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行きの晴天とは打って変わって、『ラ・ソリテア号』は、ノヴス・ティミリアの港を出た時から悪天候に見舞われていた。
荒れた海と横殴りの風雨に弄ばれ、船足の遅い商船と逸れないようにするのが精一杯で、これでは予定よりもかなり時間がかかりそうだった。
商船は酒や織物の代わりに、香辛料や干した果物、カカウワトゥルと呼ばれる豆、ペティンと呼ばれる植物の葉を乾燥させて粉末にしたもの、それから少しばかりの金塊や銀塊を積んでいる。
一週間ほど前から降り続けている雨の所為で、船乗り達は服を乾かすことも出来ず、叩きつけるような雨と風に逆らいながら憂鬱な顔で作業をしている。
こんなに早く出港することを決めた船長を恨めしく思っている者も少なからずいるようだ。
文句を言われる前に、アルテュスは乗組員の酒の配給の割合を増やすことに決めた。
馴染み深いビールや葡萄酒と違って、ペティンと呼ばれるイモ類から作った酒で、淡白な味でアルコール度数が高いものだ。
だが、何日もしないうちにペティン酒の割り当ては、一日に一人あたり1杯と制限しなければならなくなった。
殴り合いの喧嘩をして怪我をした者が数人出た他、酔っ払った船乗りの一人が素っ裸で帆桁に上がって大騒ぎをした挙句、頭から海に落っこちたのだ。
幸いそれを見ていた泳ぎの得意な者が海に飛び込み、冷たい水で酔いも醒めた愚か者が溺れる前に救出することができた。
もう少し海が荒れていたら助けることは無理だっただろう。
船の上では、それをもたらすものが病気であっても事故であっても、死は不吉なものとして恐れられている。
船を棺と定めた死者が船ごと海に沈めようとすると信じられているからだ。
その日は夕方から更に風が強まり、波が高くなった。
水夫達は船底に溜まった水を掻い出すのに忙しい。
「こりゃ治まるまで大人しく待つしかありませんね」
アルテュスは、鼻に皺を寄せてそう言ったアレンをぎろりと睨んだ。
だが、船長の視線にもビクともせずに航海士は肩を竦める。
「我々だけだったら何とかなるかも知れないけど……」
確かに私掠船一隻の時と違って、商船をほったらかしにする訳にはいかない。
アルテュスは帆を畳むことを許可した。
そして、顔にかかった雫を手で払い、厚い灰色の雲に覆われた空を見上げると、何も答えずに船室に向った。
どうせ手紙が家に届くのは一ヶ月以上先のことだ。
一週間や二週間、船の到着が遅れたってどうってことはないだろう。
「それで、兄上には……」
「知らせないわ。遠く離れている人に心配かけたら悪いから」
それは間違っているのではないだろうか?
ヤンは長椅子にもたれているエヴァを痛々しげに見つめながら思った。
愛らしい顔は、片方の頬から顎にかけて紫色と黄色の斑になった痣が覆っている。
それでも、幸いなことに傷は打撲傷だけで、鼻や歯は折られていなかった。
腫れが引くのに一週間もかかったのだ。
睡眠不足なのだろう、顔色は透き通るように白く、目の下には暗い影がある。
兄上は心配するだろうけど、知らせた方が良いのではないだろうか?
「義姉上は遠慮し過ぎですよ。家族なのだからもっと兄上にも甘えたら良いのに」
エヴァは困ったような顔をした。
ヤンはあの日エヴァを残して、皆と一緒に町へ出かけてしまったことをとても悔やんでいた。
父上も兄上もいない時、家を守るのは自分の役目なのに。
義姉上が酷い目に遭っている時に、僕は蜂蜜酒を飲みながら暢気に芝居など観ていたのだ。
初めヤンは義母かマダレンが事件に関係しているのかと疑っていた。
しかし、義母はともかくマダレンは大層ショックを受けているようで、事件の日から数日、食事もせずに寝込んでしまっていた。
誰が、いったいどうして?
皆が言っているように本当に強盗だったのだろうか?
もしかして義姉上は港町に行った時から、誰かに付け狙われているのではないのか?
大きなベッドの片隅でエヴァは肩を震わせながら、声を押し殺して泣いていた。
昼間は皆の前では気丈に振舞っているが、夜になると気が弱ってしまうのだ。
事件の翌日から部屋を移り、今はアルテュスの寝室で寝泊りしている。
義父は窓を開け放して寝るなど無用心なことをするからだと冷たく言い放ったが、警備を強化したので城の中は安全な筈だった。
それでも、毎晩決まって怖ろしい夢を見てしまう。
うなされて自分の出した声で目を覚ますのだ。
「アルテュス……」
そっと囁くと悲しさが増し、エヴァは枕に縋りつきながらすすり泣いた。
大切な物を盗られてしまったことがとても悲しかった。
あの後、暖炉の上の飾り棚に乗せていた指輪が見当たらなかった。
アルテュスにもらった大事な大事な指輪。
床に落ちて蹴られて遠くまで飛ばされてしまったのかも知れないと思い、部屋の隅々まで確認したのだが、どこを探しても見つからなかった。
それから、強盗は貴重品でも入っていると考えたのだろう、枕の下に忍ばせていたアルテュスの髪の入った小箱と手紙を盗んでいったのだ。
これらの物を失ったことで、自分と夫を繋ぐ糸が切れてしまったような気がする。
もしかしてアルテュスは戻って来ないのではないかという思いが脳裏を掠め、エヴァは恐怖感に襲われた。
「お願い、早く帰って来て……」
「やっぱり医者を呼ぼう!」
薄暗い部屋の中をイライラと歩き回っていた男は、立ち止まって両手で髪を掻き毟りながら叫んだ。
部屋の隅にあるベッドに横になった男が大儀そうに首を横に向ける。
立っている男とそっくりだが、熱でもあるのか真っ赤な顔をしている。
「いや、それは止めてくれ。もしこのことが明るみに出れば、家を潰されるぞ」
「だが、このままじゃ」
「熱さえ下れば大丈夫だ。お願いだから医者は呼ばないでくれ……」
ベッドに背を向けて立った男は、鋭い口調で吐き捨てるように言った。
「兄貴の身に何かあったら、あの二人に絶対後悔させてやるからな!!」
「……俺達の計画は完全に失敗した訳じゃない。ちょっと耳を貸せ」
「……」
体を屈めて兄の言葉を熱心に聴いていた男の顔が、段々と明るくなった。
「そうか、その手があったか」
「ああ、だからもし俺がまだ出歩けない状態だったら、おまえが奴の帰りを待って実行に移すのだ」
「兄貴、俺に任せてくれ。今度は絶対に失敗なんかしないぞ」
苦しみ悶える若い夫婦の姿を思い浮かべ、二人はほくそ笑んだ。
「おい!」
弟の方が、部屋の隅に控えている家来を呼びつけた。
「隣に潜り込ませているあの女だが」
「はい」
「余計なことをしゃべられたらまずいから、早いうちに誘き出して始末しちまえ」
家来は、ハッとした顔で主人を見上げるとゆっくりと頷いた。
「承知しました」
「どうぞ、召し上がれ」
居間の開け放した窓辺に座って針仕事をしていたエヴァの許に、柳の籠を抱えた子供達が走り寄って来た。
差し出されたのは、真っ赤に熟したさくらんぼである。
「まあ、美味しそうね!」
子供達の手も口元も果汁で赤く染まり、グレゴールとユナは服に染みまで作っていた。
「マダレンさんもどうぞ」
エヴァの向かいで刺繍をしていたマダレンは、子供達が差し出した籠の中から恐る恐る艶のある赤い果実を摘んだ。
子供達は真面目な顔をして、さくらんぼを口に入れたマダレンの表情を見守っている。
その様子を見ながらエヴァは微笑んだ。
事件から半月が経ち、顔の傷も癒え、やっと気持ちも落ち着いてきた。
皆が留守の間には散々な目に遭ったけど、彼女と仲良くなれたことは良かったわ。
「残りは台所に持って行って、デヴィーにタルトを作ってもらいなさい」
子供達の後姿を見送ったマダレンは、少しばかり皮肉を込めた微笑みを浮かべながら言った。
「あの子達、まるで鳥に餌をやるみたいな顔してたわね」
エヴァは異国の珍しい緑色の鳥を思い出した。
私があの鳥だったら良かったのに。
そしたら今頃、船の上であの人と一緒にいられたのに。




