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竜騎兵と花嫁  作者: 海乃野瑠
第6章 婚礼
31/90

6-3

ティアベの町は白い朝靄に包まれていた。


やっと東の空が薄っすらと明るくなってきている。


しんと澄んだ空気の中に、ぎいと音を立てて小さな家の戸が開く。


ショールに包まった少女がそっと顔を覗かせ、急いで外に出ると、音を立てないように注意して戸を閉めた。


眠そうな腫れぼったい瞼をしているが、口元はきりっと引き締められている。


外の空気は冷たいが、透き通った空が晴天を予告していた。


腕に籠を抱えた少女は、まだ薄暗い道を足早に教会の方に歩いて行く。


途中朝早くから仕事に出かける職人達にすれ違うと、会釈を返しながらずんずん進んで行った。


昨夜の祭りの名残のがらくたが広場の隅に積んである。


教会に着くと、少女は中には入らずに裏に回る。


教会の裏には小さな墓地があった。


細かい模様が彫られたどっしりとした十字架が並び、墓場の中心にはまるで御伽噺に出てくるような半分崩れかけた古い石の塔が立っている。


知っている小道をどんどん行くと、奥の隅の方に小さな墓石が並んでいる所があった。


少女はそこで立ち止まると、籠からエニシダで作った小さな箒を取り出し、辺りの枯葉を掃き集めた。


そして、綺麗になった墓石の上にドライフラワーの花輪を置き、その前に跪くと石に刻まれている名前を指でなぞった。


「お母さん」


優しい声でそっと囁く。


自分が10歳の時に亡くなった母親をエヴァはよく覚えていた。


少女のように朗らかで、優しかった母のことを。


だが、家では滅多に母親のことを口に出さない。


私がお母さんの話をするとお父さんが辛そうにするから。


少女はまるで死んだ母が傍にいるように小声で話しかけている。


「これから当分来れなくなるけど、マリヴォン小母さんが時々様子を見に来てくれるって約束してくれたから」


エヴァは親切な近所の者に母が好きだった雛菊の季節になったら、墓に花をあげてくれるように頼んだのである。


それから少女は、母親の墓の隣にある小さな墓石を撫でた。


その下には、生まれて2日で死んでしまった弟のミケルが眠っている。


エヴァが生まれてから中々次の子に恵まれなかった両親が、やっと授かった命だった。


寒い冬の日、ゴンヴァルは生まれたばかりの赤ん坊を教会に連れて行った。


産声も満足に上げることができなかったその子の命はあまりにも儚く見えたので、急いで洗礼を受けさせなければならなかった。


吹雪の中、家に戻った父親が赤ん坊を包んでいた毛布を広げてみると、小さなミケルは既に青白く冷たくなっていたのである。


ゴンヴァルの妻は夫を咎めはしなかったが、二人共、寒い中に連れ出さなければもしかしたら、ミケルはもっと長生きしたのではないかという思いを拭い切れなかった。


エヴァの母親は春になっても床を離れることはできなかった。


夫も娘も愛する者が日に日にやつれて行くのを見守ることしかできなかったのだ。


幼いながらもエヴァは、家事を受け持ち、病人の面倒もよく看た。


秋になり少し元気になった母親は冬の訪れと共に風邪をひき、それが原因で肺炎になり、息子の命日も待たずに呆気なく死んでしまった。


「お母さん、ミケル。私、幸せになるから。だから、心配しないで安らかに眠ってね」


二人に別れを告げたエヴァは立ち上がり、膝の土を掃い籠を手に持つと、ゆっくりと来た道を戻り始めた。




教会の前に立っている聖母の像に挨拶すると、扉をそっと押した。


昨日の賑やかさは微塵も窺われず、しんとした薄暗い教会の中は乳香と蝋の匂いがする。


エヴァの木靴が立てる音だけが辺りに響いている。


少女は昨日アルテュスと並んで座った場所に向うと、硬いベンチに腰掛けた。


暗い祭壇を見上げてホッと息を吐く。


目を瞑ると夫となった男の顔が瞼に浮かび、エヴァはほんのりと頬を染めた。


彼の考えていることが時々分からなくなるけど、私のことをとても大事にしてくれるわ。


あの時も船長さんの手はとても温かかった。


私が不安になると、あの人は直ぐに気がついて、いつも安心させてくれる。


昨夜は、昼間からの出来事と初めて夜の祭りに行って興奮した私は、蜂蜜酒を飲み過ぎたのだ。


気持ち悪くはならなかったけど、目を回した私を船長さんは家まで送ってくれた。


そして……


昨夜のことを思い出した少女は真っ赤になると目を潤ませ、火照る頬に冷たい両手を当てた。


……船長さんに抱き締められるのが好き。


船長さんに接吻されるのが好き。


そんなこと思うのは、はしたないことかしら?


大きな手で撫でられると、あまりの心地良さにまるで猫のようにごろごろと喉を鳴らしたくなるの。


あんなに大きくて強そうなのに、私に触れる時はいつもとっても優しい。


抱き締められると、胸がどきどきして頭がくらくらするの。


昨日の晩は船で仲間と共に過ごした船長さんが、もうすぐ迎えに来てくれる。


そして、一緒に船に乗るんだ。


これからはずっと一緒なのね。


ふと気が付いて顔を曇らせる。


違うわ、一緒なのは陸にいる間だけよね。


エヴァはゆっくりと立ち上がると出口に向ったが、船乗りの守護聖人の前で立ち止まり、硬貨を傍に備え付けてある箱に入れると蝋燭に火を灯す。


聖エラスムス様、どうか、どうか、私の船長さんをお守りください。


彼が必ず私の許に帰ってきますように……




船尾甲板に立った船長の指示を受け、航海士の下す号令に従って、乗組員達はきびきびと作業をこなして行く。


帆桁にはずらりと見習い水夫が並び、掛け声に合わせ展帆作業を行っている。


白い帆がばさりと広がり、やがて風を孕んで大きく膨らんだ。


錨が上げられ、帆船は身を軋ませながらゆっくりと向きを変える。


伝説的な船長『ラテディム海のオーガ』の船『ラ・ソリテア号』の出港である。


波止場は見送りに来た人々や野次馬で賑わっていた。


ティアベの二つの塔を背に『ラ・ソリテア号』は、風を受けどんどん速度を上げる。


空気は冷たいが、太陽は既に空高く輝いており空は真っ青だ。


春の兆しは海に出る船乗り達を浮き浮きさせた。


暫くして視界から港が消え、辺りが全て暗く青い水だけになると、男達はホッとしたように持ち場を離れた。


甲板から船長の姿が消えると、見張り台に立った男が、帆桁から降りようとしている見習い水夫達に声をかける。


「おい!」


「……何ですか?」


見張り台の一番近くにいた少年は、何を言われるのだろうとびくびくしながら、縄に摑まったまま止まって尋ねた。


「俺がいる所からははっきり見えなかったのだが、最後に船長が担いで来た、あのでかい荷物は一体何だ?」


そんなことを聞かれるとは思っていなかった見習い水夫は、にやにやしながら答える。


「ああ、ありゃ多分人間ですよ」


「……死体か?」


見張り台の男は、身を乗り出して恐る恐る尋ねた。


「死体? いやいや、まさか。そりゃ違いますよ」


ハハハと笑っていた少年は声を潜めた。


「ポールの奴があれは絶対女だと言っていました。靴を履いた足がちらと見えたそうです」


「女だと? いったい誰だよ?」


「多分、船長の嫁さんじゃないですか?」


少年が目をくるくるさせてそう言うと、見張り台の男も歯をむき出してにやにやした。


「おまえら、後でそっと様子を見に行くんじゃないのか?」


「勘弁してくださいよ。見つかったら、それこそぶっ殺されますよ」




船長の船室に閉じ込められたエヴァは、船が動き出すのを感じると、寝台から起き上がり小さな窓に駆け寄った。


アルテュスは絨毯に包んだ少女をまるで荷物のように船室に置くと、後で来るからと言い捨ててさっさと行ってしまった。


船長さんなんだもの。


きっと仕事が沢山あるんだわ。


窓からは海しか見えなかった。


少しばかり心細くなったが、この船にはアルテュスが乗っている。


それに婚礼の時に会った船乗り達も皆乗っている筈だ。


ここから新しい生活が始まるのだわ。


そう思うとしっかりしなくてはと気持ちも引き締まる。


父との別れは辛かった。


今度はいつ会えるのだろうと思うと涙が止まらなくなったけど、迎えに来てくれた船長さんが傍に来て、年に一度クリスマスと大晦日の間に私を連れてティアベに来るからと約束してくれた。


あの人は優しい人だ。


恐れることは何もないのだろう。


船長さんと一緒だったら幸せになれない筈はない。


船の中を自由に歩き回ることができなくて残念だ。


でも、船長さんの部屋に入れただけでも嬉しいわ。


これで、船長さんが留守にしている間も、彼がどんな生活をしているのか想像することができるわ。


エヴァは嬉しそうに船室に備え付けてある家具に触れた。


そうだ、私の荷物を片付けてしまおう。


そう思った少女は、船室の隅に置かれた自分の荷物を解き、辺りを見回すと枕元の小さな戸棚を開けてみた。


そこは、アルテュスの酒蔵のようで、酒瓶とグラスが幾つか入っているだけだった。


こっちの棚かしら?


低い方の棚を開けると、何も入っていなかったので、そこに自分の衣類を入れさせてもらう。


それから籠から商売道具を出すと、机の引き出しを開けた。


ふわりと甘い薔薇の香りが広がった。


何かしら?


引き出しには、紙が何枚かと鷲ペン、封印に使う蝋と印章や角のペーパーナイフが入っていた。


そして一番奥にはとても美しい女物のレースのハンカチが、さも大切な物のようにしまってあったのである。


エヴァはそっとハンカチを元に戻すと、引き出しを閉めた。


船長さんの大事な物なのね。


私が勝手に自分の物をしまったりしたら、多分嫌がるだろう。


どうして、胸が痛いの?


エヴァは力が抜けたように、ぼんやりと寝床に腰を下ろした。


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