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雨に濡れた石畳の道を外套に包まって歩いていた二人の男は、赤いレンガ造りの建物の前で立ち止まった。
煉瓦の壁は灰色っぽい蔦に覆われている。
家の二階程の高さに明り取りが並んでいた。
そして正面には鉄の閂がついた頑丈そうな木の扉があった。
扉は大きく開いており、先程二人を追い越して行った荷馬車が横付けにされている。
体格のいい男がひとり、馬車の後ろに地面から板を斜めに立てかけている所だった。
二人が近付くと男は帽子を取り元気な声で挨拶をしてから、倉庫の方に口笛を吹きながら歩いて行った。
アルテュスは胡散臭そうな顔で辺りを見回すと、自分の前に立つ父親の背中を見ながら言った。
「香辛料の商いだと思っていました」
奥行きのある建物の中は、見渡す限り酒樽と思われる大きな樽が積まれている。
奥の方では頭を布で包み、シャツの袖を捲り上げた男達が元気な掛け声をかけながら樽を転がしている。
「高級なシェリー酒だぞ」
父親が後ろに控える召使に命じると、召使は樽の蛇口からチョロチョロと出てくる酒を小さなコップに受け、アルテュス達の所に持ってくる。
アルテュスはコップを受け取ると、父親の方を見ながら目の高さに掲げ一息に飲み干した。
「悪くない」
そう呟いた息子を渋い顔で見ていた父親は話を続ける。
「香辛料だけじゃ儲からぬ時代になったのだ。おまえは家を出ていたから知らないだろうが、酒や織物など徐々に商売を広げ、最近は武器の貿易も手がけているのだ」
呆れたような顔をした息子は隣で自慢げに話す父親を見下ろした。
「武器もですか」
「ああ。ルカナル産の最新式の大砲は値段は高めだが、購入する価値はあるぞ」
これにはアルテュスも興味があるようで、しかめっ面は相変わらずだが、父親に色々と質問をしている。
敷地内に並んでいる倉庫を一通り見回った男達は、待たせていた馬車に乗り込むと港に向った。
3ヵ月後に新世界に向けて旅立つ予定の船を見に行くのである。
その頃には現在航海中の船が帰国している筈だった。
港に着くと、事務所で仕事がある父親と別れ、アルテュスは霧雨の降る中をひとり波止場に下りて行った。
父親との別れ際の会話を思い出し、アルテュスは歩きながらも、眉間に皺を寄せ考え込んでいた。
「3ヵ月後に家の貿易船の護衛として新世界まで行くつもりはないか?」
確かに最近、私掠船としての儲けは限られてきている。
敵海まで赴かなければならない有様だ。
船乗りとして西の海には興味があったし、未知の世界には冒険心がそそられた。
だが、何も問題なかったとしても最低2ヶ月はかかる旅だ。
半年間は家に戻れないと思った方がいいだろう。
澄んだ青い瞳が脳裏を掠めた。
結婚したばかりで何ヶ月も留守にすると言ったらエヴァはどう思うだろうか?
アルテュスは目を細めて、父親の所有物である排水量800トンのキャラック船と400トンのガレオン船を眺めた。
錨を下ろした船の帆は畳まれ、濡れそぼった旗はマストに張り付いてしまっているが、丸みを帯びた船体や大きな船尾楼は、大層美しく見えた。
もし『ラ・ソリテア号』が護衛するなら、商船はあまり武装しなくてすむ。
その分、荷を積むことができるのである。
行ってみようじゃないか。
アルテュスは不敵な笑いを浮かべると、船には乗らずに港町の方に歩き出した。
頭の中で素早く出発までに残っている日にちを数える。
そうと決めたら俺の船にも西の海をよく知っている者が必要だ。
そう決心すると、アルテュスは足取りも軽く、初めに目に入った鸚鵡の絵を描いた看板の下っている酒場に入って行った。
城の台所がこんなに賑やかだったことは初めてだった。
初めは恐縮して隅の方に固まっていた使用人達も、楽しそうにしている子供らに次第に打ち解けてきた。
「ここでお食事するのは始めてよ。音立ててもおしゃべりしても叱られない!」
ユナが嬉しそうに匙で粥の入った皿を叩きながら言った。
シーッとマリーがたしなめるように妹の腕に手を乗せる。
「グレゴール、どうしたの? もっと食べたいの?」
隣でモジモジしている少年が頷くと、エヴァは料理人に声をかける。
「デヴィーさん、この子にもう少しお粥をあげてくださいな」
少年の皿に気前よく粥をよそいながら料理人のデヴィーが笑った。
「デヴィーでいいですよ。若奥様」
「僕にもおくれ」
傍からヤンが口を出す。
食堂の給仕に行っていた召使が戻って来て、他の使用人達と何やら話している。
その様子を横目で見ながらヤンが言った。
「あの女が悪いんだよ。義姉上のことを食堂から追い出そうとしたりして。今更、僕達が台所で食事するのはまずいって言ったって知ったことじゃない。父上に言いつけたければ、言いつけるがいいんだ」
エヴァが言われたとおり素直に朝食のテーブルを立って台所に向おうとすると、義姉上が召使達と食事をするなら僕達もとヤンを先頭に子供達もぞろぞろと後について来たのだ。
どうやらヤンは、兄が留守の間、自分がエヴァを護ると決心した様子だった。
頼もしい子だこと。
エヴァは頑固そうな少年の横顔を見ながら考える。
船長さんも子供の頃はこんな感じだったのかしら?
いつも悪戯して、叱られてばかりいたというようなことを前言っていたけど。
その日は朝から雨が降っていたので、子供達が勉強している間、エヴァは自分の部屋で荷物の整理をしていた。
マテオ・ダヴォグールに作ってもらった服は最初の晩から着ていなかった。
楽な服装の方が好きだけど、船長さんと結婚してここに戻ってきたら、多分毎日このような服を着なければならないのね。
学校では仕方がなかったとはいえ人前で髪を見せること、それから首や胸元の肌を見せることに抵抗があったのだ。
数少ない自分の服を畳みなおし、ベッドの足元の長持に入れる。
それからアルテュスの服を手に取った。
洗ったばかりの白いシャツはラベンダーの香りがする。
まあ、何て大きなシャツなんだろう!
私が二人入りそうだわと思ったエヴァは笑い出した。
こんなに大きな人は貧乏だったら大変ね。
衣類には人一倍布が必要だし、食べ物だって……
丁寧に畳んだシャツを長持にしまいながらエヴァは優しい気持ちになった。
アルテュスが残していった上着を手に取ると、ふわりとよく知っている男の香りがしてエヴァは頬を赤く染めた。
いやだわ、私ったら。
船長さんの匂いがしただけで動揺している。
部屋には誰もいる筈がないのだが、エヴァは確認するように辺りを見回すと、男の上着に顔を埋めた。
そしてそっと呟いた。
「お願い、早く帰って来て」
夜はひとりきりの部屋で少しばかり心細かった。
継母が悪巧みをするかも知れないからとヤンに言われて、扉には鍵をかけてあった。
いつものように温められたベッドに入っても、長椅子に横たわった黒い影が見えないだけでこんなに肌寒く感じる。
数日間と言っていたけど、いつ帰ってくるのだろう?
エヴァは最後の夜にアルテュスに抱き締められて眠ったことを思い浮かべた。
暗闇の中で赤くなり、ドキドキする胸を押さえホッと息を吐く。
あの時、時折頭や額に落とされる接吻や背中を撫でてくれる大きな手がとても優しくて、何故か胸が苦しくなり涙が溢れそうになったのだ。
このままずっと船長さんの力強い腕の中にいたいと思った。
何故とても幸福なのに、切ない気持ちになるのか分からなかった。
恋をするってこういう気持ちなのだろうか?
船長さんはもっと私を自分のものにしたいけれど、お父さんと約束してしまったからティアベに戻るのを待つと言った。
よく意味が分からなかったけれど、何だか聞いてはいけないことのような気がした。
学校で生徒達が話していたあのことやあれというのに似ている。
でも船長さんは大人だから、私が何も知らないって分かったらちゃんと教えてくれるわよね。
船長さんが戻ってきたら、私達はティアベに戻って結婚式を挙げる。
そして船長さんの船でここに戻るのだ。
女性は船に災いを招くと言われているから、誰にも知られずに乗り込むと言われていた。
どうするのだろう?
また男の子の格好をするのかしら?
でもティアベまでの道が心配だわ。
この前のようなことにまたなったら……
絶対に私を護ると言ってくれたけど、私は船長さんのことが心配なんだ。




