4-2
霧雨の降る寒い冬の日の午後、G国陸軍大尉およびトリポルト陸軍兵学校教官マテオ・ダヴォグールの屋敷の前に馬車を乗りつけた者がいる。
馬車が止まるとすぐに跳び降りた男は、迎えに出た屋敷の主人に挨拶の代わりに頭を振ると怒鳴った。
「エヴァンはどこだ?!」
「おい、おい。挨拶もなしにいきなりそれかよ」
肩に手を置いた友人を押し退けるようにすると、アルテュスはぐるりと辺りを見回した。
「ここにいるのか? それとも学校か?」
「学校だ」
舌打ちして眉を顰めイライラと歩き回る男を、マテオは呆れたように横目で見ながら口を開く。
「先程呼ばせたから、もう着く頃だろう。中に入って待たないか?」
おい、怒っていいのは俺の方じゃないのか?
何でこいつはこんなに不機嫌なんだ?
友人の態度に腹が立ったが、マテオは肩を竦めると、平静を装って穏やかに言った。
「中に入りたまえ。会わせたい人がいる」
「……誰だ?」
「見てのお楽しみだ」
「女か?」
マテオの後について階段を上がりながらアルテュスが尋ねた。
「ああ。俺の大切な人だ」
「ふーん」
友人の言葉にアルテュスは表情をいくらか和らげて言った。
「何とか男爵夫人だったか、人妻は諦めたのか?」
「……まあな」
「そりゃ、よかった」
それ以上言葉を交わさずに二人の男は居間に入った。
壁と高い天井は彩色や彫刻を施した蛇腹で飾られ、右側の壁には大きなタペストリーが2枚掛かっていた。
部屋の奥にある大きな暖炉の両側は窪みになっていて、木のベンチがぐるりと置いてあり、ガラスを嵌めこんだ大きな窓があった。
赤々と火の燃える暖炉の前にはどっしりとした椅子があり、その脇に猟犬が2匹寝そべっている。
二人の足音に、椅子に座っていた婦人が振り向き、びっくりしたように立ち上がる。
ひだ飾りを施し糊をきかせた立て襟をつけた豪華なドレスを纏った女だ。
繊細なレースが女の丸い首を囲み、深い緑色のビロードの胴着がほっそりとした上半身を締め付けている。
同じ色の膨らませたスカートは上の部分は前が開いて金糸の縁取りが刺繍されており、下から唐草模様を浮き彫りにした青いブロケードが覗いていた。
アルテュスは帽子を取り、すらりとした女をじろじろ見ながら首を傾げた。
嫁入り前の貴族の娘は、絶対に一人で独身男の屋敷を訪ねて来ることはないだろう。
こんな服装をしているが、素性の卑しい女なのか?
それとも奴が、どこからか略奪でもしてきたのだろうか?
女は黒いベールを被っていたが、男達が近付くと顔を覆っているベールを上げた。
頬を薔薇色に染め、悪戯っぽい笑みを唇に浮かべて青い目を輝かせている。
アルテュスは驚愕に目を見開くと叫んだ。
「エヴァ?!! 何だその格好は!!!」
それからマテオの方を向くと、感情を抑えているような低い声で尋ねた。
「さっき言ってたのは、どういうことだ?」
マテオは、アルテュスの怒鳴り声にビクッとして俯いてしまったエヴァの隣に行くと、彼女の手を取って指先にそっと口付けた。
そしてニヤリと笑ってアルテュスを見る。
「聞いたとおりだ。彼女は一月前からうちで暮らしている。エヴァ、俺のベッドの寝心地はどうか?」
顔色を変えてマテオに掴みかかりそうになった男に気付かず、エヴァは真面目に答えた。
「お陰様で、とてもよく眠れます」
「そういうことか!!」
唇を噛み締め目をぎらつかせ二人を睨みつけていた男は、吐き捨てるように言って踵を返すと大股に居間を出て行く。
「だが、俺に文句を言う権利はない。末永く幸せに!」
「おい、アルテュス。待てよ!!」
階段を駆け下りる男の後を急いで追うが、顔を強張らせた男は待たせていた馬車にさっさと飛び乗ると門を出て行く。
厩の方に走りながらマテオは悪態を吐いた。
「あの馬鹿男は、冗談も通じなくなっちまったのか?」
馬具を着けるのもそこそこに馬に飛び乗り、馬車の後を追った。
慌しく二人の男が出て行った部屋で、エヴァはぼんやりと立っていた。
何が起こったの?
どうして、船長さんは出て行ってしまったのだろう?
何だかとても怒っているように見えたけど。
私を迎えに来てくれたのではないの?
文通しているうちに、船長さんのことをよく知っているつもりになっていた。
仲良くなれたと思っていたのに。
とんだ自惚れだわ。
彼の考えていることは全然分からない。
こんなことで結婚なんてできるのだろうか?
エヴァは小さな溜息を吐くと椅子に腰を下ろした。
船長さんが家まで送ってくれないなら、ダヴォグール様に馬車を頼んでもらわなくてはならないわ。
ダヴォグール様は本当に親切な方。
自分の部屋が屋敷中で一番暖かくて居心地がいいからって、私に譲って別の部屋に移ってくださった。
この衣装だって私には勿体無いって言ったのに、船長さんの婚約者に召使のような格好をさせる訳にはいかないと仰って。
船長さんは本当に帰ってしまったのだろうか?
ずっと会うのを楽しみにしていたのに。
鼻がつんとして、エヴァは慌てて頭を振った。
やだ、何でこんなことで涙が出てくるのだろう?
私の姿を見て、結婚するのを止めたくなったのではないかしら?
馬車を追い越した馬が急に前に躍り出てきて、御者は慌てて手綱を引き締めた。
「アルテュス!!」
息を弾ませながら、馬を下りた男は馬車に駆け寄り扉を開く。
座席の背にだらしなく寄りかかっていたアルテュスは、体を起こすと馬車の中を覗き込んだ男を睨みつけた。
「まだ何か用か?」
「貴様は勘違いしてるぞ。まあ、そう仕向けたのは俺だが。ちょいと仕返ししてやりたくなったのさ」
「……」
「あの人がずっと俺の部屋で休んでいたのは本当だが、俺は別の部屋に寝ていたのだ。俺を親友の恋人を盗ったりする奴だと思ったのか? 裏切り者は貴様の方だろ? 人のことを平気な顔して騙しやがって」
アルテュスは顔を顰めたまま何も答えない。
「とにかく、俺と一緒に戻ってくれ。嫌われたんじゃないかって、可哀想に涙を流していたぞ」
「どうして分かった?」
「何が?」
「エヴァンが男じゃないって」
アルテュスの顔を見てニヤニヤする。
「誰もあの人の裸を見たりしてないから安心しろ。実はな……」
マテオは馬車に乗り込むとアルテュスの隣に腰掛けて話し始めた。
初めはなかなか眉間の皺を緩めようとしなかった男も、饒舌な友人の話にやがて口元を僅かに綻ばせた。
ガラガラと馬車の音が聞こえ、エヴァは窓辺に駆け寄った。
船長さんが戻って来た!!!
慌てて廊下に出て階段を駆け上がり、与えられた部屋に向かう。
早く着替えなくては。
マテオが付けてくれた侍女に手伝ってもらい、急いで着替えていると、誰かが扉を叩いた。
「どなた?」
「エヴァ、俺だ。入ってもいいか?」
焦ったエヴァは大声で答える。
「着替えたらすぐ行きますから、下で待っていてください!」
遠ざかる足音にホッとして、身体を隠す為に掴んだクッションをベッドに戻した。
貴婦人の衣装を脱ぐと兵学校の制服を着る。
この服を着ることはもうないと思っていたけど。
船長さんはこのドレスが嫌いみたいだから。
居間に入って来た少年の姿をした少女を見て、アルテュスは苦虫を噛み潰したような顔をする。
エヴァが前に来ると、眉を顰め顔を逸らしてぼそっと言った。
「さっきは、怒鳴ったりして悪かった」
エヴァが何も言わないので、不安そうな目でちらと見て付け加える。
「……それから、さっきの服、よく似合っていたぞ」
少女が嬉しそうに、輝くような微笑みを浮かべるのを見た男は、胸の中がほっと熱くなるのを感じた。