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アルテュスは落ち着かなかった。
エヴァを騙そうとした男のことが頭から離れず、彼女を絶対ひとりにしないように警戒していた。
そして一緒にいる時には常に回りに注意を払っていたが、あれから何もおかしなことは起きなかった。
だが、ヤンと三人で波止場の道を歩いている時も、定食屋で昼食をとっている時も、いつも誰かに見られている気がするのだ。
海の男の直感とでも言うのだろうか。
アルテュスはもう少し傍にいたいという誘惑に負け、エヴァを港に連れて来てしまったことを心から後悔していた。
そして、初めは『ラ・ソリテア号』を見送ってからエヴァとヤンは二人で家に戻る筈だったのだが、予定を早めて自分で家まで送って行くことに決めた。
そうでもしないと航海中ずっと気を揉んでいなければならないだろう。
家にいればいつも誰か周りにいるから安全だ。
エヴァはそのようなアルテュスの気持ちに全然気付いていないように見えた。
ただ夫の傍にもう暫くいられることを喜んでいるようだ。
無邪気で愛らしいと思う一方で、もう少し危機感があった方がいいのではないかと思われたが、彼女の喜びを壊したくなかった。
アルテュスは自分の感じている不安をエヴァには話さないことにした。
弟には注意をするように言ったが、見られている気がすることは言わなかった。
気配がするだけで根拠がないのである。
自分を英雄と崇めている弟に心配性で意気地なしの兄とは思われたくなかったのだ。
ある晩、宿屋でアルテュスは、隣で船乗り達の話していることに興味を引かれた。
「おい、その話、もう一度語ってくれ」
急に船長に声をかけられた水夫は驚いた顔をしたが、頷くと緊張した面持ちで話し出した。
「昨夜、仲間達と一緒に『三人の水夫』に行ったんです」
『三人の水夫』は売春宿だ。
水夫は許しを乞うようにちらと船長を見たが、アルテュスは早く続きを話すように促した。
彼らとは既に契約を結んでいるが、陸にいる間は自由なのだ。
浴びるほど酒を飲んで喧嘩をしようが、何十人の女と寝ようが、船長が口を挟むことではない。
出港日に五体満足で、しらふで、きちんと持ち場に就いていれば問題ないのだ。
水夫の話はやたらと長かったが、省略すると以下のようなものだった。
数人の女を交えて仲間達と酒を飲んでいると、そこにいた客らしい男が声をかけてきた。
『ラ・ソリテア号』では女も雇っているのかと。
ひとりがそんなことはないと答えると、男は驚いた顔をして言った。
だが『ラ・ソリテア号』の船長は自分の女を船に乗せているのではないか?
水夫達は、ティアベからここに来る時には船長の奥さんが一緒だったが、通常は『ラ・ソリテア号』には女は乗せないこと、新世界への航海は船長の奥さんを連れては行かないことを話した。
男は他にも『ラ・ソリテア号』の行く先や乗組員のことなどを色々尋ねたが、水夫達は男が職を探しているのではないかと思い親切に答えてやったというのだ。
アルテュスは眉間に皺を寄せ暗い表情で考え込んでいた。
その男の特徴を尋ねると、返って来る答えは様々だったのだ。
男達は既にかなり飲んでいたのだろう。
話をしていた水夫は髭を生やした赤ら顔の大男だったと言い、ある者は髭などなく色白の太って小柄な男だったと言った。
別な者は他の港で見かけたことのある船乗りだったと言い張った。
髪の色や目の色もてんでバラバラなのだ。
アルテュスは男達を睨みつけると皮肉を込めて言った。
「つまり、そいつは髭面で髭がなく、赤ら顔で色白で、背が高くて低く、黒い髪で金髪で、黒い目で青い目だったと言う訳か」
水夫達は申し訳なさそうに顔を見合すと、おずおずと口を開いた。
「男は普通の船乗りの格好をしていて、別に怪しいところはありませんでした」
アルテュスは顔を顰めて頭を振った。
仕方がない。
明日は『三人の水夫』に行って、その場にいた女達に直接話を聞いてやろう。
そう思ったアルテュスは翌日、エヴァを迎えに行く前に『三人の水夫』に立ち寄ったが、女達も一回来たきりの客などよく覚えてはいなかった。
日々は飛ぶように過ぎて行く。
その時その時を大切に生きようと思っていたエヴァだったが、やはり時間が進むにつれ、笑顔を見せることが少なくなった。
午前中は毎日ジェニファーの家に通い、昼に迎えに来たアルテュスとヤンと一緒に行きつけの定食屋で食事をする。
午後は天気が良い日は、ヤンと散歩をすることもあったが、大抵早いうちに疲れて宿屋に戻っていた。
アルテュスの前では快活に振舞っていたが、ヤンと二人になると口数も少なくなり、ぼんやりとしていることが多い。
ヤンはそんな義姉を心配そうに見ていたが、何も尋ねなかった。
初めは自分で決めたこととはいえ、エヴァはジェニファーの家に行くのが苦痛だった。
ジェニファーが昔アルテュスの恋人だったことを知った為だ。
過去のことだ。
今はジェニファーにも元船乗りの夫がいると知っていても、どうしても嫌な気持ちを拭い去ることができなかった。
できればアルテュスの過去を全部消し去ってしまいたかった。
自分がそうであるように、アルテュスにも自分ひとりであって欲しかった。
ジェニファーの家では普通にしていたエヴァが、宿屋に戻りアルテュスと二人だけになると急に泣き出した。
嫉妬に胸を焼かれるような思いで唇を噛み涙を流す妻を、アルテュスは黙って優しく抱き寄せた。
エヴァは嗚咽を堪えながら、以前アルテュスの友人のマテオ・ダヴォグールに聞いた話を思い出していた。
ジェニファーだけじゃない。
他にも大勢いたのだろう。
エヴァは自分の髪を撫でる男の手を振り払った。
他の女に触れた手で触って欲しくなかった。
どうにもできないことは分かっていても、胸が苦しくて仕方がなかった。
宿屋ではアルテュスは自分とエヴァの為に屋根裏の小部屋を借りていた。
普通は客を泊めない部屋であったが、宿屋の主人の馴染みであるアルテュスは、昔からティミリアに来る度にその小部屋を借りていたのだ。
マリルイーズと出会い別れた後、ここに戻ってくるのは初めてだった。
床下には大勢の客の泊まっている大部屋があることが分かっているので、音を立てるわけにはいかなかったが、人目に晒されずに二人きりで寛げる空間はありがたかった。
アルテュスはジェニファーとのことをエヴァには言っていなかったが、どうやら知ってしまったようだった。
自分から話した方が良かったのか?
だが随分昔のことであるし、自分にはエヴァが気にするような気持ちは何もないので、余計なことは言わぬ方が良いと思ったのだ。
このような場合、いつもなら面倒臭いと思うアルテュスだったが、エヴァは本当に苦しそうで放っておくことはできなかった。
多分このような気持ちが自分の中にあるとは思ってもいなかったのではないか?
自分の手を跳ね除ける一方で、縋りつくような瞳で見つめてくるのだ。
過去に嫉妬して涙を零す妻が愛しかった。
アルテュスは言い訳染みたことことは何も言わなかった。
だが振り払われても避けられても、エヴァから離れず優しく接した。
そして、逃げようとする妻を少しばかり強引に押さえつけると、泣き疲れてぐったりなるのを待ってから優しく服を脱がし、何もかも分からなくなるまで情熱的な愛撫を与える。
「……こんなことをするのは始めてだ」
「君だけだ……」
このような言葉を囁かれながら、夢と現実の間を恍惚と漂ううちに、いつしか過去は過去として受け止める気持ちがすとんと自然にエヴァの胸の中に納まった。
二人が一緒にいる所を見ていれば、アルテュスとジェニファーの間に恋愛感情はないことがはっきりと分かったし、今はエヴァだけだと言う夫の言葉も信じることができた。
残っている僅かな時間を大切にしたいと思った。
エヴァが甘えるように逞しい胸に頬を摺り寄せると、まるで壊れ物でも扱うように優しく抱き締めてくれる。
このまま時が止まってしまえばいいのに。
彼が留守の間、御伽噺の中のお姫様のようにずっと眠っていられればいいのに。
やきもち焼いて泣いたりした所為か、船長さんは最近私をとても気遣ってくれる。
まるで世界中から私を守ってくれるように。
嬉しいけれど少しばかり申し訳なく思う。
他にも色々心配事はあるだろうに、私のことで余計な気を使わせて。
だから船長さんの前では、寂しそうな素振りは絶対に見せないと決めた。
泣いている顔や怒っている顔ではなくて、笑顔を覚えていて欲しいから。




