5-1
雪の積もった小道を息せき切って走る男がいる。
足跡がずっと雪の上に続いているところを見れば、男は背後に聳え立つ古びた塔から出てきたようだ。
塔の階段にでも落としたのだろうか頭に帽子はなく、赤茶けた髪が風に靡いている。
厚い毛の外套を身に纏い腿までの長靴を履き、寒さで頬と鼻を赤くした若い男だ。
やがて屋敷の門を潜った男は、二段跳びで階段を駆け上がる。
そして忙しく息を吐きながら、二階の廊下の一番奥の部屋をノックした。
「入れ」
暖炉に燃えさかる火に照らされた部屋は、天井が低く濃い茶色で纏められている。
暖炉の前ではチェスボードを間に向かい合っていた二人の男が、家来の方を向いて話すように促した。
「あの男が着きました!!」
二人の男の容姿はまるで鏡を見ているようにそっくりだ。
熊のような大きな体、下膨れの顔に短い金髪、狡猾そうな小さな黒い目をしている。
同じように鼻に皺を寄せた二人はそろって唸り声を上げた。
「そうか、とうとう来たか!」
左側に座っている方が、手にした駒をことりとボードに置き、口を歪めて笑い声を漏らす。
「チェック」
「おい兄貴。遊んでいる場合じゃないぜ」
負けた方は駒を手で払い除けると立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「負けを認めないのがおまえの悪いところだなあ」
椅子に座ったままの男はそう言うと、家来に向かって尋ねた。
「それで、奴はどんな感じだった?」
「若い女と一緒でした」
「女だって? 奴の妻だろうか?」
「いえ、召使だと思います」
「召使? ああ全ての雑用をこなす女中ってことだな?」
全てを強調してそう言った男はニヤリとすると、数分しか歳の違わない弟に向かって呼びかけた。
「さあ、こっちに来たまえ兄弟。やっとこの20年間待ち望んでいた機会がやってきたのだ」
弟は兄の前に座ると、チェスボードの上に手を組み合わせ、黒い目を光らせて言った。
「復讐か。ゾクゾクする言葉だな」
男の後に続いて馬車を降り立った少女は、中世を思わせる造りの城を目を丸くして見上げている。
まあ、まるで御伽噺に出てくるようなお城だわ!
船長さんは小さい頃こんなお城で暮らしていたのね。
男が振り返りもせずにずんずん歩いていってしまうのに気がつき、慌てて後を追いかける。
あの事件の後は何事も起こらず、旅は順調だったのだが、数日前から酷く機嫌が悪くなった男に気を使って疲れてしまった。
一日中、馬車の中でも食事中も口を利こうとしなかった男に、我慢できなくなり理由を尋ねたのだ。
「貴方の所為ではない。放っといてくれ」
吐き捨てるようにそう言われ、エヴァは泣きたくなった。
船長さんのことが分からない。
この間まではとても優しかったのに。
何故怒っているのか分からないけれど、こんな顰め面を見ていたら食事も美味しくないわ。
「彼女を部屋に案内してやってくれ」
物思いに沈んでいた少女はアルテュスの声で我に返った。
男の隣には白い頭巾を被り、コルセットで胴を締め付けた鼠色の服を着た若い女が立っている。
エヴァのことを頭の天辺から爪先まで、ジロジロと見ていた女が澄ました顔で言った。
「どうぞこちらへ」
召使の後について歩きながら少女は辺りを見回した。
暗くてあまり良く見えないが、石の壁は豪華なタペストリーで覆われているようだ。
薄暗いホールから階段を上がると広い踊り場があり、正面には両開きの扉があった。
「少々こちらでお待ちください」
扉の脇にある、肘掛と足の部分に動物を彫った木のベンチをエヴァに示しながらそう言うと、女はノックして部屋に入って行った。
エヴァはベンチに腰を下ろし、両手でスカートの皺を伸ばした。
少しばかり心細くなった少女は、背筋を伸ばして大きく深呼吸をする。
しっかりしなくては。
これから新しい家族に会うのだから。
十年振りに足を踏み入れた我が家は、何も変っていなかった。
薄暗い廊下も、軋む扉も、湿っぽい部屋の匂いも、自分が子供の頃に嫌で堪らなかった陰気な空気もそのままだ。
あの頃のやるせない気持ちや反抗心まで蘇ってきそうだった。
アルテュスは案内された部屋のベッドに仰向けに寝そべると、暗い天井を見上げて考えた。
まだ、父とは顔を合わせていない。
食事の時まで、挨拶をしに行くつもりはなかった。
父からの手紙で、一年前の流行病で母と兄、弟と妹二人が亡くなったことを知っていた。
兄以外の兄弟とは遊んだ記憶もなかったし、死んだと聞いても悲しい気持ちは起きなかった。
けれども母にはちゃんと別れを告げたかった。
横暴な性格の父に長年連れ添い、多くの子を産んで育てた母は、幸せだったのだろうか?
仕事で留守がちの父には怒られた記憶しかない。
そういう時、母は自分を庇ってはくれなかった。
でもそれでも、少しばかりは気に留めていてくれたのではないのか?
そうであって欲しいとずっと願っていたのだ。
もう確認することもできなくなってしまった。
アルテュスは苦笑いを浮かべると起き上がった。
何を女々しい気持ちになっているのだ。
物悲しい角笛の音が響き渡る。
それは、食事の準備ができたことを知らせる合図だった。
風呂に入り、旅で汚れた服を着替えたアルテュスは、重々しい足取りで食堂に向かった。
口元を引き締め、眉間には深い皺を刻んでいる。
広間に入ったアルテュスは、既にテーブルに着いている父親に向かって頭を下げた。
頬がこけ髪と髭にも白いものが多くなったが、その鋭い眼差しや鷲鼻、力強い顎は記憶のとおりだった。
長細いテーブルにはずらりと子供達が並び、帰ってきた兄を好奇心に満ちた眼差しで見上げている。
そして父親の隣には見覚えのない中年の婦人、それから反対側には若い婦人が座っている。
召使に案内され若い婦人の前に座ろうとしたアルテュスは、父親の言葉に眉を潜めた。
「私の妻とおまえの婚約者だ」
アルテュスは二人の女を見た。
では、父は母が死んでから一年もしないうちに再婚したのか。
そして、俺の婚約者だと?
テーブルにエヴァの姿はない。
「私と一緒にここに来た女はどうした?」
「貴方の女中のことでしたら、台所で食事を与えています」
そう答えた中年の女性をじろりと睨んだアルテュスは、父に断ると席を立ち扉の方に足早に向かった。
「私を待たないで、先に食事をしていてください」
台所への階段を下りながら、アルテュスは自分に腹を立てていた。
自分のことばかり考えていて、エヴァのことをすっかり忘れていた。
知らない家に連れてこられて、召使と一緒にされ、心細くて泣いているのではないか?
護ってやると約束したのに、俺はいったい何をやっているんだ?
台所に近付くと、ざわざわとした喧騒の中に誰かが詩を朗読しているような声が聞こえてきた。
既に食事の終わった使用人達がテーブルの隅に集まって何やらしているようだ。
楽しそうな笑い声も聞こえる。
ご主人様の食卓とは偉い違いだなと苦々しく思いながら、男は台所の中を覗いた。
入り口に立ったアルテュスの所からは、エヴァの姿は見えなかった。
しかし、次期当主に気付いた者が驚いた声を出し、皆がアルテュスの方を見た。
皆が体を起こしたお陰で、真ん中に座っている少女の頭巾が見えた。
鷲ペンを手に握り、何か一生懸命に書いているようだ。
「エヴァ」
アルテュスが声をかけると少女は顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「そんな所で何をしている?」
エヴァは隣に立っている女の方を見て答えた。
「手紙を書いています。この方の娘さんは、なんとティアベに住んでいるのですって。だから私達が帰る時に手紙を届けてあげようと思って……」
「ここに来てまで仕事をしなくてもよい」
「仕事ではありません」
「とにかく、早く来なさい。皆が食堂で待っている」
エヴァは澄んだ青い瞳でアルテュスの顔を見上げた。
「お願い、書き終えるまで後少しだけ待って……」
「あの、続きは明日でも大丈夫ですから」
傍からアルテュスの顔を窺うようにしていた女が遮った。
「では、また明日続きを書きますね」
少女が約束をして立ち上がると、アルテュスは使用人達を見回して言った。
「俺の婚約者が世話になったな」
ぴょこんとお辞儀をすると、次期当主の後を小走りで追う少女を皆はあんぐりと口を開けて見ていた。
階段に足をかけたアルテュスは振り返ると思い出したように言った。
「エヴァ」
「はい」
「マテオの奴に作ってもらった服を着るといい」
「え? でもひとりでは……」
「誰か手伝いに寄こしてやろう」




