キャラベル船からは何の動きも見られなかった。




「おい、あの船の帆はおかしくないか?」


所々破れたキャラベル船の四角帆はだらりと力なく垂れ下がり、風に煽られてはバタバタと音を立てている。


「確かに何だかふらふらしていますね。水夫達は何をしているのでしょうか?」


「油断するな、罠かも知れないぞ」


キャラベル船に接舷した『ラ・ソリテア号』から、武装した水夫達が次々と乗り移って行く。


風向きが変わり、キャラベル船がゆっくりと向きを変えるのを『ラ・ソリテア号』に残った船乗り達は固唾を呑んで見つめていた。


こちらを向いた船縁に何か黒っぽい塊がぶら下がっている。


「何だ、あれは?!!」


「動物の死骸だろうか?」


「海豚ではないか?」


『ラ・ソリテア号』に残った男達は、キャラベル船に移った者達に身振り手振りを加えて、船縁に正体不明の物体があることを伝えた。


暫くして一人の男が大声で報告する。


「甲板には至る所に戦いの痕跡が見られますが、皆海に放り込まれてしまったのか死体ひとつありません。船室にも誰もいませんでした。今、数人が船倉を調べに行っています」


別の男が興奮した大声で続ける。


「あそこにぶらさがっていたのは、3歳位の子供の遺体です。死んでから数ヶ月は経っていると思われます。」


「子供だと?!」


「いったい誰がこんな残酷なことを……」


そこに船倉から戻って来た男達が、衣類など身の回りの物以外は何もなかったことを告げた。




アルテュスは、キャラベル船の航海日誌と見られる片側を糸で綴じた紙の束をぱらぱらと捲った。


航海日誌の所々に書かれている祈りの言葉は、ラテン語ではなくガイデア語だった。


「やはり、新教徒の船のようだ。新大陸に向う途中だったのを何者かに襲われたのだろう」


「敵国の船か、海賊か、それとも……」


アレンが呟くと、ゆらゆらと揺れる帆船を見つめていたメレーヌが幾らか強張った顔で遮った。


「私達の耳に入る国からの情報は数ヶ月前のものです。今、故郷ではいったい何が起こっているのでしょうか?」


「さあな。どうせ、あの条約など既に何度も破られているからな」


アルテュスは眉を顰めた。


「遺体は敷布に包んで海に葬るように」


周りの男達は重々しく頷いた。


皆、キャラベル船を襲った悲劇が、敵国や海賊の引き起こしたものでないことを感づいていた。


「罪のない子供まで手にかけるとは、我が国はどうなってしまったのか?」


自分達の留守の間に条約は破られ状況は悪化しているのではないか?


故郷は無事なのだろうか?




朝日がキラキラと眩しい海に哀調を帯びた歌声が響き渡る。


暖かく包み込むような歌声に海の男達は涙を浮かべた。




静かに、静かに、日が暮れる

密やかに、密やかに、ビロードの足音を残し



蛙は雨を喜び唄を歌い、野兎は音もなく走り去る

鳥達は巣の中で寄り添い、眠りに落ちる


安らかにお休み、愛し子よ


『髭の三日月』が口を噤むと、二人の水夫が船縁に置いた板をゆっくりと傾けた。


新教徒の子供にはラテン語の祈りよりも、子守唄の方がいいだろうと船長が言ったのだ。


帽子を手に厳粛な顔をした船乗り達は、軽い水音を聞くと胸に十字を切る。


鼻を啜る者もいる。


それぞれの持ち場に戻り、やがて船が速度を上げ始めると、皆、同じ思いを胸に遠退く幽霊船を見つめていた。


急げ、急げ!!


早く故郷に戻らなくては!!!


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