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南国の果物の香りや様々な香辛料の匂いが空気に混じり合い、店主が通行人に呼びかける活気ある声や家畜の鳴き声で騒がしいスチュヌアの市場。
埃っぽい地べたに無造作に投げられた絨毯の上で、ウードとタールが奏でる異国風の調べに乗り、華やかな色彩の薄絹を纏った踊り子が舞っていた。
目を除いて顔はベールで隠されているが、濡れたように光る黒い印象的な瞳が美しい。
軽やかに足踏みする度に足首に結ばれた鈴がサラサラと鳴る。
やがて、徐々に速度を増す音楽に合わせ踊り子は激しく舞い始めた。
情熱的に身体を震わせ、まるで憑かれたかのように踊る女に、観客は熱狂し唸り声を上げ手を叩く。
時折ちらりと覗く華奢な足や、服の下に窺える妖艶な肢体に、男達は目をぎらつかせ鼻息を荒くする。
曲の調子が最高潮に達し、服の裾を広げるとくるくると独楽のように回っていた踊り子は、打ち上げられた太鼓の響きに合わせ観客の方を向いてぴたりと止まると、額が地面につく程の深いお辞儀をした。
割れるような拍手と共に、踊り子の足元に置かれた籠に硬貨がバラバラと投げ入れられる。
「いい女だなあ」
アルテュスの隣に立っていたアレンが唸るように言った。
「まったく」
二人と一緒にいた『髭の三日月』は相槌を打ったが、アルテュスは顔を顰めると何も言わずにその場を離れた。
流れ落ちる汗を拭おうともせずに、男はどさりと仰向けに寝転がった。
逞しい胸が大きく波打っている。
傍らには豊かな白い臀部を晒した女が、身動きもしないで横たわっていた。
薄暗い部屋の中で、その用途の為だけに設えられた小さなベッドは、この男には些か窮屈で両足が外にはみ出してしまっている。
やがて、深い溜息を吐いた男は起き上がると、黙ったまま椅子に引っ掛けてあった服を取り身に着け始めた。
男が立ち上がると、眠っていると思われた女が肘をついて上半身を起こし振り返った。
物憂い眼差しで、自分に背を向けて上着の袖に手を通す男の姿を眺めている。
「泊まっていかないの?」
「……」
アルテュスは女の方を振り向きもせずに、硬貨を数枚ベッドに放るとさっさと部屋を後にした。
身体の昂ぶりが治まると、残っているのは虚しさだけだった。
自分の体に裏切られたような気がする。
もう女なんか懲り懲りだと頭では思っているのだ。
だが、ほんの数分美人の踊り子を見ただけで、何故すぐさま女を抱きに行かなくてはならなくなるのだ?
散々な目に遭っている癖に、何故まだ女に温もりを求めるのだ?
アルテュスは苦虫を噛み潰したような顔をして肩を竦めると、初めに目についた酒場に大股に入って行った。
「何であんたらは船長を止めなかったんだ?」
怒りに顔を引き攣らせた航海士メレーヌの前に、しょんぼりした『髭の三日月』とアレンが立っている。
「ティミリアを出た時から、ずっと船長がイライラしていたのは知っていただろう? ああいう時にちゃんと見張っていないと問題を起こす人だということをあんたらも今までの経験で分かっている筈じゃないか」
年上のアレンが弁解を試みる。
「そうなんだが、市場に向かった時は機嫌が良さそうだったし、ああいう場所にまでついて行くのは無粋と言うもんだろ? 俺達が酒場に着いた時には既に時遅しだったんだ」
「だから、さっさと海事裁判所に向かって用事を済ませてしまえば良かったんだろう? 市場で道草を食ってルベーロ族の踊り子を眺め、それだけじゃ飽き足らず売春宿で一発やって、その挙句に船長は酒場で出会ったならず者と喧嘩をして牢屋にぶち込まれただと? 本当に呆れてしまうよ。あんたら船長の補佐として一緒に行ったんじゃないのか?」
「あんたの言うとおりだ。俺達が悪かったよ」
『髭の三日月』が素直に謝った。
アレンは顔を顰める。
同じ航海士として『ラ・ソリテア号』に乗り込んでいるメレーヌは、自分より経験も少ないし航海技術も劣るのだが、こういう時はまるで自分が見習いの小僧のような気分になってしまう。
「それで船長は?」
「幸い死者は出ていないので、公序を壊乱した罪で罰金だけだ。だが、喧嘩相手の一人は全治3週間、もう一人の男は全治1ヶ月の重傷を負った。二人目の方は一生利き腕を使えなくなるかも知れないそうだ。それに酒場の主人が彼らが壊した家具や食器の弁償を願い出ている」
「金を払えば牢屋から出してもらえるのか?」
「そうだが。俺が会いに行った時には船長は、喧嘩は向こうが吹っかけてきたのだから、自分はびた一文払わんと頑なに拒んでいたぞ」
アレンと『髭の三日月』は途方に暮れたようにメレーヌの顔を見た。
「仕方がないから、罰金は帳簿係に言って船の費用から出すさ。二人の男は怪我が治り次第、『ラ・ソリテア号』で雇うことを交渉してみる。残りは酒場の弁償金だけだ。悪いが、あんたらの給料から差っ引くぞ」
二人は諦めたという風に両手を上げて溜息を吐いた。
どうせ、これから一山当てに行くのだ。
古びた椅子を何脚かと縁の欠けた皿とコップ位では、大した出費にはならないだろう。
それよりも早く船長に船に戻ってもらわないと困る。
アルテュスは頭の下に手を組んで、硬い木の寝床に横になり、時折水滴が滴ってくる暗い石の天井を見つめていた。
先程から同じ部屋に閉じ込められた男が、しきりに話しかけてくるが無視している。
邪魔さえ入らなければ、居心地が悪いとは言い切れないな。
酔いも醒め、自分の置かれた状況の馬鹿らしさに苦笑いしながら考える。
直ぐにカッとして取り返しのつかないことをしてしまうのは、子供の頃からである。
そして中々素直に謝ることができないのも。
向こうから喧嘩を売ってきたとはいえ、大人気ないことをしたと思う。
酔っ払いの戯言など適当にあしらっておけばよかったのだ。
だが酒場に入った途端、数人の顔見知りの男に絡まれて、色男の旦那も女に振られたのかと下卑た笑い声を浴びさせられ、頭に血が上ってしまったのだ。
俺は俺のことを馬鹿にする奴ら全員と喧嘩するつもりなのか?
寝取られ男が滑稽なのは事実だろ?
自分も以前はそういう奴らを少しばかりの軽蔑と哀れみの混じった目で見ていただろうが。
くそっ、あの女!!!
不意に自分を裏切った女の美しい顔が頭に浮かび、アルテュスは眉を顰め歯を食い縛った。
初めて好きになった女だった。
アルテュスはその恵まれた容姿のお陰で、海軍にいた頃から女に不自由したことはなかった。
けれども、休暇に仲間達と行くような場所には、男を利用することしか考えていない世慣れた女しかいなかった。
それはそれで楽しかったのだが、強かに逞しく生きている女の一人にアルテュスが恋をすることはなかったのだ。
孤児で不幸な身の上のマリルイーズに初めて会った時、アルテュスは彼女が自分と同類だと感じたのだった。
表面は快活に振舞っているが、実際は身よりもなく一人ぼっちでとても心細いのではないか?
だから、彼女を救い出し一生大事に守ってやりたいと思ったのだった。
だが彼女はそんなことを望んではいなかった。
アルテュスは苦しそうに身動ぎする。
いくら忘れようとしても、どうしても思い出してしまうのだ。
その度に胸がキリキリと締め付けられるように痛む。
一度泣いてしまえば楽になるのかも知れないが、物心ついた頃から何故か泣くことができないのだ。
どんなに叱られても涙を見せないアルテュスを、周りの大人達は可愛げのない子供だと罵った。
どうせ碌な男になるまい、大人になったら犯罪に手を染めるようになるだろうなどと言われ続けて育ったのだ。
アルテュスは溜息を吐くと起き上がった。
ここにいると嫌なことばかり思い出してしまう。
それなら酔っ払いの無駄話に付き合う方がまだましだった。
アルテュスは反対側の寝床に横になっている男の方を向くと口を開いた。
「ふうん、それじゃあんたは『働き者のラミー号』に乗っているのか。最近、タルへブ海峡近辺を海賊が荒らしまわっていると聞いたんだが……」




