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第二十三章 翌朝、もう一度の下駄箱


 翌朝、俺は、いつもより、十分、早く、家を、出た。


 昨日と、同じように、空は、薄い、青色だった。

 昨日と、違うのは、俺の、頭の中だった。


 昨日の、夕方、保健室で、受け取った、二通の、メッセージ。


『ゆうとくん。明日も、屋上で、待ってます。一応これは果し状です。さやか』

『追記: 今度の、果し状の、差出人は、本物です。』


 俺は、これを、家に帰ってから、何度も、読み返した。

 読み返しながら、考えた。

 

 昨日、俺は、姉貴と、東堂さんと、新井と、鞘形さやかと、早乙女先生に、聞いて回った。

 全員、知らない、と、答えた。


 全員、嘘を、ついている、可能性は、ある。

 しかし、姉貴は、「明日、また屋上に呼び出す」必然性が、すでにない。

 昨日の屋上で、姉貴の目的は、達成されている。

 わざわざ、二日続けて、同じ茶番を、やる、理由が、ない。


 ということは、姉貴ではない。


 東堂さんも、ない。

 昨日、東堂さんは、自分の絵を、俺に、見せた。

 俺と、東堂さんの、関係は、「たぶん、好き」で、お互い、合意した。

 わざわざ、果し状で、追い討ちを、かける、理由は、ない。


 新井桃花も、鞘形さやかも、ない。

 二人とも、姉貴の、計画に、巻き込まれた、協力者だ。

 主役じゃ、ない。

 主役じゃ、ない人物が、いきなり、自分で、果し状を、出す、理由は、薄い。


 早乙女先生も、ない。

 先生は、昨日、姉貴の、共犯として、手紙を、書いた、と、認めた。

 今日、一人で、追加で、果し状を、出す、理由は、ない。


 ということは、誰だ。


 昨日の、五人以外。

 

 いや、しかし、待てよ。


 昨日の、一日で、俺は、五人の「さやか」と、関わった。

 姉貴、東堂さん、早乙女(さや科)、新井(中学時代のさや)、鞘形さやか。

 

 しかし、世界に、さやか、は、もっといる。

 俺の、まだ、知らない、さやか。

 

 俺は、それを、考えながら、駅から、学校に、向かった。

 歩きながら、瑛士に、メッセージを、送った。


『瑛士、起きてるか』

『起きてるよ、なんだ』

『今日、十分、早く、教室、来れる?』

『なんで』

『話したいことがある』

『……お前、また、何かあったな』

『うん。第二の、果し状』

『マジかよ』

『マジ』

『行く』


 瑛士は、即答だった。

 俺は、瑛士の、即答に、感謝した。

 

 学校に着いた。

 昇降口を、通った。

 

 そして、自分の下駄箱の前で、俺は、立ち止まった。

 

 昨日と、同じだった。

 下駄箱に、何かが、入っていた。

 

 俺は、深呼吸を、して、それを、取り出した。

 

 昨日と、同じ、便箋。

 しかし、字が、昨日とは、違っていた。

 

 昨日の、姉貴と、早乙女先生の、字とは、明らかに、違う。

 

 力強い、男っぽい、字。


 俺は、便箋を、開いた。

 

『ゆうとくん。

 今日の放課後、屋上で待っています。

 昨日のことは、すべて、私が知っている。

 すべての、答えを、教えます。

 果し状です。

 さやか』


 俺は、便箋を、見つめた。

 

 力強い、男っぽい、字。

 

 いや、しかし、男っぽい、というのは、ステレオタイプかも、しれない。

 女性でも、力強い字を、書く人は、いる。

 しかし、文面の、トーンが、昨日の手紙と、明らかに、違う。

 昨日のは、悪戯っぽい、文面。今日のは、宣戦布告のような、文面。


 しかも、「すべての、答えを、教えます」と書いてある。

 

 ということは、この差出人は、昨日のことを、すべて、把握している。

 把握している、ということは、姉貴の計画を、外側から、見ていた、誰か。

 

 俺の、脳内警報が、鳴った。

 

 ピーポー、ピーポー。

 

 誰だ。


 昨日の、計画を、姉貴の、計画として、外側から、見ていた、人物。

 しかも、「さやか」と、名乗る、人物。


 俺は、便箋を、しまって、教室に、向かった。




第二十四章 瑛士、最後の作戦


 教室に、瑛士が、いた。

 俺より、早く、来ていた。

 よし、瑛士、お前、たまには、本気を出すじゃないか。


「ゆうと、来た来た」

「うん」

「で、どうした、第二の、果し状」

「うん」


 俺は、瑛士に、便箋を、見せた。

 瑛士は、それを、読んだ。

 読んで、首を、傾げた。


「これ、字、男だな」

「うん」

「いや、女もあり得るけど、たぶん、男」

「うん」

「で、誰だと思う」

「分からん」

「ふむ」


 瑛士は、腕を、組んで、考えた。

 考えながら、教室を、見渡した。

 

 まだ、誰も、来ていなかった。

 俺と、瑛士、だけ。

 

「ゆうと」

「うん」

「昨日、屋上で、姉貴と、東堂さん、新井、鞘形さやか、早乙女先生、全員揃ってた、よな」

「うん」

「その時、誰か、姉貴の計画を、外で、見てた、人、いると思うか」

「うーん」

「たとえば、たまたま、屋上に、来た、誰か」

「いや、屋上は、姉貴が、抑えてた」

「だよな」

「ということは」

「教室、廊下、職員室、どこかで、姉貴の動きを、見ていた、誰か」

「うん」


 俺と、瑛士は、しばらく、無言で、考えた。

 

 考えながら、ふと、瑛士が、つぶやいた。


「黒田先生は」

「は」

「黒田先生、姉貴の、元担任じゃん」

「うん」

「姉貴が、母校に、しょっちゅう、出没してる、理由」

「うん」

「もしかして、黒田先生に、関係してる」

「いや、関係はしてるけど、たぶん、母校への、変な愛着、だろ」

「うん。でも、黒田先生は、姉貴の、過去を、知ってる」

「うん」

「絵を、描いてた頃の、姉貴も、知ってる」

「あ……」


 俺は、目を、見開いた。


 黒田先生。


 姉貴の、元担任。

 姉貴が、絵を、描いてた頃、を、知ってる。

 昨日、姉貴が、教室に、乱入してきた時、黒田先生は、「お前、それ朝のホームルームの直前にやることか」と、姉貴を、たしなめていた。


 黒田先生は、姉貴の、過去を、知っている、可能性が、高い。


 しかし、黒田先生は、男だ。

 しかも、四十代。

 「さやか」と、名乗る、理由は、ない。


 いや、しかし。

 

 俺は、ふと、思い出した。

 

 昨日、保健室で、皆が、いろんな、話を、したとき。

 姉貴が、自分の、過去の、絵の話を、した、その時。

 姉貴は、こう、言った。

 

 「絵が、上手いとか、上手くないとか、関係なく、描くのが、好きだった」

 「でも、コンクールに、出すと、評価される。評価されると、点数が、つく」

 「点数で、定義される、自分が、嫌いだった」

 「だから、辞めた」


 姉貴は、コンクールで、落ちた、と、言った。

 しかし、なぜ、姉貴が、コンクールに、出すように、なったか、は、語らなかった。

 

 絵を、描くのが、好きだった、姉貴。

 しかし、絵を、コンクールに、出すように、勧めた、誰かが、いる。

 その「誰か」が、姉貴を、点数で、評価される、世界に、引きずり込んだ、人物。

 

 その「誰か」が、姉貴の、絵を、辞めさせた、間接的な、原因。


 俺は、瑛士を、見た。

 瑛士は、こちらを、見ていた。


「瑛士」

「うん」

「黒田先生、姉貴に、コンクールを、勧めた、人かも」

「マジか」

「マジで、そうかも」

「ふむ」


 瑛士は、腕を、組んだ。

 

「だとすると、黒田先生、姉貴の、絵を、辞めさせた、ことに、後悔、してる、可能性」

「うん」

「で、姉貴が、昨日、屋上で、東堂さんを、後押し、するための、芝居を、した」

「うん」

「黒田先生は、それを、外で、見ていた」

「うん」

「で、自分も、何かを、しなきゃ、と、思った」

「うん」

「『すべての、答えを、教えます』と、書いた」

「うん」


 俺と、瑛士は、目を、合わせた。

 

 可能性は、高い。

 

 しかし、決定打が、ない。

 

「いや、待てよ」

 瑛士が、言った。

「『さやか』って、名乗ってる」

「うん」

「黒田先生が、なんで、『さやか』って、名乗る」

「うん」

「お前の、姉貴の、名前と、関係あるとか」

「うん、姉貴の、名前を、使った?」

「だとしたら、なんで、姉貴の、名前を、使う、必要が、ある」

「うん、それは、まだ、分からない」


 俺は、頭を、抱えた。

 

 いや、しかし、ここまで、考えても、答えが、出ない。

 行ってみるしか、ない。

 

 放課後、屋上。

 行って、確かめるしか、ない。


「瑛士」

「うん」

「今日の、放課後、屋上、ついてきて、くれる?」

「うん、行く」

「マジで、ついてきてくれ」

「行く、行く」

「お前、俺を、一人に、しないでくれ」

「うん、しない」


 瑛士は、にっと、笑った。

 俺は、ちょっとだけ、ほっとした。

 

 チャイムが、鳴った。

 他の生徒たちが、教室に、入ってきた。

 東堂さんも、入ってきた。

 東堂さんは、俺と、目が合うと、ぱっと、視線を、外して、しかし、頬を、ちょっとだけ、赤く、した。

 

 俺は、ちょっとだけ、頬が、熱くなった。

 

 昨日と、今日で、東堂さんと、俺の、関係は、確実に、変わっていた。

 しかし、その変化を、まだ、二人とも、口には、出していなかった。

 ただ、目が、合うと、ちょっとだけ、頬が、赤くなる。それだけ。

 

 それで、たぶん、十分、だった。

 ハムスターは、声に、出す前に、目で、語る、のだ。




第二十五章 午前の授業、ぼんやり


 午前の授業は、いつも以上に、ぼんやり、した。


 俺の頭は、ずっと、放課後の、屋上のことを、考えていた。

 誰が、来るのか。

 黒田先生、なのか、別の、誰か、なのか。


 一時間目の、数学。

 二時間目の、英語。

 三時間目の、現代文。

 

 全部、ぼんやり、した。

 

 しかし、四時間目の、ホームルーム。

 黒田先生が、教壇に、立った。

 

 俺は、黒田先生を、まじまじと、見た。

 黒田先生は、いつもの、黒田先生だった。

 姉貴の、元担任、四十代の、男性教師、社会科。

 

 その黒田先生が、俺を、見た。

 俺と、目が、合った。

 

 黒田先生は、にこっと、笑った。

 その笑顔は、いつもの、黒田先生の、笑顔だった。

 しかし、その目の、奥に、何かが、ある気が、した。

 

 俺は、黒田先生から、視線を、外した。

 外しながら、思った。

 

 黒田先生が、来る。

 

 俺は、なぜか、それを、確信した。

 確信した、とき、俺の、心臓が、ぎゅっと、なった。

 

 しかし、その、ぎゅっと、なった心臓は、不思議と、緊張で、なっているのではなく、何か、別の感情で、なっていた。

 

 たぶん、姉貴に対する、心配の感情、だった。

 

 

 昼休み、瑛士と、屋上の階段の、踊り場で、昼飯を、食った。

 屋上は、まだ、立ち入る気が、しなかった。

 

 弁当を、開けた。

 今日の、姉貴の弁当、ご飯の上に、ふりかけで、何か、書いてあった。

 

 「がんばれ」

 

 

 俺は、ふりかけを、見つめた。

 

 昨日は、「は」だった。

 今日は、「がんばれ」と、書いてある。

 

 「は」は、たぶん、書きかけ、だったのか。

 あるいは、ただの、姉貴の、気まぐれ、だったのか。

 

 しかし、今日の、「がんばれ」は、明らかに、姉貴の、メッセージだった。

 

 俺は、ふりかけの、「がんばれ」を、ぐちゃぐちゃに、混ぜて、食った。

 食いながら、思った。

 

 姉貴は、なぜ、「がんばれ」と、書いた。

 もう、昨日で、終わった、はずなのに。

 

 ということは、姉貴も、何かを、知っている。

 

 いや、姉貴は、たぶん、第二の、果し状のことを、知らない、はずだ。

 昨日、保健室で、姉貴は、「明日も屋上」のメッセージを、見て、心底、驚いていた。

 あの、驚き方は、演技じゃ、なかった。

 

 いや、演技かも、しれない。

 

 いや、しかし、姉貴は、悪戯は、するけど、演技は、下手な女だ。

 あの、驚きは、本物だった、と、俺は、思う。

 

 ということは、姉貴は、第二の、果し状のことを、知らない。

 しかし、姉貴は、今日も、「がんばれ」と、書いた。

 

 ということは、姉貴は、何か、別の、ことで、俺を、応援している。

 

 たぶん、それは、東堂さんとのこと、なのかも、しれない。

 昨日、屋上で、俺と、東堂さんが、「たぶん、好き」で、合意した。

 しかし、それは、まだ、お互い、踏み込みきっていない。

 その、踏み込みきっていない、二人を、姉貴は、もう一段、後押し、したいのかも、しれない。


 俺は、ふりかけを、噛みしめながら、思った。

 

 姉貴。

 お前、本当に、面倒くさいけど。

 でも、そういう、面倒くささが、お前なんだろうな。

 

 俺は、弁当を、食い終わった。


 瑛士が、横で、唐揚げを、食いながら、聞いた。


「ゆうと」

「うん」

「お前、覚悟、できてるか」

「うん」

「放課後の、屋上」

「うん」

「黒田先生、来たら、どうする」

「分からん」

「分からん、で、いいのか」

「うん」


 俺は、にっと、笑った。

 

「分からんから、行く」

「ふむ」

「行って、聞く」

「うん」

「答えは、その時、考える」

「うん、それで、いい」


 瑛士は、唐揚げを、もう一個、口に、放り込んだ。

 

 俺は、もう一度、ふりかけを、混ぜたあとの、ご飯を、見た。

 もう、「がんばれ」の、文字は、ない。

 ただの、ご飯だった。

 

 しかし、俺の、胃の中で、姉貴の、「がんばれ」は、消化されて、エネルギーになって、いた。




第二十六章 放課後、屋上、黒田先生


 ホームルームが、終わった。

 俺は、椅子から、立ち上がった。

 立ち上がりながら、東堂さんの方を、見た。

 

 東堂さんは、こちらを、見ていた。

 目が合うと、こくり、と、うなずいた。

 

 俺は、東堂さんに、にっと、笑って、教室を、出た。

 瑛士は、教室で、待つ、と、言った。

 俺は、それで、いい、と、答えた。

 

 今日は、俺、一人で、行く。

 

 階段を、上った。

 北棟の、四階。

 屋上に、通じる、階段。

 

 階段を、上る、足音が、かつ、かつ、と、響いた。

 心臓は、昨日ほど、激しくは、鳴っていなかった。

 ちょっとだけ、覚悟が、できていた。

 

 屋上の、扉の前。

 扉は、半分、開いていた。

 

 俺は、深呼吸を、した。

 扉を、押した。

 

 

 屋上に、人が、いた。

 

 

 一人、だけ。

 

 

 屋上の、フェンスのそばに、立っていた。

 白い、ワイシャツ。

 黒い、スラックス。

 ネクタイは、緩めていた。

 

 黒田先生だった。


 黒田先生は、俺に、気づいて、振り返った。

 にこっと、笑った。

 

「来たか」

「はい」

「上がってこい」

「はい」


 俺は、屋上に、入った。

 扉を、閉めた。

 

 屋上の、風が、強かった。

 黒田先生の、ネクタイが、ぴらぴら、と、揺れていた。


 俺は、黒田先生に、近づいた。

 近づきながら、考えていた。

 何を、聞こうか。

 しかし、聞きたいことが、多すぎて、整理が、つかなかった。


 黒田先生は、フェンスのそばに、立って、こちらを、見ていた。

 その目は、いつもの、黒田先生の目とは、違っていた。

 いつもの、黒田先生は、姉貴を、見ると、疲れた目を、する。

 今、黒田先生は、疲れた目では、なく、ちょっとだけ、真面目な、目を、していた。


「先生」

「うん」

「あの手紙」

「ああ」

「先生が、書いた、んですか」

「ああ」


 黒田先生は、こくり、と、うなずいた。

 

 俺は、息を、吐いた。

 

 予想通り、だった。

 しかし、予想が、的中した、と、いう、達成感は、なかった。

 ただ、心臓が、ちょっとだけ、ざわざわ、した。

 

「なんで」

「うん、それを、話したくて、ここに、呼んだ」

「はい」

「座るか」

「あ、はい」


 黒田先生は、屋上の、コンクリートに、座った。

 俺も、その横に、座った。

 

 屋上の、風が、強かった。

 二人の、間で、風が、ぴゅうぴゅう、と、吹いた。


「先生」

「うん」

「姉貴のこと、ですよね」

「ああ」

「姉貴が、絵を、辞めたこと」

「ああ」

「先生が、コンクールを、勧めた、んですか」

「……ああ」


 黒田先生は、ぽつぽつと、言った。


「俺は、彩果が、絵を、描いてるのを、見て、上手だな、と、思ったんだ」

「はい」

「で、これは、コンクールに、出したら、入選するんじゃないか、と、思って、勧めた」

「はい」

「彩果は、最初は、嫌がってた」

「そう、でしょうね」

「『私、絵を、コンクールとかに、出したくない』って、言ってた」

「はい」

「でも、俺は、勧め続けた」

「なんで」

「彩果に、絵で、認められる、経験を、してほしかったから」

「はい」


 黒田先生は、長い、息を、吐いた。

 

「彩果は、結局、コンクールに、出した。何度も、出した」

「はい」

「でも、入選しなかった」

「はい」

「最初は、惜しい、ぐらいの、ところまで、行った」

「はい」

「でも、最後は、もう、選外」

「はい」

「彩果は、ある日、『先生、もう、絵、描かない』って、言った」

「はい」

「俺は、説得したけど、彩果は、もう、聞かなかった」


 黒田先生は、目を、伏せた。

 

「彩果は、俺のせいで、絵を、辞めた」

「先生のせい、なんですか」

「うん。俺が、コンクールを、勧めた、せい」

「いや」

「俺が、勧めなければ、彩果は、絵を、描き続けてた、と、思う」


 俺は、考えた。

 

 黒田先生の、悔いは、深かった。

 しかし、それは、姉貴の、責任、なのか、黒田先生の、責任、なのか、俺には、判断が、つかなかった。

 

 姉貴は、絵を、辞めた。

 しかし、姉貴は、自分の意志で、辞めた。

 黒田先生に、強制された、わけじゃ、ない。

 姉貴は、自分で、コンクールに、出して、自分で、落ち続けて、自分で、辞めた。

 

 しかし、黒田先生が、勧めなければ、姉貴は、コンクールに、出していなかった、かも、しれない。

 その、もしも、を、考えて、黒田先生は、後悔している。

 

 俺は、黒田先生に、聞いた。


「先生」

「うん」

「『さやか』って、名前で、手紙を、書いたの、なんで、ですか」

「ああ」


 黒田先生は、にこっと、笑った。

 その笑顔は、ちょっとだけ、寂しい、笑顔だった。


「彩果が、辞める時、俺に、こう言ったんだ」

「はい」

「『先生、いつか、私の代わりに、誰かに、絵を、続けてもらえるなら、それで、いい』」

「はい」

「『私の、代わりに、絵を、続けてくれる、誰か。その人を、私は、こっそり、応援する』」

「はい」

「『その時は、私の、名前を、貸してあげる』」


 俺は、目を、見開いた。


「私の、名前」

「彩果、っていう、名前は、漢字、書きにくいから、読みやすく、ひらがなに、すると」

「あ……」

「『さやか』」


 俺は、息を、止めた。


 

 彩果。

 

 あやか、ではなく、ひらがなの、響きで、書くと、「さやか」とも、読める。

 いや、これは、ちょっと、違う。

 彩果、を、ひらがなに、しても、「あやか」だ。

 

 しかし、姉貴は、子供の頃、自分の、名前を、ひらがなで、書く時、「さやか」と、書いていた、らしい。

 漢字を、覚えるまで、姉貴は、自分のことを、「さやか」と、思って、いたらしい。

 

 なぜなら、姉貴は、子供の頃、「彩」の漢字を、「さい」、と、誤読していた。

 彩果、を、さいか、として、書こうとして、結果的に、ひらがなで、「さやか」、と、書く癖が、ついた。

 

 いや、これは、姉貴の、あだ名みたいなもので、姉貴の、過去の、自分の、呼び方。

 

 俺は、それを、家で、姉貴のアルバムを、見て、初めて、知った、ことがある。

 

 黒田先生は、続けた。


「彩果は、自分の、過去の、呼び方を、俺に、教えてくれた」

「はい」

「『私の、代わりに、絵を、続けてくれる、誰か、を、応援する時は、その、過去の、私の、呼び方を、貸す』」

「はい」

「彩果は、それだけ、絵に、本気だった」

「はい」

「で、今回」

「はい」

「彩果が、東堂さんを、後押し、しようとしている、と、知って」

「はい」

「俺は、彩果の、約束を、思い出した」

「はい」

「だから、『さやか』、と、名乗って、君に、手紙を、書いた」


 俺は、息を、吐いた。

 

 長い、息だった。

 

 心が、ぎゅっと、なった。

 

 いや、ぎゅっと、なる、というのは、語彙が、雑だな。

 もっと、複雑な、感情だった。

 

 悲しさと、嬉しさと、優しさと、寂しさが、混ざった、感情だった。

 

 姉貴。

 

 お前、絵を、辞める、その瞬間まで、絵のことを、本気で、考えていた、んだな。

 

 絵を、辞めても、絵に、希望を、託したかった、んだな。

 

 

「先生」

「うん」

「ありがとうございます」

「いや」

「姉貴の代わりに、姉貴を、応援、してくれて」

「いや、これは、俺の、自己満足だ」

「いえ」

「俺は、ただ、彩果に、申し訳なくて」

「先生」

「うん」

「姉貴は、たぶん、今、絵を、もう一回、描こうとしてます」

「は」

「昨日、俺が、頼んだ」

「ほう」

「俺の、絵を、姉貴に、描いて欲しい、って」

「ほう」

「姉貴、考える、って、言いました」

「ほう、ほう」


 黒田先生は、目を、見開いた。

 目を、見開いたまま、しばらく、こちらを、見ていた。

 それから、ふっと、笑った。


「ゆうと」

「はい」

「お前、いい、弟、だな」

「いえ」

「いい、弟だ」


 黒田先生は、にこっと、笑った。

 その笑顔は、いつもの、黒田先生の、疲れた笑顔ではなく、ちょっとだけ、嬉しそうな、笑顔だった。


「俺、彩果と、話したい」

「はい」

「久しぶりに」

「はい」

「彩果の、絵のこと」

「はい」

「俺の、後悔のこと」

「はい」

「全部、話したい」

「はい」


 黒田先生は、立ち上がった。

 俺も、立ち上がった。

 

 屋上の、風が、強かった。

 黒田先生の、ネクタイが、揺れていた。


「ゆうと、彩果に、伝えてくれるか」

「はい」

「『黒田が、話したいって、言ってた』って」

「はい」

「で、彩果が、来ると、言ったら、教えてくれ」

「はい」


 俺は、こくり、と、うなずいた。

 

 黒田先生は、屋上の、入り口に、向かって、歩き出した。

 しかし、途中で、立ち止まって、振り返った。


「あ、それと、ゆうと」

「はい」

「これは、果し状、だからな」

「は」

「俺の、果たすべき、こと、として、彩果に、向き合う、宣言」

「あ、はい」

「『果し状』の、本当の意味、って、知ってるか」

「いえ」

「『果たす』、っていう、責任の、ことだ」

「はい」

「俺は、彩果に対する、責任を、果たす」

「はい」

「彩果も、東堂さんに、責任を、果たした」

「はい」

「お前も、責任を、果たせ」

「はい」

「東堂さんに、ちゃんと、向き合え」

「はい」


 黒田先生は、にこっと、笑って、屋上を、出ていった。

 扉が、ぎぎい、と、閉まった。


 屋上には、俺、一人が、残された。

 

 俺は、屋上の、空を、見上げた。

 空は、薄い、青色だった。

 風が、ぴゅうぴゅう、と、吹いていた。

 

 ピーポー、ピーポー。

 

 いや、警報は、もう、鳴っていなかった。

 

 ただ、なんか、すごく、静かな気持ちが、俺の中に、広がっていた。

 

 

 俺は、ポケットから、スマホを、取り出した。

 姉貴に、メッセージを、送った。


『姉貴、今日、家で、話したい』

『何』

『黒田先生、姉貴と、話したい、って』

『……は?』

『黒田先生から、伝言』

『なんで、お前が、それを、知ってる』

『今日、屋上で、会った』

『は?』

『話、聞いた。姉貴と、絵のこと』

『……ふぅん』

『で、姉貴、黒田先生と、話したいか』

『……うん』

『分かった』

『ふふ』

『ふふ、じゃない』

『ふふ』


 姉貴の、最後の、「ふふ」は、いつもの「ふふー」とは、違っていた。

 ちょっとだけ、しんみりした「ふふ」だった。

 

 俺は、スマホを、しまった。

 しまって、屋上を、降りた。

 

 階段を、降りる時、俺の、心臓は、もう、どきどき、していなかった。

 ただ、すごく、晴れやかな、気持ちが、あった。




第二十七章 屋上、もう一度の東堂沙也加


 俺は、教室に、戻った。

 戻ると、瑛士が、待っていた。

 その横に、東堂さんも、立っていた。


「ゆうと、どうだった」

「うん、黒田先生だった」

「マジか」

「マジ。姉貴のこと、絵のこと、いろいろ」

「ふむ」

「でも、解決した」

「マジか」

「マジ」


 瑛士は、にっと、笑った。

 その笑顔は、バランス型脳筋の、いつもの、嬉しそうな、笑顔だった。


「で、ゆうと」

「うん」

「東堂が、お前に、話があるんだって」

「うん」


 俺は、東堂さんを、見た。

 東堂さんは、こちらを、見ていた。

 目が合うと、ちょっとだけ、頬を、赤くした。


「三枝くん、あの、屋上、もう一回、行きませんか」

「うん」

「二人、で」

「うん」


 俺は、にっと、笑った。

 

「行こう」

「はい」


 俺と、東堂さんは、教室を、出た。

 瑛士は、にやにや、しながら、手を、振っていた。

 その横に、いつの間にか、新井桃花が、立っていた。

 新井も、にやにや、して、手を、振っていた。

 

 お前ら、覗き見、するなよ。

 

 しかし、俺は、もう、それを、口に、出して、言わなかった。

 覗き見、されても、別に、いい、という気が、した。


 階段を、上った。

 屋上の、扉。

 俺は、扉を、押した。

 扉が、ぎぎい、と、開いた。

 

 屋上には、もう、誰も、いなかった。

 

 俺と、東堂さん、二人だけ。

 

 屋上の、風が、相変わらず、強かった。

 

 俺と、東堂さんは、屋上の、フェンスのそばに、立った。

 しばらく、二人で、空を、見上げた。

 

 空は、相変わらず、薄い、青色だった。

 

「東堂さん」

「は、はい」

「昨日のこと」

「はい」

「思い出してた?」

「はい、ずっと」

「俺も」

「ふふ」

「ふふ」


 二人で、ちょっとだけ、笑った。

 

「東堂さん」

「はい」

「俺、昨日、『たぶん、好き』って、言ったけど」

「はい」

「その『たぶん』を、一個、削除したい」

「えっ」

「俺、東堂さんが、好き」


 東堂さんは、目を、見開いた。

 頬が、ぱあっと、赤くなった。

 

「えっと」

「うん」

「私も、たぶん」

「いや、お前は、『たぶん』、いらないだろ」

「えっと」

「お前は、『絶対』、好き、で、しょ」

「ふふ」

「ふふ、じゃない」

「絶対、好き、です」

「うん」


 俺は、にっと、笑った。

 

 東堂さんも、にっと、笑った。

 

 屋上の、風が、二人を、撫でた。

 

 俺は、東堂さんの、手を、握った。

 握ったまま、しばらく、空を、見上げた。

 

 ハムスターは、回転する車で、満足するように、東堂さんは、俺の、手の中で、ちょっとだけ、笑っていた。


「東堂さん」

「はい」

「今度、また、絵、描いて」

「はい」

「俺の、絵」

「はい」

「絵が、終わったら、見せて」

「はい」

「で、姉貴にも、見せに、行こう」

「えっ」

「姉貴も、絵、また、描き始めるかも」

「マジで、ですか」

「マジで」

「すごい」

「うん」


 東堂さんは、嬉しそうに、笑った。

 

 俺は、ふと、思った。

 

 俺は、東堂さんを、好きだ。

 でも、東堂さんは、俺だけのものでは、ない。

 東堂さんは、絵を、描く人、で、絵を、見せる人、で、絵で、誰かを、つなぐ、人かも、しれない。

 

 その、東堂さんを、俺は、これから、隣で、見ていく。

 

 それで、いい。

 それが、いい。

 

「あの、三枝くん」

「うん」

「明日も、屋上、来ていい、ですか」

「うん」

「明後日も」

「うん」

「明明後日も」

「うん」

「ずっと?」

「ずっと」


 東堂さんは、ふふ、と、笑った。

 

 屋上の、風が、強かった。

 俺と、東堂さんの、髪が、それぞれ、舞っていた。

 

 

 俺は、東堂さんの、手を、強く、握った。

 

 東堂さんも、俺の、手を、強く、握り返した。

 

 

 空は、いつの間にか、ちょっとだけ、夕焼けの色に、変わり、始めていた。




エピローグ 夜、家、姉貴


 その日の、夕方、俺は、東堂さんと、駅まで、一緒に、帰った。

 駅で、東堂さんと、別れて、俺は、家に、向かった。

 

 家の、玄関を、開けた。

 姉貴の、女にしては、バカでかい、靴が、玄関に、あった。

 しかし、今日の、その靴は、なんか、いつもと、違って、見えた。

 いつもより、ちょっとだけ、新しく、見えた。

 いや、見え方は、同じだ。

 俺の、見方が、違う、だけ、だ。


 リビングに、入った。

 姉貴が、ソファで、ぼーっと、テレビを、見ていた。

 

「ただいま」

「おかえり」

「姉貴」

「ん」

「黒田先生、家、来る?」

「ふふー」

「ふふー、じゃない」

「うん、来る」

「いつ」

「今度の、土曜日」

「マジか」

「マジ」

「お前、ちゃんと、話せ」

「うん」

「話した、結果、絵、描き始めるかもな」

「ふふ」

「ふふ、じゃない」

「描かない」

「描け」

「ふふ」


 姉貴は、にやにや、して、テレビを、見ていた。

 しかし、その、にやにやの、奥に、なんか、ちょっとだけ、決意のようなものが、あった気が、した。

 

 俺は、自分の部屋に、向かった。

 その時、姉貴が、ぽつっと、つぶやいた。


「ゆうと」

「うん」

「ありがとうな」

「は」

「ふふ」

「ふふ、じゃない」


 姉貴は、テレビを、見ていた。

 俺の方を、見なかった。

 

 しかし、姉貴の、横顔は、なんか、ちょっとだけ、嬉しそうだった。

 いや、姉貴の、横顔の、奥、姉貴の、本心の、奥に、何かが、ある気が、した。

 

 俺は、姉貴に、答えた。


「いや、こっちこそ」

「は」

「お前のおかげで、俺、東堂さんと、ちゃんと、話せた」

「ふふ」

「ふふ、じゃない」

「弟、君の幸せが、姉、私の幸せ、なんだぞ」

「お前、それ、台本臭くない?」

「ふふ」


 姉貴は、にやにや、して、テレビを、見ていた。

 

 俺は、自分の部屋に、入った。

 部屋の、机に、座った。

 机の上に、東堂さんから、もらった、スケッチブックの、コピーが、置いてあった。

 

 昨日、東堂さんが、俺に、コピーを、渡してくれた、絵の中の、自分。

 

 俺は、それを、見た。

 

 俺は、こんな、顔を、しているのか。

 他人から、見たら、こんな顔。

 

 でも、たぶん、東堂さんから、見た、俺、なんだろう。

 他の人から、見たら、また、別の、俺、かも、しれない。

 

 俺は、たくさんの、俺、で、できているんだ、と、思った。

 

 

 明日、また、屋上で、東堂さんに、絵を、描いてもらおう。

 明後日、姉貴に、絵を、描かせよう。

 明明後日、瑛士と、また、馬鹿話を、しよう。

 

 

 毎日が、続いていく。

 

 

 ピーポー、という、警報は、もう、鳴っていなかった。

 

 

 代わりに、何か、別の、音が、俺の、心の中で、鳴っていた。

 

 

 その音は、たぶん、生きている、ことの、音、だった。

 




 

 翌朝。

 俺は、いつも通り、家を、出た。

 学校に、向かった。

 昇降口を、通った。

 

 下駄箱の、前に、立った。

 

 

 ……。

 

 

 また、入って、いた。

 

 手紙が。

 

 

 俺は、目を、見開いた。

 

 ピーポー、ピーポー。

 

 また、警報が、鳴った。

 

 慌てて、手紙を、取り出した。

 開いた。

 

 

『ゆうとくん。今日の、屋上は、晴れます。

 絵の、続きを、描きます。

 果し状、ではないけど、来てください。

 さやか』

 

 

 ……。

 

 

 俺は、ふふ、と、笑った。

 

 ふふ、じゃ、ねえな。

 

 俺は、東堂さんの、字を、目に、焼きつけた。

 

 なんかもう、いいや。

 

 俺は、にっと、笑って、上履きに、履き替えた。

 

 

 

 名探偵ゆうとは、これから、東堂さんと、姉貴と、瑛士と、新井と、鞘形さやかと、早乙女先生と、黒田先生と、世界中の、すべての、「さやか」と、長い長い、毎日を、過ごしていく。

 

 

 ピーポー、という、警報は、もう、鳴らない。

 

 

 代わりに、ふふ、という、笑い声が、俺の中に、ずっと、鳴り続けて、いる。

 

 

 

 

(完)

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