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港に戻ったアルテュスは、二人の航海士が乗組員を採用する為、船乗りに面接を受けさせている酒場に向かった。
「船長、手紙です」
メレーヌに差し出された手紙を受け取ったアルテュスは、回りに立っている男達をぐるりと見回した。
どうやら半分以上は知らない水夫になりそうだ。
仕方がない。
2ヶ月近くも修理にかかってしまったのだから。
二人の航海士が残ってくれただけでも奇跡というものだろう。
アルテュスは手紙の差出人を確かめもせずに懐に突っ込むと、男達に向かって口を開いた。
「俺が『ラ・ソリテア号』の船長のアルテュス・ド・タレンフォレストだ」
おぉ、と言うような声が上がり、男達は感嘆の眼差しで彼らの船長を見つめた。
船乗り達にとって、ラテディム海のオーガは、恐れと同時に憧れを抱かせる存在だった。
ラテディム海のオーガとその仲間達の冒険の数々は、尾びれをつけ港町の酒場で語り継がれていたのだ。
その伝説的な船長と荒海に挑むことは、冒険好きな海の男達にとって心躍ることであった。
アルテュスは皆に簡単に明日の予定を伝えると、後ろに控えているアレンに言った。
「俺はいったん宿屋に戻って荷物を纏めてくる。明日の朝、港で会おう」
今夜はこの数ヶ月を過ごした部屋ではなく、船に泊まる予定である。
アルテュスは殆ど駆けるようにして宿屋への道を急いだ。
船に乗るのは本当に久し振りだ。
まるで、ずっと留守にしていた我が家に帰るように心が急く。
やっぱり俺は生まれながらの船乗りだな。
苦笑いを浮かべながら考える。
早く塩辛い飛沫を浴びながら進む帆船の甲板に立ち、張り巡らされた縄と風をいっぱいに孕んだ帆を見上げたかった。
多少居心地が悪くても、嵐に見舞われることや敵や海賊に襲われる危険があっても、俺は海が好きなんだ。
もし、妻がいたら陸に残りたいと思うのだろうか?
そう言えばエヴァは別れの手紙を受け取って、どう思ったのだろう?
寂しいと思ってくれたのだろうか?
あの娘と文通するのは楽しかった。
子供のように好奇心旺盛な癖に、時折ハッとするような女らしい優しさを感じるのだ。
アルテュスは、手紙なら少しぐらい心を許しても問題ないだろうと思ったのだった。
その結果、エヴァの手紙は親しい友人に書くようなものであったし、アルテュスの手紙はまるで妹か許婚に書くようなものに変化していた。
夕方、船に戻ったアルテュスは積荷を確認した後、部下達と一杯飲んだが、早々と寝室に引き上げた。
上着を脱ぎ扉の横の釘にかけようとした時、何かが乾いた音を立てて床に落ちた。
先程、メレーヌに手渡された手紙である。
アルテュスは足元に落ちた手紙を拾い、差出人を確認すると訝しげな顔をする。
封を切り内容にさっと目を通すと、苛立たしげに舌打ちした。
今更、何だって言うのだ?
別に勘当された訳ではなかったが、自分の中では家族とは縁を切ったつもりでいた。
当家の一大事?
知ったことか。
手紙は父からのものであった。
家には跡継ぎである兄がいるし、俺よりも出来のよい弟が大勢いるのだ。
俺がいないと解決できない問題なんてある筈ないだろう?
急に帰って来いなどと言われて、ほいほいと言うことを聞くと思っているのか?
俺は明日、出港するのだ。
今更、予定を変えるつもりはない。
この手紙は受け取らなかったことにしよう。
そう決心するとアルテュスは手紙を乱暴に破り捨てた。
折角の気分が親からの手紙の所為で台無しになったことを苦々しく思いながら、残りの服を手早く脱ぎ捨てると硬い寝床に横たわる。
子供の頃の様々な不愉快な思い出が頭に浮かび、アルテュスは大きな溜息を吐くと狭い寝床の上で寝返りを打った。
体の熱を冷まさねば、今夜は眠れそうもないぞ。
船に戻らずに、港町の娼館にでも行けば良かった。
まだ約束もしていないあの娘に誠実でありたいなどと愚かな事を考えた為に、ずっと女には触れていないのだ。
俺が何をしようとあの娘に分かる筈はないし、大体あの娘に俺を咎める権利もないだろうが。
誰か使いをやって港町から女を呼ばせようと思い付いたアルテュスは、起き上がるとランプに火を点した。
紙とペンを求めて壁に取り付けてある机の引き出しを開けると、フワッと甘い花の香りが狭い船室に広がった。
顔色を変えたアルテュスは唸り声を上げて引き出しを乱暴に蹴飛ばして閉めた。
自分を裏切った女の艶やかな髪や、白く丸い肩がぱっと頭に浮かんだ。
早く他の事を考えるんだ!!!
机の上にある瓶から大きなコップに並々と酒を注ぐと一息に飲み干す。
甘い喘ぎ声や熱い唇の感触までまざまざと思い出してしまったアルテュスは壁に頭を打ち付けて、余計な思い出を追い出そうとする。
ここの所、ずっと魘されることもなかったのに。
漸く穏やかな気持ちになれたと言うのに。
この忌まわしい思い出は、いつまで俺を追いかけてくるのだ?
やっぱりあの時、あの女を殺してしまえば良かったのだろうか?
コップに注ぐのももどかしく、直接瓶から喉に酒を流し込んだアルテュスは必死に考える。
港町から女を呼ぶ時間などない。
アルテュスは忘れたい女と正反対の女を何とか思い浮かべようとする。
だが、どこかの港で抱いた娼婦の浅黒い肌や情熱的な黒い瞳の代わりに、何故か澄んだ大きな青い瞳が頭に浮かんだ。
ふっくらとした薔薇色の頬。
瑞々しく柔らかい唇。
子供のような温かい小さな手。
可愛らしい笑い声。
蜂蜜色の髪を解いたら、どんな風に見えるのだろうか?
服を脱がせたら?
不謹慎なことを考える自分を胸の中でエヴァに詫びながらも、アルテュスはどうしてもその考えを止める事ができなかった。
接吻しかしたことのない少女の身体を弄っている自分を想像する。
真っ赤になって震えているエヴァを抱き締め、胸元を開きスカートを捲り上げる。
あの娘はどんな表情を見せるのだろう?
どんな声を出すのだろう?
荒い息を吐き呻き声を上げながら、力尽きた男はどさりと仰向けに倒れ込む。
大事にしていた宝物を壊してしまったような後悔が胸に突き刺さった。
「……エヴァ……」
泥沼のような眠りに落ちる前に、アルテュスは許しを請うようにそっと少女の名を囁いた。
翌日、薄紅色の朝靄に包まれて『ラ・ソリテア号』は、ティアベの港を出港した。
甲板に立ち部下達が命令に従い次々と作業を進めて行くのを見守っていたアルテュスは、港の入り口にそそり立つ二つの塔をゆっくりと見上げる。
何を感傷的になっているのだか。
苦笑いをしながら心の中で約束をする。
9ヵ月後にはまた戻ってくるからな。
「よし、いいぞ」
速度を上げ始めた帆船に満足そうに頷いたアルテュスは、傍に立っているメレーヌに言った。
「更に西に向かう。先週、海事当局で耳にした話によると、敵国の商船は最近随分と臆病になっているそうだ。軍艦に守られているとなると厄介だから、俺達が敵の支配水域まで出向いて仕事をするぞ」
「鬼の口に飛び込んだが、飛び込んだ方も鬼だったという訳ですか。でも全員無事に戻れたら幸運ですね」
「そうだな。だが分かっているだろうが、敵海じゃなくても私掠船に危険は付き物だぞ。ある意味では軍艦より始末が悪いんじゃないか?」
「大いに結構ですよ。我々は自分の意思でこの船に乗っているんですから」
笑ってそう答えたメレーヌを満足そうに見下ろしたアルテュスは言った。
「俺は優れた部下に恵まれて幸運な男だな」
やがて、『ラ・ソリテア号』は船体を大きく傾かせて針路を南西に変えた。
作業に合わせ、船乗り達の力強い歌声が辺りに響き渡る。
日は既に頭上高くにあり、春らしい雲の流れる青空が眩しい。
そして、海はどこまでも青く目の前に広がっていた。