4-5
怖い兵隊さんと顔を合わさなくて済むようにと、まだ暗いうちに隣のベッドを抜け出したエヴァに起こされたアルテュスは、顰め面で広間に下りてきた。
馬車の準備ができるまでの間、昼に食べるパンやパテなどをバスケットに詰めてもらい簡単な朝食を取る。
不安そうに廊下の方をちらちら見ていたエヴァは、馬車の座席に座るとやっと笑顔になった。
雪は降っていないが、昨日よりも気温が下ったようで、馬車の中でも吐く息が白い。
どうやら窓も凍ってしまっているようだ。
エヴァは自分の外套に包まっていたが、寒くて仕様がなかった。
向かいに座り、少女の隣に脚を投げ出した男は、帽子を目深に被り眠っているようだ。
座席の上に膝を抱えて蹲り、頭から外套を被って震えていたエヴァが、くしゅんと小さなくしゃみをした。
馬車の立てる騒がしい音に掻き消されてしまったが、僅かな物音にも敏感な海の男の耳には入ったようで、アルテュスは帽子を引き上げるとエヴァの方をジロリと見た。
「寒いのか? 風邪でもひかれたら厄介だな」
そして、自分の体にかけていた大きな外套を持ち上げると言った。
「こっちに来い。温めてやる」
「大丈夫です!!」
真っ赤になって、ぶんぶんと頭を振るエヴァに男は繰り返した。
「早く来い。病気にでもなられたら迷惑だ」
それでも動こうとしない少女に痺れを切らしたアルテュスは腰を浮かした。
「来ないんなら俺がそっちに行く」
エヴァの隣にどっかりと腰を下ろすと、隅に縮こまった少女を引き寄せる。
膝の上に抱き上げて、自分の外套に入れてやった。
少女の頭を自分の胸に押し付けると、怯えさせないようにそのままじっと動かない。
そして、絶対にもう眠れそうもなかったが、眠っている振りをした。
自分の心臓の音が馬車の中に反響しているようだ。
恥ずかしくて顔を上げられない。
エヴァはアルテュスの膝の上で、俯いてじっと息を潜めていた。
そのうち息が苦しくなり、ふうと大きな吐息が出てしまった。
男がびくともしないので、少し安心して体の力を抜いた。
私は船長さんの婚約者なんだもの。
何も怖がることはないのだろう。
暫くすると、男に触れている部分から段々体が温まってきた。
もう降りた方がいいのではないだろうか?
でも動いたら起きてしまうかしら?
そっと離れようとすると、男は低い唸るような声を出す。
「動くな」
エヴァはビクリと体を硬くすると悲鳴を飲み込んだ。
アルテュスが裾から出ていた自分の足を掴んだのだ。
そして黙って冷え切った爪先を大きな掌で包むようにして揉んでいる。
指にはしもやけができているのか、ジンジンと痛かった。
エヴァは羞恥心に押し潰されそうだった。
心臓はドクンドクンと妙な具合に鼓動しているし、頭に血が上ってぼーっとして何も考えられない。
何かに縋らないと崩れ落ちてしまいそうだ。
自分が何をしているのか、よく分からないまま、逞しい胸に寄りかかり男の服の襟の辺りを掴んで握り締めていた。
急に座席の上に投げ出されたエヴァは、びっくりしてアルテュスの顔を見上げた。
不機嫌そうに眉を顰めた男は、自分の外套を怯えている少女の上に放り投げると、向かいの座席に座りそっぽを向いた。
暫く戸惑ったように重い外套を抱えてアルテュスの方を見ていたエヴァは、おずおずと口を開いた。
「何か気に障るようなことをしてしまったのなら謝ります。でも、これ着ないと船長さんが風邪ひいてしまいますよ」
ちらと少女の方を見ると不貞腐れたような顔で頭を振る。
「いや、謝らなくてもいい。余計なことをして済まなかった。着ていなさい、毛皮の方が温かいだろう」
エヴァは自分の外套を脱ぐと、それを丸めて男の膝の上に置いた。
「だったら私のを使ってください」
そして、顔を赤らめると口早に付け加えた。
「船長さんのお陰で温かくなりました。ありがとう」
アルテュスは横を向いたままで答えなかったが、厳つい顔が少しばかり和らいだように見えた。
その日は凍った道を一日東に向かい、暗くなってからやっと泊まる予定の町に辿り着いた。
宿の者に案内されて煤けた広間に入ると、煮込んだ塩漬けキャベツの匂いに包まれた。
エヴァは思わず鼻に皺を寄せたが、アルテュスは嬉しそうな顔をした。
本日のおすすめ料理なのだろう。
細長いテーブルは旅人達でいっぱいで、皆、山盛りのキャベツと塩漬けの豚の脛肉にかぶりついている。
やがて自分達の前に運ばれてきた料理を見て、エヴァは首を傾げた。
皆が食べている煮込み料理の他に、直火で焙った分厚いハムと生の塩漬けキャベツがあったのだ。
「キャベツの匂いが苦手なら、生の方を食べたらいい」
そう言ったアルテュスは黒パンを二切れ取ると、マスタードを塗り、ハムとキャベツを挟んでエヴァに差し出した。
そして自分にも同じものを作りながら、子供のような顔をして笑った。
「俺の好物だ」
両手でパンを持ったまま、その顔に思わず見惚れていたエヴァは、アルテュスに促されてやっと食べ始めた。
表面をカリッと焼いた柔らかいハム、シャキシャキの酸っぱいキャベツにピリッとしたマスタードがよく合って、とても美味しかった。
「とっても美味しいです」
少女がそう言うと、男は自分もパンを頬張りながら嬉しそうに答えた。
「美味いだろ。船の連中は、もう塩漬けキャベツはうんざりだと文句を言っているがな」
食事が終わると、アルテュスは同じテーブルの者に酒を振舞うように亭主に言いつけた。
これから向かう地方について詳しく聞きたかったのだ。
腕っ節には自信があるので、恐怖心は微塵もなかったが、エヴァを少しでも危険な目には遭わせたくないと思っていた。
ご馳走様と杯を掲げながら、鋭い目付きをした中年男が口を開いた。
「この季節にご婦人連れで旅をするのは大変だろう?」
「やむを得ない事情があるのだ」
アルテュスに行き先を聞いた男は、顎をぽりぽり掻きながら言った。
「東北に行かれるのなら、ルーゲンの町までは比較的安全だと言える。あの町は公爵様の領地にあるからな」
男が公爵様と呼ぶのは、王の弟君のボワイエ公のことである。
「そこからは多分、警護の兵を雇っていかれた方がいいだろうな」
男の言葉に頷いたアルテュスは、旅人達を見回して尋ねた。
「最近、都に行った者はいるのか?」
「あんた達の来る前にここを発った巡礼者達は都からと言っていたな」
「都から入ってくる情報はあまり面白くないものばかりだぞ」
「我が国の王は名ばかりの王だからなあ。成人されても一人前と認められてないそうだし」
「病気がちの方だし、それも仕方ないのだろうな」
「外国人の母后様と腹黒い大臣に実権を握られているとは、あまりにも情けない。もう、この国もおしまいだな」
「貴族達が殺し合いをするのは別に構わんが、新教徒との諍いで国中が不安定になっているだろう。これじゃ安心して商いもできないし、隣国にどんどん追い抜かれていくだけではないのか?」
男達の話を目を丸くして聞いていたエヴァだったが、政治のことは良く分からないしあまり興味もない。
それよりも、少し前から部屋の隅でテーブルに背を向けて座っている男が気になっていた。
そっとテーブルを離れるとそちらに歩いて行く。
長い白髪を後ろに束ねた髭面の老人が、前に座った若い男の似顔絵を描いていたのだ。
「こんばんは。見ていてもいいですか?」
画家が頷くのを見て、エヴァはベンチの端に腰を下ろした。
老人の節くれ立った指が膝の上に広げた紙の上を踊り回り、驚くような速さで目の前の男の顔が現れてくる。
出来上がった絵を手渡されると、男は感嘆の声を漏らし懐から硬貨を出して老人の手に握らせた。
「あんたの番だよ」
画家に前の椅子を示されたエヴァは慌てて頭を振った。
「お金を持ってないの」
「金はいらない。わしがあんたを描きたいんだ。可愛い娘っ子を描くのは本当に久し振りなんでね」
嬉しそうに頬を染めたエヴァが前に座ると、老人は膝の上に新しい紙を広げ、木炭を手に取った。
暫く黙ってじっと少女の顔を見つめている。
納得したように大きく頷くと、素晴らしい勢いで紙の上に手を走らせ始めた。
エヴァはどんな絵が描かれているのかとても興味があったが、我慢してじっとしていた。
いつの間にか画家の後ろにアルテュスが立っていた。
「可愛らしいでしょう?」
老人の言葉にアルテュスは黙って頷くと、絵をエヴァに差し出した。
「まあ、鏡を見ているみたい!」
少女は鏡というものをマテオ・ダヴォグールの屋敷で、生まれて初めて見たのだった。
自分がどんな顔をしているのかは、水桶に映したりして知っていたが、こんなにはっきりと見たことはなかった。
まるで鏡の中に入り込むようにずっと自分の姿を眺めていて、マテオに散々からかわれたのだった。
画家は金はいらないと断ったが、アルテュスは銀貨を一枚材料費だと渡し、どこから来たのかと尋ねた。
ある貴族のお抱え画家として長年暮らしていたが、肖像画ばかり描くのに嫌気がさし、十年ほど前のある日、家を出て修行の旅に出たそうだ。
だが結局、食べていく為にこうやって旅の途中の宿屋で客の似顔絵を描いては、少しばかりの金を稼いでいると笑った。
部屋に向かう階段の途中で、描いてもらった絵を大事に抱えながらエヴァは後ろにいるアルテュスを振り返って言った。
「これ、お父さんへのお土産にするわ」




