5-3
アルテュスの実家に着いてから既に3週間が過ぎていた。
まだ2月の初めだというのに、数日前からずっと暖かい日が続いている。
エヴァは、出来るだけアルテュスの家族と顔を合わせないようにして、静かに暮らしていた。
食事や礼拝の時間には、やむを得ず家族の集まる食堂や礼拝堂に行ったが、他の時間は庭に出たり、自分の部屋で過ごしたりしている。
ひとりでいるのには慣れているので苦にならなかったが、やはり新しい家族に疎まれていると思うのは辛い。
ある日、エヴァは散歩に出た裏の林で、木の枝を拾っているアルテュスの弟と妹達に鉢合わせてしまった。
エヴァが顔を強張らせながら挨拶すると、子供達は好奇心に溢れる明るい瞳で自分達の新しい義姉を見つめ、笑顔で挨拶を返してきた。
嬉しくなった少女は、子供達に木の枝で何をするつもりなのかと問いかけた。
遊びで使う旗を作ると答えた子供達は、エヴァに裁縫ができるかと尋ね、できるなら古い布で旗を縫って欲しいと頼んだ。
その日から彼らは、義姉に対してまるで自分達の仲間のように振る舞い、毎日のように遊ぼうと誘いに来るので、一人っ子のエヴァはまるで兄弟ができたようでとても嬉しかった。
13歳のヤンを頭にマリー、グレゴール、ユナの4人がエヴァの遊び仲間だった。
兄弟の中でアルテュスに一番似ているとエヴァが思ったのが、グレゴールだった。
目鼻立ちはまだ子供らしく優しいが、縮れた髪や大きな黒い瞳がそっくりなのだ。
船長さんもこんな可愛らしい子供だったのだと思うと可笑しくて堪らない。
しかし性格はヤンの方が似ているらしく、急に何かを思いついて突っ走っていくヤンを、エヴァは微笑ましい気持ちで眺めていた。
彼らは厩の裏にある今は使われていない納屋を隠れ家としていて、古いカーテンやシーツ、壊れた家具、樽、麻の袋、底の抜けた鍋などを使い実に様々な遊びを考え出すのだ。
即席の舞台で、家族で都に行った時に観たという笑劇を演じたり、手作りの楽器で音楽会を開いたりするのだった。
最初はエヴァはもっぱら見物人だったのだが、そのうちに役を与えられ、皆と一緒になって台詞を言ったり、歌を歌ったりしている。
今皆が一番気に入っているのは新世界発見ごっこで、エヴァがアルテュスやペレック爺さんに聞いた話を基に、子供達は逆さにした一本脚のテーブルに乗って、転覆した船から筏で脱出し、新世界の島まで流れ着く冒険者になるのだった。
ヤンが台所からくすねて来た萎びたリンゴや、チーズの塊などを、死んだ船乗りの人肉だなどと言いながら、皆で仲良く分け合って食べた。
遊び疲れたユナが膝の上で眠ってしまい、ずっしりと重たくなった柔らかな体が冷えないように外套で包みながらエヴァは胸の中が暖かくなった。
この家にこの子達と親切な使用人がいてくれて本当によかったわ。
何度か台所に顔を出すうちに、手紙を書いてやった女の他にも数人の召使達と仲良くなったのだ。
エヴァは兵学校で親しかったセラファンやアルカンのことを思い出した。
皆元気でいるかしら?
いつかまた会えるのだろうか?
エヴァン・ド・タレンフォレストは、竜騎兵になる為リュスカ公の許に向う途中、事故に遭い行方不明になったことになっていた。
心配させてしまったのじゃないかしら?
彼らには本当のことを伝えたかったのだけど。
マテオ・ダヴォグールに禁じられ、彼らに手紙を書けなかったのだ。
アルテュスは毎日のように朝早くから日が暮れるまで父親と外出していた。
夕食には戻ってきたが、二人共、不機嫌なことが多かった。
いかにも気が立っている様子の兄に兄弟達は近寄ろうとしなかったし、アルテュスも彼らに無関心そうだった。
初めの頃は兄の元許婚のマダレンは、食事中にアルテュスの気を引こうと一生懸命話しかけていたのだが、男のあまりにも無愛想な態度に今では完全に愛想を尽かしたように見える。
アルテュスはエヴァに対して、夕食の席では皆に見せ付けるように優しかったが、二人きりの部屋に入るとがらりと人が変ったように素っ気無くなるのだった。
そして、エヴァの話を聞こうともせずに眠ってしまう。
その夜も薄暗い部屋の中で、窓際から聞こえてくる静かな寝息に耳を澄ませていた少女は、そっと溜息を吐いた。
今夜は珍しく月が出ているようで、窓の下に黒い影が横たわっているのが見える。
エヴァは悲しかった。
船長さんのことが分からない。
ここに着いた夜はとても優しかったのに。
子供みたいにベッドの上で飛び跳ねたりしてびっくりしたけど。
エヴァは髪に接吻されたことや、頬を撫でられたことを思い出し、暗闇の中で赤くなる。
傭兵に襲われた日、宿屋で慰めてくれたこと、馬車の中で体を温めてくれたことなど、アルテュスに優しくされた時のことを一つ一つ思い浮かべていると、寂しくて堪らなくなった。
とてもドキドキして恥ずかしいけど、船長さんに優しく触れられたい。
エヴァはそっとベッドを抜け出した。
上靴がどこにあるのか分からず、裸足で床に降りる。
ひんやりとした床をぼんやりと浮かんで見える窓に向って歩く。
ベンチの上には毛布を被った男が背を向けて眠っていた。
大きな男の体はどうやらベンチからはみ出してしまっているようだ。
男の呼吸に合わせて毛布がゆっくりと上がったり下ったりしている。
エヴァはベンチに近寄ると、そっと頭がある辺りを覗き込んだ。
急にがばと起き上がった男に腕を掴まれ、エヴァは小さな悲鳴を上げた。
「エヴァか? どうした?」
寝起きの掠れ声でそう尋ねたアルテュスは、目を擦りながらベンチに座ると少女を膝の間に引き寄せた。
穴があったら入りたいと思った。
アルテュスに優しくして欲しい一心で傍に来てしまったが、その後どうするか全然考えていなかったのである。
「何でもないです。起こしてしまってごめんなさい」
腕を振り切って逃げようとする少女を放さずにアルテュスは言った。
「何でもないってことはないだろう。震えているではないか?」
エヴァは消え入るような声で呟いた。
「……優しくして欲しいの」
アルテュスは何も言わずにエヴァの腕を放した。
嫌われてしまったのかと怖くなる。
思わず男に取り縋って口走っていた。
「お願い、嫌わないで。私、船長さんのこと……」
男の手で口を塞がれた。
「もう何も言うな」
アルテュスはエヴァを抱き上げベッドに運ぶと、寒くないようにしっかりと毛布に包んでやった。
エヴァが見上げると、屈み込んでいる男の顔は暗くて見えないが、暗い瞳が自分を見つめているのを感じる。
「避けている訳ではなくて、別のことに気を取られて余裕がないだけなんだ」
自嘲的な口調で男が言った。
「貴方のことは大事にしたいと思っている」
エヴァは小さく頷くと、布団から手を出して指先でそっと男の頬に触れた。
髭が伸び始めているのか、ざらざらした感触に思わずゾクリとした。
大きな温かい手が少女の手を絡め取る。
指先に男の唇を感じ、少女は身を震わせた。
月が雲に隠れたのか、辺りは闇に包まれている。
「今日、商業登録簿に俺の名前を登録してきた。これで正式に父の跡を継ぐことが決まった。これから数日間、留守にするが、戻ってきたらティアベに帰れるぞ」
耳元で、そう囁いたアルテュスに不安そうに尋ねる。
「どこに行くの?」
「港にある倉庫と父の船を見てくる」
暗闇が少女を大胆にさせた。
男の首に腕を回すと震える声で囁いた。
「今夜はここにいて……」
隣の領地を見張っている赤毛の男が、大急ぎで屋敷に向って走っていた。
階段を駆け上がりノックもそこそこに扉を開けると、双子の主人達は取り込み中だった。
「しっ、失礼しました!!」
慌てて回れ右をしようとした家来に、女の上に覆い被さっていた方の男が少々息を弾ませながら、振り向いて声をかける。
「おい、何があったのだ?」
あられもない姿で長椅子の上に四つんばいになった女の前には、もうひとりの男が立ち、顔を真っ赤にして目を白黒させている。
家来は豊満な肉体を見ないように目を逸らせながら、しどろもどろに塔の上から見た光景を二人に報告する。
やっと女から離れた男は、身繕いをするとパシンと音を立てて女の尻をぶった。
「ほら、さっさと失せろ」
しっしっとまるで犬を追い出すような仕草をした男は、家来の方を見てもう一度今言ったことを繰り返すように命じた。
額の汗を袖で拭いながら二人は、顔を見合わせると頷き合った。
「そうか、領主と一緒に旅立ったか。では、奴が跡を継ぐことが決まったんだな」
「これで、ゆっくりと作戦が練れるな」
最高の気分で男達は声を揃えて高笑いをした。
「それから」
怯えたような顔で双子を見比べていた家来が口を開いた。
「一緒に来た女性は、どうやらあの男と結婚しているそうです」
「ほほう、奴は女中を妻にしたのか?」
「馬鹿な奴だ。どうせ、孕ませちまって、結婚しなかったら死んでやるとか脅されたんじゃないのか?」
考え込んでいた男が呟いた。
「奴の留守の間に、どうにかして、近付きになれないものかな?」
「いや、それはまだ早いのではないか? もう少し計画が煮詰まってからにした方がよかろう」
男達はニヤニヤと顔を見合わせる。
「愛する奥方が俺達の手に落ちたと知ったら、奴はどうするかな?」




