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エヴァは風や雨に打たれて色褪せた厩の扉に寄りかかり、朝食の時に配られた手紙の封を切って広げると、それを見つめたまま固まった。
「何これ?」
まるで酔っ払ったミミズが、のた打ち回っているような筆跡である。
それも、紙一面に真っ黒なインクでびっしりと殴り書きされているのだ。
初めは果たし状かと驚いたが、どうやら違うようである。
差出人を確認したエヴァは目を丸くして、それからクスッと笑った。
こんなまめな男だと思わなかった。
私に手紙をくれるなんて思っても見なかった。
書き出しの「最愛なるエヴァンへ」のエヴァンのNが何故か大文字で残りと離して書いてある為、「最愛なるエヴァへ」とも読めるのだ。
筆跡とは反対に文面は丁寧で、ゴンヴァルの許しを得てこの手紙を書いていること、学校での生活で不都合はないか知りたいこと、返事はゴンヴァル宛に書いてくれても構わないとあった。
その後はトリポルトに向かう馬車の中で話してくれたような面白い逸話に溢れており、エヴァは腹を抱えて笑った。
学校の授業は面白かった。
だが、他の生徒達はエヴァよりも遥かに幼く貴族出身の者が殆どで、話が合うとはとても言えなかった。
皆はエヴァの親が港町の貧しい代書人と知ると、苛めたりはしなかったが、小馬鹿にした態度を取るようになった。
半月もしない内に厩の掃除など誰もやりたがらない仕事を押し付けられたり、休みの日に町に行く時は誰も誘ってくれず一人で出かけたりしたが、エヴァは皆の前では明るく振舞っていた。
それでも、やはり寂しく時々家が堪らなく恋しくなり、父から手紙をもらった夜などベッドの中でそっと涙を流すこともあった。
無理にではなく心から笑うのは本当に久し振りだった。
目の縁に薄っすらと浮かんだ涙を手の甲で拭いながら、そう思った。
もしかしたら船長さんは私が皆と仲良くできていないのを、ダヴォグール様に聞いて知っているのかもしれない。
でも、嬉しかった。
船長さんは怖そうに見えるけど、字は物凄く下手だけど、本当は優しい人なのだろう。
明日の自由時間に返事を書こう。
そう決心するとエヴァは晴れ晴れした顔で、壁に立てかけてあった熊手を手に取り、汚れた藁を掻き集め始めた。
馬の世話は嫌いではなかった。
初めは自分よりも遥かに大きな馬が少しばかり怖ろしかったが、慣れてくるとこんなに大人しく高貴な動物はいないと思われるから不思議だ。
動物達も毎日藁をきれいにしてくれる少女のことを覚えているようで、そっと手を差し出すと鼻面を押し当ててくる。
そして毎日厩に通う内に馬丁のブリスと装蹄師のオベル、鍛冶屋のセラファンという男達と親しくなった。
ブリスはのっぽでひょろりとした寡黙な男で話しかけてもあーとかうーとしか答えなかったが、エヴァのことは気に入っているらしく、乗馬の稽古の時にはいつもエヴァの所に一番大人しく扱いやすい馬を引いて来てくれる。
オベルはブリスとは反対に小柄で、小動物のようなくるくるとよく動く黒い目をしたおしゃべりな男だった。
天気の話や学校の教官達の噂話の合間に、馬の蹄の病気や蹄鉄の付け方を詳しく説明してくれる。
また魔除けにと古い蹄鉄をくれたので、エヴァはそれを大事に自分の棚にしまっていた。
二つあるから、一つはお父さんにあげよう。
もう一つは……
でも、船長さんはこんなものいらないって言うかしら?
セラファンはその名前から思い浮かべるような容姿とは似ても似つかず、黒い強い髭を生やした大男だった。
暗く険しい顔の左の瞼から顎にかけて引き攣ったような傷跡があり、少年達は表情の乏しい男のことを怖がって陰では悪魔の親分などと呼んでいる。
だが、実際には見かけによらず穏やかな男で、エヴァを見ると、顔色が良くないから真っ赤に焼いた鉄を冷やした水を飲むといいと勧めたりする。
初めて会った時から、もう少し若くして髭と傷がなかったら少しばかり船長さんに似ているかも知れないと思っていたエヴァは、彼のことを怖がったりしなかった。
少女は薄暗い中に赤々と火が燃え盛り、陽気な鎚の音が響く小屋を、まるで幼い頃に聞いた神話の中のウルカヌスの家のようだと思い、鍛冶屋の仕事を見に行くのが楽しみだった。
そして片隅に座って、セラファンが真っ赤な鉄の塊から様々な物を造り出すのを目を輝かして眺めているのだった。
この三人と教官のマテオ・ダヴォグールのお陰で、エヴァはまるきり一人ぼっちという訳ではなかった。
マテオは彼がひいきしているなどと噂されれば、エヴァンが苛められるのではないかと思い、必要以上に世話を焼くことはなかったが、困っているような時には直ぐに助けに来てくれた。
他の教官達も真面目な少年には親切だったし、エヴァにとって学校は決して居心地の悪い場所ではなかったのだ。
『ラ・ソリテア号』の修理は予定よりも長引き、アルテュスがゴンヴァルに別れを告げに来たのは、既に道端に白や黄色のクロッカスがちんまりと花を咲かせる頃だった。
まだ冷たい潮風も心なしか春の香りがするように思える。
「結構慣れてきたようだな」
エヴァの手紙をゴンヴァルに差し出しながらアルテュスは笑った。
「この間、知り合いの教官からも手紙をもらったが、お嬢さんは火縄銃の扱いが素晴らしく上手いらしい。トリポルト陸軍兵学校始まって以来の射手だと凄い褒めようだ」
ゴンヴァルは眉を顰める。
「危険ではないのでしょうか?」
「数年前の銃だと、火薬を詰め終わらない内に爆発して顔半分を吹き飛ばされたなどと聞いたことはあるが。最近の銃はかなり改良されているし、まあ大丈夫だろう。万が一、お嬢さんの顔に傷がついたりしても、結婚しようという考えは変らぬからご心配には及ばない」
ゴンヴァルはアルテュスを睨んだ。
「まだ娘を貴方にやるとは言っていませんぞ」
アルテュスは苦笑いをすると頷いた。
「分かっている。実は今日は別れの挨拶に来たのだ」
「とうとう船出ですかね?」
「ああ、明日の朝早くティアベを発つ」
ゴンヴァルはゆっくり頷くと床を見つめ、そっと溜息を吐いた。
「年末には絶対に戻ってくる」
急き込んでそう言ったアルテュスを、澄んだ瞳でじっと見ながらゴンヴァルは口を開いた。
「ご無事を祈ってますよ。まだまだ海の上の生活の方が、陸よりは危険でしょうから」
「どうかこれを」
そう言ってアルテュスが差し出した金の入った袋を代書人は押し戻した。
「前に頂いたのがまだ十分残っているから必要ないですよ。暖かくなれば私も仕事に出られますし」
「……そうか」
アルテュスはあっさりと袋を懐に納めると立ち上がった。
「では、ゴンヴァル殿、お達者で」
ゴンヴァルは男が出て行った扉を座ったままじっと見つめていた。
自分がしたことが正しかったのかどうか分からない。
一年後、約束通りにあの男は戻ってくるのだろうか?
貧しい代書人の娘のことなど、忘れてしまうのではないだろうか?
自分の身に何かあったら、あの子はどうなってしまうのだろう?
エヴァは自由時間になると、今朝、受け取ったばかりの二通の手紙を懐に入れて教室を飛び出した。
他の生徒に手紙を読んでいる所を見られたくなかったのだ。
この年頃の子供達にとって親からの手紙などは鬱陶しいものでしかなく、そんなものに時間を使うのは女々しい奴か赤ん坊だけだと思っている。
中庭を通り抜け裏の林の方に歩きながら、エヴァは二通共封を切ると、初めに見慣れている父親の流れるような筆跡の手紙を開いた。
「大事な我が子へ」と始まるその手紙の中で、ゴンヴァルはまるで日記でも書くように自分の日常生活を語っていた。
それは、まるでその場に自分がいるような気持ちにさせて、エヴァを安心させるものであった。
マリヴォン小母さんの料理がお父さんの口に合うようで良かったわ。
マリヴォン小母さんは本当に親切な人ね。
自分の父親の世話だけでも大変なのに、お父さんの食事の世話を毎日してくれるなんて。
ゴンヴァルは気温が少し上がり、身体の痛みで夜中に目が覚めるようなことはなくなったと書いていたので、エヴァは嬉しかった。
もう少し暖かくなれば港町まで歩いて行けるようになるだろう。
船長さんのくださったお金のお陰で毎日仕事を探しに行く必要はなくなったけど、お父さんはあの露店で仕事するのが好きだから。
次に既に見慣れた怖ろしい筆跡の手紙を開くと、エヴァは嬉しそうに微笑んだ。
しかし、次の瞬間、真面目な顔になると小さな溜息を漏らした。
それは別れの手紙だったのだ。
エヴァはどうしようもない寂しさが胸を満たすのを感じていた。
自分がアルテュスの手紙を、毎週とても楽しみにしていたことを認めざるを得なかった。
では、船長さんはあの愉快な仲間達と冒険に出かけるのね。
お父さんの様子を見に行ってもらえなくなるのは残念だし、手紙が来なくなるのはとても寂しいけれど。
今度会う時には、また面白い話を聞かせてもらえるだろう。
アルテュスが自分を迎えに来ないかも知れないなどとは、少しも考えなかった。
船長さんが考えていることはよく分からないけれど、約束は守る人だと思うわ。
だけど、お父さんは何と答えるのかしら?
私は、どうしたいのだろう?
船長さんと結婚する……
何だかぴんとこないけど、楽しそうじゃないかしら?
でも、この気持ちは何だろう?
怖い物が潜んでいるかも知れない箱の中を覗きたくなるような……
エヴァは頭を振ると夢見るような瞳で、梢の間に覗く澄んだ空を見上げた。