8-1
朝靄の中に固まった帆船の姿が、まるで城のように浮かび上がった。
キャラック船1隻にガレオン船2隻、それに完全武装をしたフリュートである。
日が暮れる前に一番先に進んでいたガレオン船『サン・フラガン号』に他の船が追いつき、互いに声が届く距離で夜を過ごしたのだ。
嵐に見舞われることも海賊に襲われることもなく日々は順調に続き、長かった旅もやっと終わりに近付いた。
途中、水平線に敵船と思われる帆船の影が見えたことがあったが、道を急ぐ商船だったらしく、アルテュス達を追って針路を変えることはなかった。
『ラ・ソリテア号』の乗組員達は皆元気だったが、商船では体調を崩した者も数人いるようだ。
船の上では海賊よりも恐れられている病がある。
この原因不明の病にかかると数週間で元気だった者が、憂鬱な気分になり力を無くす。
そして、顔は腫れ上がり節々の痛みを訴えるようになる。
病が重くなると、体中が吹き出物と打ち身のような痕で斑になり、皮膚や歯茎から出血し歯が抜け落ちて死んで行くのだ。
病状が軽い者は陸に上がって、原住民がアンネダと呼んでいる木の葉と皮を煎じて飲めば数日で治る。
できるだけ早く陸に着いて治療することが必要だった。
商船と連絡を取る為、甲板に出たアルテュスは空を見上げた。
抜けるような青空に真綿のように千切れた薄い雲が流れている。
今日も暑くなりそうだ。
陸に近付いている証拠に、ここ数日鳥の姿を目にするようになった。
故郷の港で見慣れているカモメのような鳥もいたが、大きな嘴を持つ灰色の鳥や、尾に長い飾りのついた白い鳥が船の周りを飛んでいる。
また波の間に海草が流れているのが見えた。
商船から報告を聞いた『ラ・ソリテア号』の船長は、後ろに立っている航海士を振り向いた。
「我々の計算が正しければ今夜、もしくは明日の朝には陸に着く」
メレーヌは真面目な顔をして頷くが、その瞳は期待に満ちている。
やがて風向きが変わり北東の風が吹き出した為、針路を西に変えさせた。
「さて、『悪酔いブイヨン』の素晴らしい料理に舌鼓を打ちに行くとするか」
悪い冗談をとでも言うように顔を顰めながらメレーヌは、アルテュスの後に続く。
新鮮な食料はとうに底を突き、数週間前から穀物と豆の粉を水で溶いたスープと干した肉、それに水夫達が釣った魚が毎日のメニューだった。
樽の底に僅か残った船長の好物の塩漬けキャベツは、発酵が進み強烈な匂いを放つようになったので、『悪酔いブイヨン』はそれを塩水で洗って煮込んでいる。
ビールと葡萄酒がまだ残っているのが、せめてもの救いだ。
その日は一日中爽やかな風が吹き、日が暮れる直前に一番西を走っていたキャラック船から情報が伝わった。
「陸を発見!!!」
船室で仮眠を取っていたアルテュスは、報告を受け満足そうに頷いた。
問題なければ明日の朝には目的地に着くだろう。
話でしか聞いた事のない新しい大陸を見るのが楽しみだ。
子供達と草むしりをしていたエヴァは、額の汗を袖で拭い空を見上げた。
色とりどりのタチアオイの花に囲まれて、そよ風に気持ち良さそうに目を細める。
青く高い空には雲ひとつなく、辺り一面に黄金色の光が降り注いでいる。
どこか世界の果てで、あの人もこの空を見上げているのだろうか?
夫が出港してから既に二ヶ月が経ち、古めかしい城の中でエヴァは少しずつ自分の居場所を造ってきた。
召使にかしずかれる貴族の生活には、どうしても慣れることができなかった。
身の回りのことは今までどおり自分でやることにして、義母には眉を潜められたが、花壇の世話をすることと子供達の衣類を縫うことをいつの間にか自分の仕事にしてしまった。
召使達も初めの頃は、エヴァの次期城主の奥方らしくない振る舞いに戸惑っていたが、そのうち彼女が自分達のやり方を変えようとしている訳ではないと分かると、そっとしておいてくれるようになった。
アルテュスからは一度手紙がきたきりで、それから音沙汰がない。
無事に新世界に到着したのだろうか?
嵐に遭遇したり、敵の船と闘ったり、海賊に襲われたりしたのではないか?
長い航海では病人も多く出ると聞いたことがある。
熱病で苦しんでいるのではないだろうか?
怪我をしているのではないか?
じっとしているとどうしても悪いことばかり考えてしまう。
仕事をしていれば、余計なことを考えなくて済む。
エヴァは毎日朝早くから起きて、朝食に降りる前に自分の部屋とアルテュスの部屋の掃除をする。
アルテュスの部屋は二人で使っていた寝室である。
彼がいた時から何一つ変っていなく、中庭を見下ろすことができる窓辺に座ると、今にも階段を上がる夫の足音が聞こえてくるような気がする。
その部屋で朝日が窓にはめ込んだガラスを薄紅色に染めるまで、エヴァは一人で思い出の儀式を行うのだ。
夫が残して行った服を長持から出して、一枚一枚ベッドの上に広げていく。
大きな上着に顔を埋め、生地に染み付いた彼の匂いを思い切り吸い込む。
そうする度に胸が締め付けられるように痛むけれど、何故か口元には自然と微笑みが浮かんでしまう。
上着のポケットに手を入れると、中に入っていた物をひとつひとつ取り出してベッドの上に並べる。
幾つかの硬貨、
飾り気のない男物の銀の指輪、
擦れて殆ど数の読み取れなくなった角のサイコロ、
面白い縞模様の入った平たい石、
錆びた小さな鍵、
数字の書かれた破れた紙切れ。
じっと見つめていると、それらの物はまるで息づいているようで、アルテュスがここにいたという確かな証拠のように思えてくるのだ。
エヴァは深い溜息を吐くと、ひとつひとつ大切にポケットに戻す。
それから、夫の為に心をこめて一針一針縫い上げた新しい肌着を丁寧に畳み直すと全てを長持にしまうのだ。
長持の蓋をぱたんと閉じると、それが儀式の終わりの合図だったように、エヴァはすっきりした顔をして部屋を出て皆のいる広間に下りて行く。
「ごちそうさまでした」
小声でそう言って席を立ったエヴァは、大きなテーブルの端に座っていた女に声をかけられ、驚いて振り向いた。
「何でしょうか?」
義兄の許婚だった女の顔を真っ直ぐに澄んだ瞳で見つめながら、それでも恐る恐る尋ねる。
女は白い顔を歪めて笑った。
「よかったら少しお話ししない?」
エヴァは両手でスカートの皺を伸ばしながら黙って頷く。
この家に戻ってから、いつも食事はアルテュスの家族と一緒に食堂でしている。
アルテュスか義父から何か言われたのか、義母も以前のようにエヴァを追い出そうとはしなかった。
毎年この時期になると、城から半日程行った所にある町に大きな市が立つ。
三日の間、近辺の町や村から大勢の人が集まり大層賑やかになる。
毎年そのうちの二日間は、義父は仕事も兼ねて家族全員で町に出かけるのだ。
子供達もとても楽しみにしていたので、エヴァは留守番を買って出た。
義兄の許婚のマダレンも皆と一緒に行く予定だったのだが、今朝になって頭痛を口実に城に残ったのである。
「外は暑いから、私の部屋に行きましょう」
エヴァは先に立った女の後に続いて食堂を出た。
風の入る窓際のベンチに腰掛けたエヴァは、正面の椅子に座った娘を見つめた。
マダレンは居心地悪そうに椅子の縁飾りを弄っている。
そして、コホンと咳払いをすると、窓から外を見るように腰を浮かした。
「ここから花壇が良く見えるわ。風が吹くと良い香りが部屋に入ってくるの」
エヴァは嬉しそうに微笑むと、大切に育てている花を見下ろした。
「いつも楽しそうにしている貴方が羨ましいわ」
エヴァが不思議そうな顔をするのをちらと見てマダレンは顔を背けた。
「私は今まで楽しいことなんて何一つなかったもの」
どうやらこの娘は自分に胸の内を打ち明けたくなったようだ。
エヴァは目を丸くすると、話を続きを待つように座りなおした。
「持参金があるからこの家でも大事にしてもらえているけど。皆、本当は私のことを嫌っているわ。貴方だってそうでしょう?」
エヴァは首をふるとにっこりした。
もとより根に持つ方ではないし、年の近い同性の話し相手ができることが嬉しかったのだ。
「8歳の時、両親が流行り病で相次いで亡くなってしまったの。母がド・タレンフォレスト家の遠い親戚だったから、この城に引き取られることになったけど、多分父の残してくれた財産がなかったら、誰も私の面倒を見てくれなかったと思うわ。貴方のご両親は?」
「私も子供の頃に母を亡くしましたが、ティアベに父がいます」
「そう言っていたわね。それに、今はド・タレンフォレスト家次期当主の奥方ですものね。私がそうなる筈だったのに」
マダレンは溜息を吐いた。
「アルテュス様が貴方と結婚してしまったから、城主様は今度は私をあの憎たらしい小僧と一緒にするつもりなのよ」
エヴァはびっくりした。
小僧とはヤンのことだろう。
「でも、ヤンは……」
「多分嫌がるでしょうね。貴方にはこの気持ちはわからないでしょう? アルテュス様に愛されているんだもの。誰も心から私を欲しがる人なんていないの。亡くなったフェリズ様だって城主様に逆らうことはなかったけれど、他に好きな人がいたようだし」
マダレンは虚ろな瞳で明るい庭を眺めた。
羽音を立ててミツバチが花々の間を飛び回っている。
エヴァはそっと溜息を吐く。
いくらお金があったとしても、この人達の生活を羨ましいとは思えないわ。
信頼関係のない形だけの家族、親に決められた婚約者。
私は船長さんが求婚してくれなかったら、どうしていたのかしら?
お父さんと一緒に暮らして、そのうち自分と同じ身分の男の人を好きになってその人と結婚して、貧しいけれども幸せな家庭を築いたのだろうか?
そして、船長さんはマダレンさんと結婚していたのかしら?
そしたら、二人は幸せだったのだろうか?
もしアルテュスと出会っていなかったら……
二人の娘はそれぞれの思いを抱えて窓から外を眺めていた。
隣の領地で怖ろしい計画が立てられていることも知らないで。




