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船長さんの様子がおかしい。
少し前からエヴァは、隣に座ったアルテュスを気遣わしげにちらちらと見ていた。
馬車の揺れにもびくともしないその大きな体から、ピリピリするような緊張感が漂って来るのだ。
だがその目には重い瞼が垂れ下がり、まるで眠っているように半分閉じられている。
眠っているのかしら?
病気じゃないわよね。
二人の前の座席には、昨夜泊まった宿駅でアルテュスが雇った傭兵が座っている。
中肉中背だが敏捷そうな体つきをした、楔のような尖った浅黒い顔の若い男である。
男は先程から落ち着きがなく、貧乏揺すりをしながら、度々馬車の窓から外を窺っている。
アルテュスの様子がおかしいことには気付いていないようだ。
今朝、宿屋を発ってから、わざとらしい笑い声を上げながら、ひっきりなしにアルテュスに話しかけていたのだが、相手が眠ってしまったと思ったのか、少しばかり肩の力を抜いたように見えた。
エヴァに口を利くことを禁じられていた男は、雇い主が眠り込んだと見ると、少女の方を向いた。
男は少女に歯を剥き出して笑いかけ、身を乗り出すようにすると、自分の懐に手を入れた。
エヴァも微笑もうとしたが、男の目を見た途端、何故か背筋がぞくりとして腕に鳥肌が立つのを感じた。
…………!!!
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
エヴァは飛び起きた大男によって馬車の隅に弾き飛ばされた。
ぶつけた腕を擦りながら慌てて起き上がると、恐怖に目を見開いた。
薄暗い馬車の中では二人の男が揉み合っている。
傭兵の手に短剣が握られているのを見たエヴァは真っ青になった。
体格的にはアルテュスの方が有利なのだが、何しろ大きな男だ。
狭い馬車の中では十分に動けないのである。
アルテュスが体勢を立て直した時、傭兵の腕が自由になり、短剣の鋭い刃がエヴァの隣のカーテンを切り裂いた。
少女が小さな悲鳴を上げ、次の瞬間、アルテュスに頭突きを食らわされた男は意識を失い床に崩れ落ちた。
「怪我はないか?」
唇が震えてどうしても声が出せず、エヴァは蒼白な顔で男を見上げると頷いた。
「そこの袋を取ってくれ」
重い麻の袋には、荷造りに使う縄の余った分が入っている。
アルテュスは座席の間でやっとのこと男をうつぶせにすると、敏速に縄で腕と脚を縛った。
「絶対解けない結び方だ」
そう言って安心させるようにエヴァに頷いて見せたアルテュスは、腰から短銃を取り出すと少女に差し出した。
「何があっても貴方を護る。だが、もし馬車の扉を開けるものがいたら躊躇せずにぶっ放せ」
そして自分ももう一丁の銃を手に取ると、御者に聞こえるように座席を蹴飛ばし大声で怒鳴った。
「おい、聞こえるか?! 罠に嵌められたようだ!! 気をつけろ!!!」
御者の驚いたような叫び声が聞こえ、馬車が大きく揺れて止まった。
アルテュスは素早く片手で窓のカーテンを閉じた。
馬の嘶きと男の怒鳴り声に続き、バタバタと走り回る足音がして同時に左右の扉が開かれた。
エヴァは銃を構えたまま凍りついたように動けなかった。
黒い影が襲い掛かってきて、悲鳴を上げようとしたが掠れ声しか出なかった。
「エヴァ、撃て!!!」
指が動かない。
誰かに乱暴に肩を掴まれ、少女は身を竦めて目を閉じた。
その瞬間、辺りに銃声が轟いた。
馬車に乗り込もうとしていた男は、驚いたような顔のまま暫く立っていたが、やがて仰向けにひっくり返った。
その様子を眺めながらエヴァは、両手に銃を抱えたまま、放心したように座り込んでいた。
足元では漸く気がついた男が悪態を吐いて起き上がろうとしている。
外に飛び出したアルテュスが扉を閉めていったので何も見えないが、どうやら戦いは続いているらしく、慌しい足音や金属のぶつかり合う音が響いている。
反対側の扉は開いたままで、身を切るような冷たい風がヒュウと音を立てて入ってきた。
扉を閉めなくてはと思うのだが、立ち上がることができず、エヴァは座ったまま震えていた。
縛られた男は暫く喚きながら暴れていたが、縄を解くことはできず、今は大人しくなっている。
そのうち、エヴァは外からの物音が消えているのに気がついた。
船長さんはどうしたのだろう?
様子を見に行ったほうがいいのかしら?
アルテュスの身に何かあったらと思うと、怖ろしくて口から悲鳴が漏れそうになる。
急に近くで男の話し声がした。
続いて、馬車の後ろを回って歩く足音が聞こえ、開いている扉にアルテュスが姿を現した。
「大丈夫か?」
普段と変らないその顔、その声に、張り詰めた糸が切れたようにエヴァは、ぽろぽろと涙を流してしゃくり上げた。
腕に怪我をした御者の代わりにアルテュスが手綱を握り、捕らえた暴漢達を乗せた馬車は、その日の午後遅く泊まる予定のなかった町に着いた。
宿屋に着くと、亭主に言って行政官と医者を呼びに行かせ、自分達は広間に腰を落ち着けて食べ損なった昼食を注文した。
久し振りに体を動かして腹が空いたと、串刺しの肉にかぶりついていたアルテュスは、ふと顔を上げエヴァが何も食べていないのに気がついた。
「気分が悪いのか?」
「……」
泣いた所為で目元は赤いが、顔色は悪く目の下には隈ができている。
「エヴァ」
ずっと前を見たまま動かない少女の肩に手を置くとビクッとして、怯えたような顔で見上げてきた。
アルテュスは顔を顰めた。
迂闊だった。
泣き止んでから町に着くまで、御者の世話を甲斐甲斐しくして元気に振舞っていたから、大丈夫だと思ったのだ。
いくら兵学校に行ったからって、戦に慣れている筈などないのに。
生まれて初めてあんな目に遭って、どんなに怖ろしかったのだろう?
「おいで」
動かない少女に優しく言った。
「ほら」
腕を取って立たせると、殆ど抱えるようにして階上の部屋に連れて行く。
通り際に宿屋の女房に蜂蜜を入れた熱い葡萄酒を一杯、上に持って来るように頼んだ。
寝室には広間の暖炉に繋がっている煙突が片隅にあり、煉瓦で囲われたその場所は大層暖かかった。
アルテュスは外套を床に敷くと、煉瓦の壁に寄りかかるように座り、自分の膝の間にエヴァを座らせた。
少女はまるで人形のように抵抗もせずに男の腕の中に納まった。
「怖い思いをさせて悪かった。最近は宗教戦争で治安が悪化しているのを利用して悪事を働く奴らがいるのだ。しかし、まさか奴らがぐるになってあんな所で待ち伏せをしているとは思わなかった」
台所の小僧が温めた酒を持ってきたので、アルテュスは懐から小袋を出すと、中に入っていた紙に包んだ香辛料を注意深くコップに注ぎ入れた。
胡椒や肉桂、チョウジなどを粉末状にしたものである。
ナイフの先でかき混ぜると湯気を立てているコップをエヴァに差し出した。
「ほら、これを飲んでみろ」
少女は両手でコップを受け取ると呟くように礼を言う。
「俺が人選を誤ったのも悪いのだが、あの愚かな雇兵のお陰で罠を予測することができたからな。奴は今、俺に雇われたことを猛烈に後悔しているだろうが」
そう言って小さく笑ったアルテュスにエヴァは頷いた。
熱い酒を一口飲むと、胸の中が温かくなり、ホッと息を吐いた。
アルテュスの気遣いが嬉しかった。
船長さんは私を護ってくれる。
大事にしてくれる。
でも、私は何も出来なかった。
自分自身を護ることも。
船長さんを助けることも。
撃てと言われたのに、襲ってくる男に向けてどうしても引き金が引けなかったのだ。
撃たなければ殺されていたのに。
結果として自分の代わりに船長さんにあの男を撃たせてしまった。
「……ごめんなさい」
声が震える。
役に立たなくてごめんなさい。
意気地なしでごめんなさい。
私を護る為に貴方の手を汚させてしまってごめんなさい。
「謝ることなど何もないぞ」
アルテュスはそう言うと、エヴァの顔を覗きこんだ。
ぽろっと零れた涙を優しく指で拭ってやる。
そんなことを気にして泣いているのか?
いじらしくて堪らなくなり、思わず自分の胸に頭巾に包まれた小さな頭を抱き寄せていた。
「エヴァ」
「今度は逃げたりしない。ちゃんとするから……」
アルテュスは頭を振ると、見上げてくる青い瞳を見つめ、震える唇に指をあてて黙らせる。
「俺が絶対に護るから。だから、できれば今日のことは忘れてくれ」
俺の為に良心の呵責を感じる必要はないんだ。
「ありがとう」
そう言って無理に微笑んだエヴァの白い額にそっと口付けた。




