8-2
「こっちに来ないの?」
背中を向けてしどけない姿でベッドに腰掛けていた女が振り向いた。
「動くな!!」
閉まった扉を背にして立った男の鋭い声が飛ぶ。
妙な男だ。
折角久し振りにいい男を釣れたと思ったのに、どうやら自分に触れたくないようだ。
病気持ちだとでも思っているのだろうか?
女は肩を竦め、挑発的な仕草で長い髪を後ろに掃うと壁の方を向いた。
まあ金を払ってくれさえすりゃ、どうでもいいこと……
ここは、G国植民地ノヴス・ティミリアの港町だ。
まだ歴史は浅いというのに、既に酒場が5軒に娼館まである。
祖国の港町とは比較にもならないが、それでも数ヶ月を海の上で過ごしてきた船乗り達にとっては楽園のように感じられる。
入港した翌々日の午後になって、やっと積荷の荷降ろしと商館での入荷手続きを済ませたアルテュスは、商船の船長達と酒場で一杯飲んでいたのだが、いつの間にか客引きの女数人に囲まれていた。
女達は濃い化粧をして色とりどりの派手な衣装を身に纏っている。
半年程前に旧大陸で流行った、途中を何箇所か膨らませリボンで結んだ袖のドレスである。
酒場の澱んだ空気には、海の上では嗅ぐことのなかった甘い香水の香りが、魚の揚げ物や汗の匂いに混じって漂っていた。
見え透いた世辞を言って機嫌を取る女達に商船の船長らは鼻の下を伸ばし、さっさと相手を選んで姿を消した。
断っても断っても追って来る女達に面倒になったアルテュスは、その中で一番小柄で痩せた女を選び一緒に酒場を出た。
薄暗く埃っぽい部屋に入ると、女に服を脱いで髪を解き自分の方に背中を向けてベッドに座るように命じた。
顔はまるで違ったが、たっぷりとしたその髪は金色で祖国に残した妻の髪に似ていたのだ。
妻以外の女を抱くつもりはなかった。
でも、女の背中に広がる髪を見ながら自分で処理することぐらいは許して欲しい。
「もういいぞ。さっさと服を着ろ」
女は不満げに鼻を鳴らしたが、アルテュスは全然構わず金を渡すと部屋を出た。
父親が建てさせたノヴス・ティミリアの家は、海を見下ろせる丘の上にあった。
既に夕食時だというのに、まだ辺りは明るかった。
同じような商人の家がこの地域には多い。
この地方は建設に使える石を切り出す場所が少なく、土地の面積の多くを森林が覆っている為、一部の家を除いて殆どの建物が木造だった。
この家もそうである。
2階建てで油紙を張った大きな窓があり、ポーチのついた玄関が外に迫り出している。
家の中の壁には上塗りや壁紙もなく、ざらざらとした木のままだった。
丸太から染み出てくるヤニの強い香りは嫌いではなかった。
アルテュスは迎えに出た召使に飯はいらないと伝えて寝室に上がった。
大きなベッドの上に仰向けに寝そべると、頭の後ろに手を組んで天井を見上げる。
このベッドだけは国から遥々と船で運んできたものであった。
ぐらぐら揺れない寝床は久し振りである。
屋根を支える梁を眺めながら考える。
エヴァは今頃何をしているのだろう?
時には俺のことを想ってくれているのだろうか?
夜は寂しがってベッドで泣いたりしているのではないか?
先程、欲望を吐き出したにも拘らず体が熱い。
エヴァが欲しい。
偽者では駄目だ。
蜂蜜色の柔らかな髪、澄んだ青い瞳、ふっくらした薔薇色の頬、優しい笑顔……
たっぷりとした髪に鼻を埋めて、すべらかな背中や細い肩に触れたい。
真っ赤に染まった耳に口付け、前で組んでいる腕をそっと解かせ、羞恥心に伏せようとする目を見つめながら服を脱がせたかった。
思い浮かべると堪らなくなってくる。
次に抱き締めることができるのは、一体いつになるのだろうか?
それでも、体は相当疲れていたようで、目を瞑ってじっとしていると、井戸の底に吸い込まれるようにすうと意識が遠くなった。
グレゴールの上着を繕っていたエヴァは、机の上に裁縫道具を置くと窓辺を離れた。
夏は日が長いが、それでも既に辺りは暗くなってきている。
ここの所、良い日和が続き、日が暮れてもなかなか涼しくならない。
虫が入らないように一度窓を閉めてから蝋燭を灯したが、直ぐに体が汗ばんで我慢できなくなった。
仕方がないから、もう寝ましょう。
明日、明るくなってから片付ければいいわ。
エヴァはそう思うと、蝋燭を吹き消し窓を大きく開けた。
雨でも降るのかしら?
湿気を含んだ風が頬を撫でる。
エヴァは頭巾を取ると机の上にそっと置き、それから服を脱いで椅子にかけた。
ベッドの方に向かいながら、左手の薬指の指輪に唇を触れると、外して暖炉の上の飾り棚に乗せた。
明日は皆が帰ってくるから、また賑やかになるわ。
クスリと笑ってベッドに這い上がると、小さな欠伸をしながら枕を引き寄せた。
枕の下には、何度も何度も繰り返して読んだ夫の手紙と黒い巻き毛が入った小箱が忍ばせてある。
「おやすみなさい、船長さん」
そう囁くと唇に微笑みを浮かべたまま目を閉じた。
アルテュスは階段を上っていた。
ミシミシと軋む狭い木の階段は、父親の城の階段ではない。
自分が建てさせた丘の上の新しい家の階段だ。
階上の寝室では、愛しい妻が自分の帰りを待っている筈だ。
息を切らせながらアルテュスは懸命に上ろうとする。
だが、何故か足は鉛のように重たく、いつまでたっても踊り場に辿り着けないのだ。
焦った男は苛立たしげに手摺りを掴むと叫び声を上げる。
「エヴァ!!!」
すると急に足の呪縛が解かれ、アルテュスは残りの段を一息に駆け上がった。
ノックもそこそこに扉を開けば、そこには一番見たくない光景があった。
女に覆い被さって腰を振っていた男は、驚いた顔をしてアルテュスの方に振り向いた。
敷布の上には、長い蜂蜜色の髪が渦を巻いて広がっている。
横たわった女はゆっくりと目を開き、感情のない冷たい青い瞳でアルテュスを見つめた。
呻き声を上げて飛び起きたアルテュスは、じっとりと寝汗をかき、暫くの間自分がどこにいるかも分からず、ベッドの上に蹲って震えていた。
……エヴァは?
エヴァはどこだ?
ガチガチと歯を鳴らしながら頭を抱える。
いや、あれは違う、エヴァではない!!
俺の妻である筈はない!!!
嫌な汗がつうと背中を流れるのを感じて身震いをした。
その頃になって、やっと目が闇になれ、自分がどこにいるかを思い出した。
アルテュスは大きく息を吐くと、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
そして、動悸が治まるのを待ちながら思った。
こんな夢を見るなんて、俺はどうかしているぞ。
あの女のようなことをエヴァがする訳がないじゃないか。
俺は妻を信じている。
蝋燭の炎がゆらゆらと二つの大きな影を壁に映し出した。
「兄弟、とうとうその時が来た」
「ああ」
薄暗い部屋で二人の男は顔を見合すと、にやりとして頷き合った。
興奮と緊張の為に強張った顔を蝋燭の光が照らし出す。
扉の前には、輪にした縄を肩にかけた家来が控えている。
この数ヶ月、機会を狙って隣の領地を監視し続けていたのだ。
ド・タレンフォレスト家に使用人として密偵を潜り込ませたお陰で、城の内部の様子は分かっている。
彼らが目指す部屋は運良く領地の外を向いていた。
門番は眠り薬の入った酒を飲んで、今頃は酔い潰れて眠っているだろう。
そして、庭にいる猟犬達には、毒を仕込んだ肉団子を与えている。
何度も何度も作戦計画を練り直し、細部まで確認して予行演習までしたのだ。
作戦は完璧の筈だった。
二人はアルテュス・ド・タレンフォレストを憎んでいた。
それは遥か昔、まだお互いに子供だった頃、あの男に酷い目に遭わされてからずっとだった。
だが、子供の頃からあの男は、人一倍体が大きく喧嘩も強かった。
力では叶わない。
だったら、野獣のように罠に落としてやろう。
いつか絶対に復讐してやる、互いにそう誓い合いながら生きてきた。
アルテュスが海軍兵学校に行ってしまった時には、獲物が逃げてしまったと悲しかった。
しかし、天は自分達の味方だったようで、この数年でド・タレンフォレスト家は次々と不幸に見舞われ、あの男は生家に戻って来た。
あどけない少女を連れて……
エヴァは夢を見ていた。
ゆらゆらと揺れる帆船の上。
ごうごうと水が流れる音が聞こえ、船は身を軋ませながら走る。
狭くて暗い船室に開け放した窓からひんやりとした空気が流れ込んだ。
体を起こせないエヴァの代わりにアルテュスが窓を開けてくれたのだ。
傾いた寝床がギシと音を立て、夫の温かい手が身体にかかった。
「……エヴァ」
夫の低い声が耳元で囁く。
「エヴァ、愛してる」
ずっと待ち望んでいた言葉。
でも、これは本当のことではないことが夢の中のエヴァには分かっている。
胸が締め付けられて、鼻がつんとする。
「何を泣いている?」
不安げな声。
「嬉しくて……」
夫を安心させたくてそう言った。
ずっと傍にいて欲しいのに、彼はいつも自分を置いて遠くに行ってしまうのだ。
行かないでと言いたかった。
だけど、夫は海の上の生活が好きなんだ。
そんなことを言って困らせたくない。
でも、船乗りの完璧な妻になるのは、何と辛いのだろう……
領地の端にある林から続く芝生や花壇を銀色に照らしていた三日月が雲に隠れた。
そして、開け放された寝室の窓に大きな黒い影が浮かび上がる。
ひゅうと音を立てて静かな部屋に雨を含んだ風が吹き込んだ。
床が軋み黒い影は荒い息を吐きながら、エヴァがぐっすりと眠っているベッドに近付いた。




