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竜騎兵と花嫁  作者: 海乃野瑠
第5章 城
25/90

5-2

「どうして、あんなことを?」


エヴァは咎めるような口調で囁いた。


だが、扉の前に立っている背の高い男に注がれるその眼差しは、不安げに揺れている。


「仕方がないだろう。ああでも言わなきゃ納得しなかっただろうから」


男は不貞腐れた顔で少女を見返した。


「でも、あの女の方は……」


「関係ない。兄が死んだからって、俺が兄の許婚と結婚しなきゃならない義務はないだろう」


「だけど貴方のお父様は……」


「父にとっては残念なことに、俺は成人してから既に2年以上経っているからな。結婚相手は自分で選ぶ権利がある。それに……」


ノックの音にエヴァは飛び上がり、アルテュスは口を噤んだ。


鼠色の服を着た侍女が扉口に姿を現し、お辞儀をして言った。


「奥様、お着替えをお手伝いいたします」


少女が両手を揉み合わせながら途方に暮れた顔をすると、アルテュスはその縋るような瞳を避け扉の方に向かった。


「下で酒を飲んでくる。先に寝ているがいい」


「お飲み物ならここに……」


侍女が戸棚からコップを出そうとするのを遮って言った。


「いや、父がまだ起きていたら話したいことがあるのだ」


そして、エヴァの方を見ることもなく、さっさと部屋を出て行った。




深みのある赤いビロードの天蓋のついた、高さのあるベッドが、あまり大きくないその部屋の真ん中にあった。


ベッドの脇には一面に狩の絵を彫刻したどっしりとした箪笥と先程侍女が飲み物を出そうとした戸棚がある。


薄い黄色と透明のガラスを格子縞に嵌めてある窓の近くには、木のベンチが置いてあり、その隣には小さな机がある。


そして奥には赤い火の燃えている、古めかしい石造りの暖炉があった。


装飾も家具も立派なものだが、どことなく時代遅れの感じのする部屋だった。


侍女が長い柄のついた銅製の行火で温めてくれたベッドに潜り込んだエヴァは、アルテュスのことを考えていた。


緊張の所為で胃の辺りがキュッと捻れるように痛い。


この部屋に戻ってくるのかしら?


あんなことを皆に言ってしまったのだから、多分戻ってくるのだろう。


夕食の席で家族にエヴァを自分の婚約者として紹介したアルテュスは、婚約を認めないと言った父親と口論になり、最後に父親を黙らせる為にとんでもない嘘を吐いたのである。


つまり、自分は既にエヴァと結婚している、ここに来る前に教会で式を挙げ完遂したと断言したのだ。


だから兄の許婚と結婚することはできないと言ったのだった。


船長さんのお父様はとても怒ってらした。


あたりまえよね。


親の許可も祝福もなしに結婚したなんて。


そして、アルテュスが寝室は妻と一緒でいいなどと言った為、エヴァはこの部屋で休むことになってしまったのだ。


婚約者とはいえ、男と二人きりで同じ部屋で寝るのは初めてだ。


エヴァはドキドキする胸を押さえ、ふうと溜息をついた。


どうしよう。


何だか逃げ出したくなってきたわ。


でも、どこに行ったらいいのだろう?


その時、急に乱暴に扉が開かれ、驚いた少女は布団の中に潜り込んだ。




布団からそっと顔を出すと、机の上に置かれた燭代の光に照らされて、よく知っている男の姿があった。


先程まで逃げ出したくなっていたのに、入ってきたのがアルテュスだと知ってエヴァはホッとした。


だけど、どうしたのだろう?


お父様とまた喧嘩をしたのだろうか?


アルテュスは扉を背にして、暫く動かずに暗い顔でエヴァの方を見ていた。


何かに耳を澄ませている風でもあった。


それから、肩を聳やかせると、扉に鍵をかけズカズカとベッドに近付いた。


そして、枕元に屈み込むと、エヴァが声を出さないように唇に指を当てて小声で尋ねた。


「今ここに誰か来なかったか?」


エヴァは両手で顎までシーツを引っ張り、硬い表情で答える。


「いいえ、誰も」


眉を潜めたアルテュスは考え込みながら言った。


「では、あれは父のスパイか」


そして納得したように続けた。


「そこの廊下で大急ぎで出て行く男にすれ違った。どうやらこの部屋の前で聞き耳を立てていたようだ」


スパイですって?


では、この親子の間には信頼関係はないということ?


エヴァは自分の父親が懐かしくて堪らなくなった。


何やら考え込んでいたアルテュスの表情が徐々に変化して、最後には悪戯っ子のような笑みを浮かべるのを、エヴァは不安そうに見つめていた。




靴を脱ぎ捨てたアルテュスが急にベッドに飛び乗ったので、エヴァは小さな悲鳴を上げた。


船長さんは気が狂ってしまったの?


それとも酔っ払っているのだろうか?


アルテュスは天蓋を閉じると、いきなりベッドを酷く揺らし始めたのである。


エヴァの所からその顔は見えないが、どうやら声を出さずに笑っているようだ。


男の体重でベッドはミシミシ、ギイギイと壊れそうな音を立てている。


エヴァは顔を青くして布団にしがみ付いている。


バキッという妙な音と共に一層大きく揺れたベッドから放り出されそうになった少女は泣き声を上げる。


「もう、やめて!! お願い!!! ……壊れちゃう!!!」


すると男は揺さ振るのを止め、枕側の壁に唸り声を立てながら体当たりを始めた。


暫く繰り返すと、最後に一際大きな声で叫びバタンとベッドの上にうつぶせに倒れた。


エヴァは隅に縮こまって震えている。


……怖い。


男の気が狂ったとしか思えなかった。


もしかして狂犬病にかかってしまったのだろうか?


子供の頃、ティアベの町で狂犬病にかかった男が兵に捕らわれたのを見たことがある。


人間が動物のように地面に蹲り、涎を垂らしながら唸り声を上げているのを見るのは遠くからでも怖ろしかった。




アルテュスは顔を上げると、怯えて泣きべそをかいている少女を見て、慌てて起き上がり謝った。


「驚かせて悪かった。だが、これで奴も、俺達がどんなに仲が良いか父に報告できるだろ」


潤んだ瞳に問い掛けるように見つめられ、アルテュスは居心地悪そうに咳払いした。


「分からないんだったらいい」


ゴンヴァル殿に約束しちまったから、教えたくても無理なんだが、と少女に聞こえないように呟いた。


エヴァは分かったと言うように頷くと、やっと微笑んだ。


「船長さんは子供の頃を思い出していたのですね。でも大人になってからこんなことしたら家具が壊れますよ」


クスクス笑っている少女を、アルテュスは苦笑いをしながら眺めていた。


揺さ振られているうちに、おさげがすっかり解けてしまい蜂蜜色の髪がふんわりと肩を覆っている。


胸元でリボンを結んだ、たっぷりとした白い綿の肌着を纏った少女はとても可愛らしかった。


船で思い描いたよりもよっぽど……


二人は手を伸ばせば触れられる距離でじっと見つめ合う。


まるで包み込むような、男の優しいが力強い眼差しに少女は頬を染める。


これ以上、こいつを見ていたら手を出しちまいそうだ。


アルテュスは艶やかな髪を一房手に取ると、そっと口付ける。


「お休み、奥方。良い夢を」


そして、はにかんだ微笑みを浮かべた少女の薔薇色の頬をそっと撫でると、侍女がベッドの足元に置いていった余分の毛布を掴み、ベッドを降りて木のベンチの方に向かった。


アルテュスが木のベンチで寝ようとしているのを見たエヴァが慌てて起き上がった。


「私がそちらで寝ますから、船長さんはちゃんとベッドで……」


肩からずり落ちそうになった肌着を押さえながら、自分の方に来ようとする少女を押し止める。


「気にしなくても良い。俺は船で硬くて寝心地の悪い寝床には慣れている」


「でも……」


「いいから、もう黙って寝なさい」


少女のそんな姿をこれ以上見ていたら、何だか具合の悪いことになりそうだった。


アルテュスが蝋燭を吹き消し、辺りは暗闇に包まれた。


エヴァは温かいベッドに横になったが、目を閉じる前に窓の方を向いてそっと囁いた。


「……ありがとう。おやすみなさい」




エヴァは朝食のテーブルに着き、煮た果物を掬った匙を口に運んでいた。


できるだけ音を立てないように飲み込もうとするのだが、先程から二度ほどしゃっくりのような音を立ててしまっている。


前にはアルテュスの父親の再婚相手と兄の元許婚が座っていた。


既に食べ終わっているのに席を立たないで、エヴァのことを冷たい眼差しでジロジロと観察しているのだ。


早く食べて部屋に戻りたい。


アルテュスはどこに行ってしまったのか、朝から姿が見えなかった。


若い方の女がコホンと小さな咳をした。


整っているが表情の乏しい白い顔をした娘で、小さな顎に鼻は尖っており、細い目は灰色で黒く長い睫に縁取られている。


唇だけは赤く柔らかそうで、女の表情にいくらか暖かみを与えていた。


髪も黒に近い色で、流行の形に高く結い上げられている。


隣りに座っている婦人と同じ腰の部分を膨らませた形の地味な色合いの服を着て、毛のショールを肩に巻いていた。


その婦人は対照的に血色がよく、目鼻立ちがはっきりとした顔からは若い頃の美貌が偲ばれる。


二人共、初めは敵意というより好奇心に満ちた目でエヴァを眺めていたのだが、あまりにも無垢な少女を見ているうちに残酷な気持ちになってしまったらしい。




中年の婦人が口を開いた。


「お名前はなんと仰るのでしたっけ?」


エヴァはパンの塊を慌てて飲み下すと答えた。


「……エヴァです」


「ご両親のお名前は?」


「父は代書人のゴンヴァルと呼ばれています。母は私が子供の頃に亡くなりました」


「まあ、では貴方のご両親は貴族ではないの?」


若い女が驚いたような声を出した。


エヴァは黙って頭を振った。


「お家は?」


「ティアベの下町に小さな家を借りて暮らしていました」


若い女が独り言のように呟いた。


「どうしてアルテュス様と結婚できたのかしら?」


「でも勿論、持参金はおありだったのでしょう?」


「持参金って何でしょうか?」


女達は顔を見合わせた。


「旦那様ががっかりなさるのも無理ないわね」


「アルテュス様は気難しそうな方だけど、どうやって取り入ったのかしら?」


「愛らしい顔や瑞々しい姿に惹かれたのでしょう。数年すればそのようなものはなくなってしまうというのに」


「大人しそうな顔をしていても、やっぱり卑しい生まれの方は、お金持ちの男の人の気を引くのにも慣れていらっしゃるのね」


「アルテュス様も若き日の過ちだと、もう少ししたらご自分でもお分かりになって、大層後悔されるでしょうよ」


堪らなくなったエヴァは、ご馳走様と呟くと椅子から腰を浮かした。


「結婚を無効にすることはできないと旦那様が仰ったから、アルテュス様がやもめになるのを待たなければならないわ」


「貴方がいなくなれば、喜ぶ人は大勢いるということを忘れないで頂戴ね」


食堂を出て行く少女の背中に残酷な言葉が突き刺さった。


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