23
夜の渋谷駅南口、場末の裏通りを男は足早に歩いていた。
何かに追われているのか、時折、立ち留まって振り返る。後を追う者がいないことを確認すると、ほっとしたようにまた歩き出す。
コートもなしのくたびれたスーツ姿。水商売や裏稼業の男たちが好んで着たがる派手なイタリア・ブランドのスーツとはいえ、冬の最中のこの時期にしては薄着に過ぎる。ましてやここ数日の東京は、日々、冷え込みが増すばかりだ。自分でも耐え難いのか、背を丸め、必死に両腕を擦り続ける。シャツの袖も垢で黒く汚れている。肩まで伸ばした茶髪はほつれ、普段なら女たちが放っておかない甘い面構えは緊張で強張っている。血走った目許には、疲労の深さを示すように色濃く隈が浮き出ていた。
ふと、その足が留まった。
道路脇でやっているうらぶれたラーメン屋に視線が向く。
「………………」
男は胸元から長い皮の札入れを取り出し、手持ちの金を確認する。千円札が一枚のみ。
唸るような呻き声をわずかに洩らし、一瞬躊躇ったものの、何か人生の分岐点を踏み越えるかのような悲壮な決意を表情に浮かべながら、男はラーメン屋の暖簾をくぐった。
低光量画像を電子的に増幅した独特のざらついた色合いのラーメン屋の画像を、専用回線(VPN)越しに共有モードで流しながら、結城は虎ノ門の本部デスクから男のプロフィールを読み上げる。
『呉建民。日本名で通称「鈴木健太」、31歳。両親とも在日中国人の二世で、高校に入った頃から歌舞伎町の組事務所に出入りするようになり、その後、組の資金で進学して東京大学経済学部に入学。卒業後は米西海岸のスタンフォード大学に留学して経営管理学修士(MBA)を取得。帰国後、いくつかの金融系企業舎弟勤務を経て、二日前に吹っ飛ばされた東亜グローバルビジネスの立ち上げに参加。以来、そこでそのまま経理担当役員副社長──下手な大企業の幹部候補並にリッチなキャリアだな、こりゃ。事務所が爆破された時は、幸い外に出ていて難を逃れたらしいですね』
『なるほど』武藤は頷いた。
『で、そのイケイケの経理部長様が、何だってまた、たった二日で、ここまで落ちぶれてるんだ?』
『手元に現金をあまり持ってなかったんでしょう。〈METRO〉で追跡する限り、ATMはおろかコンビニにも近づいてない。事務所を吹っ飛ばしたのが誰か判らないんで、ATMやカードも使えない──今時、どこの組織もハッカーを雇って金の動きに網を張るぐらいのことはやりますし。まぁ、うかつに口座に手が出せないことぐらいは理解しているでしょう』
『しかし、そういう時のために、この手の連中は高価なアクセサリー類を身に付けているのでは?』
訊ねる劉に、久住が説明する。
『表の古売屋は警察に通報義務があるし、裏の古売屋は必ずどこかの組織の息がかかっとるしな』
『都内がやばいなら、とっとと地方に逃げればいいだろうに』
『誰が追ってくるか判らないのに、わざわざ土地勘や人脈のない場所に逃げる奴はおらんよ。こいつは東京生まれの東京育ちだ。ホームグラウンドの新宿から渋谷に逃げ込むのが、精いっぱいだったんだろうて』
『それに、駅やタクシーも監視カメラがあるから使えない、と。勿論、レンタカーも駄目。このままいったら、ホームレス一直線か』
『甘いな』久住は冷ややかに告げた。
『ホームレスにだって、喰い物や寝床を巡って縄張りってものがある。そこで新人としての仁義を切り損なったらそこまでだよ』
『厳しいですね。こういう時に頼れるような知り合いが──いれば、こんなことになってないか。常日頃からの人間関係の構築って、やっぱり重要なんだなぁ』
結城がしみじみと呟く。
『ふん。同情は後だ。とっとと身柄を拘束するぞ』
『せめてラーメン喰べ終わるまで、待ってやりませんか?』
『どアホぅ』由加里の問いを、武藤は言下に斬り捨てた。
『飯喰って体力回復されたら、取り逃がした時面倒だろうが』
『酷い話だなー』
キィを叩きながら、まるっきり棒読みの口調で結城が呟く。
それを無視して、武藤が告げる。
『総員、準備はいいな?』
チームの各員から肯定の声──武藤は改めて宣言した。
『さぁ、状況開始だ!』
熱い麺を掻き込むようにすすり上げる。凍えた身体の内臓が、喉から胃へと落ちてゆく麺とスープの熱量を貪るように奪い合っているのが判る。こってりと脂の乗った豚骨スープが、臓腑に染み渡る。暖もりが全身に広がってゆく。
生きてて良かった。生きてて良かった。本当に、良かった。
心から沸き起こる生への喜びに、思わず大粒の涙がこぼれる。
「お、お客さん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ。気にしないでくれ」
慌てて涙をスーツの袖で拭って、カウンターの向こうの店主に告げる。
泣いている場合じゃない。闇金でも更にその裏の地下社会向けの金融屋として鳴らした俺が、こんな千円にも満たないラーメンをありがたがっててどうする。
あの時、歌舞伎町のオフィスが目の前で吹っ飛ばされてから、しばらくパニック状態に陥っていた。
たまたま外廻りから戻ってきたばかりだった呉は、同行の部下を先にオフィスに戻し、車の中で取引先との通話を行っていた。なかなか終わってくれない先方の長話に苛立ちながら適当な相槌を打つ内に、車外からいきなりの爆轟に襲われた。
驚いておそるおそる窓の外へ目をやろうとすると、いきなり車の天井に何かがどすんと落ちてきた。
慌てて外に出ると、破砕されたガラスや建材が辺り一面に撒き散らされていた。
そして振り返れば、血塗れの社長の屍体が仰向けに車の天井に載り、虚ろな目をこちらに向けている──
腰が抜けた。悲鳴を上げてその場にへたり込むと、ほうほうの体で逃げ出した。
気がつけば、代々木界隈の住宅地の中の小さな公園のベンチに、ぼんやりと座っていた。どこで落としたのか、この時点で既にコートも、手にしていたはずの携帯も失くしていた。
だが、ひとまずこうして歌舞伎町から距離を置き、腹も膨れると、人心地ついて、ようやく論理的に物事を考えられるようになった。
そっと探るように店内を見廻せば、店構えの割に意外と小綺麗な店内に客は自分ひとり。時刻は深夜手前。渋谷でこの時間なら、まだまだ宵の口だが、ちょっと大通りから外れた場所にある店内には、他に客はいない。
カウンターから裏口へ抜ける動線を、抜け目なく視線で確認しつつ、呉はほっと安堵の息を吐く。
何にせよ、このまま逃げてても埒が明かない。とりあえず、誰か後ろ盾になってくれる人物を見つけて、その庇護下に転がり込むしかない。
だが、思い当たる何人かに探りをいれた限りでは、あまり芳しい反応とは言えなかった。いずれもこちらの無事を喜びつつ、どこかしら対応がよそよそしかった。そして必ず執拗にこちらの居場所を訊き出そうとする。
そこで自分が考えているより、状況ははるかにまずい方向に転がりつつあることに気付いた。
歌舞伎町のオフィスを吹き飛ばしたのが自分だと思われている──いや、「そういうストーリー」が出来上がりつつあるようだ。
「嘘だ」と叫んでも、何の意味もないことは判っていた。裏社会の野獣どもに「真実」など何の意味も持たない。要は誰もが納得できる「ストーリー」があればいいのだ。重要なのは、大金を抱えたカモが、この寒空に護衛はおろかコートもなしにほっつき歩いているという現実だ。
「大金」?
呉は東亜グローバルビジネスの裏帳簿の在り処も、莫大な手持ち流動資産の在り処も知っていた。各国通貨からなる現金と有価証券で、額にして数千億円。東亜グローバルビジネスは、闇社会では「歌舞伎町の中央銀行」と呼ばれ、外国通貨から仮想通貨のデジタルキャッシュまで、高額の手数料と引き換えに、どんな多額の資金でも即座に現金化できるのが売りだった。
それらの資金は、デジタルキャッシュが普及して先進国の司法機関の手が届きにくい、アフリカ諸国の地方軍閥領内にあるサーバ上に、無数の少額口座に分散して蓄えてある。かつて租税回避地として知られたケイマン諸島やマーシャル諸島は、税務司法の国際包囲網整備に伴って、以前ほど使い勝手は良くない。最近では、後ろ暗い資金の運用先としてはむしろ避けられる傾向がある。
ただし、そのままだとこちらも使い勝手が悪いので、それらの口座を統合して運用する経理システムをクラウド空間上に構築していた。そのシステム上で「一〇〇億引き出したい」と入力すると、それぞれ一〇〇ドル前後の口座からなる集積体から不自然に思われないようにランダムに自動引き落としがなされ、指定の口座に振り込まれる。振り込む先の相手も同様のシステムを使用していれば、相手方システムと同期して先方の口座クラスタに分散入金する。
しかも、完全に自動化されているから、超高速の資金の出し入れも可能である。銀行手数料さえ気にしなければ、世界中の銀行口座を永遠に浮遊させておくことも可能だ。こんなもの、追跡可能な金融当局など世界中どこにも存在しない。
更にこのシステムの本体が存在するクラウド空間は、無数の民間サーバーをネットワーク越しに繋いで、それをひとつのマシンとして動くように仮想化されて稼働している。特定のパソコンやサーバ内に存在するわけではない。つまり、当局による査察(ガサ入れ)があっても、システムのアドレスさえ判らなければ手も足も出ないということだ。
元々は欧米の脱税コンサルを得意とする税理士事務所が開発したシステムだそうだが、今では裏社会でも国際標準と化しているシステムだった。
社長の死んだ今、その経理システムのアドレスやアクセス方法を知っているのは、呉ただひとりだった。そして、このまま一週間、高位アカウントを保持するユーザーからのアクセスがなければ、このクラウド空間上にある数千億の金は跡形もなく霧散霧消する。一〇〇ドル単位に分割された個々の口座が、具体的にどこの銀行のどんな口座番号の口座にあるのかという、口座アドレス情報がシステム上から抹消されるのだ。
警察などに拘束された場合に備えての措置だが、そうなると呉本人にも資金は取り戻せなくなる。資金は休眠口座扱いになり、いずれは銀行の自己資本として吸収されて消えてなくなる。
そんなバカバカしい話はない。早急にシステムにアクセスして、資金を動かす必要があった。
だが、そのためには、ネットワークに繋がる端末が必要だ。
携帯を喪ってなければそれが使えたが、この場に無い物を悔いてもしょうがない。
とりあえず、家電量販店にでも行ってネットワークに繋がるパソコンか、新しい携帯を入手──と考えかけ、はたとその難易度の高さに愕然とした。
クレジットカードを使用すれば、ほとんど瞬時にこちらの居場所が知れる。携帯の契約で身元照会をされれば、これも組織に雇われたハッカーにすぐに探知されるだろう。
それに端末を手に入れても、すぐに使えるわけではない。個人認証のための複雑な手続きが必要なのだ。それを端末にセットアップするだけでも、半日は掛かる。
それを東京中のありとあらゆる組織に追われながら、行わねばならない。
外気の低さとは異なる寒気が背筋を駆け抜ける。
そうだ。
東亜グローバルビジネスに出資していた日系のヤクザ組織。取引関係にあった中国系やアジア系の犯罪者組織。一攫千金を狙う、一匹狼の犯罪者たち。…………。
東京中のそうした獣どもが、狩りの時間の始まりに舌なめずりをしているはずだ。呉を捕え、システムのアクセス方法を吐かせれば、数千億の金が手に入るのだ。捕まえてしまえば、口を割らせる方法などいくらでもある。そして、合理的で容赦のない「訊き方」をすれば、口を割らない人間などこの世に存在しないことを、彼らは実体験からよく知っている。そういう獣どもなのだ。
「狩り」の始まりを告げる号砲は既に鳴っている。鳴らしたのは、呉自身だ。うかつにも助けを求めて、何件か知り合いに電話を掛けてしまった。いずれも、こういう局面で理性や同情を期待できる連中ではない。勿論、立場が違えば、自分も同じことをしただろう。
それから二日間、状況は一切、好転しなかった。
クレジットカードもキャッシュカードも使えない。いくらでも大金を引き出せるはずなのに、危険過ぎて手が出せない。
身につけた高価なアクセサリー類も換金できない。古買屋は信用がおけない。呉自身が逃げた債権者を追う際に、情報源として一番利用していたのは、そうした古買屋のネットワークだった。
情婦を頼ることに至っては、自殺同然だった。自分が追手なら、まず真っ先に情婦と家族を監視下に置く。
駅や交通機関、主要な街道筋も監視下にあると考えた方がいい。公共機関の監視カメラから映像を抜く技術も、その映像を自動解析して個人を特定する技術も、裏社会ではいまや当たり前の技術にすぎない。……。
どん詰まりだ。どうにもならない。僅かばかりの手持ちの金も、目の前のラーメンに消えた。このまま逃げ廻っていても、いずれは捕まり、洗いざらい喋らされた挙句、ボロ雑巾のようにされて放り捨てられるのが落ちだ。
ならば、どうする?
いっそ、こちらから──
「いらっしゃい!」カウンター越しに店長が威勢良く声を上げた。
首だけ振り返って背後を覗くと、男が二人、暖簾をくぐって店内に足を踏み入れようとしていた。
ひとりは三◯前後の若い男で、長身の頭にベースボール・キャップを目深に被り、両手をスタジアム・ジャンパーのポケットに突っ込んで、店内をざっと見廻すように視線を流す。もうひとりは、固太りした短躯にくたびれたトレンチコートを羽織った中年男で、帽子を取ると日に焼けた見事な禿頭が姿を表した。
「やあ、親父さん、今夜は冷えるね」
凹凸の少ないのっぺりとした顔に人懐っこい笑みを浮かべながら、中年男は店長に声をかける。
だが糸のように細められた瞳は、冷たく、温もりを欠いた眼光でひたと呉を見据えている。
「!」
その視線の意味を理解した呉が、声にならない悲鳴を呑み込む。
終わりだ。終わった。終わってしまった。何もかも。
こんな所で、こんな形で。
凍りついたように禿頭から視線をそらすことのできない呉をよそに、中年男は呉の隣の席に腰を下ろす。若い男はジャンパーに手を突っ込んだまま、無言で呉の背後に立った。
「お客さん、ちょっと──」
「ああ、いいのいいの。こちらのお客にちょっと用事があるだけだから」
そう言って、右手をコートの内懐に突っ込む。
「っ!?」
「ああ、そんなに怖がらんでください。携帯を出すだけですから」
そう言って取り出した携帯を、カウンターの上に置く。
と、不意に携帯が震え出す。
着信──誰から?
途方に暮れた顔を向ける呉に、中年男は顎をしゃくって電話に出るよう促す。
慌てて飛びつくように電話を摑んだ呉は、一瞬、躊躇ったものの、受信ボタンを押して耳に押し当てた。
「……もしもし?」
『おー、呉はん。災難でしたな』
「………………っ!」
武闘派として知られる関西半グレ組織の大物、久慈昌平の声だった。
大阪、深夜を廻ってこれから本番を迎えようとしている夜の御堂筋を見下ろす高級フィットネスクラブのプール・サイド──そこに置かれたシートに、五◯を越えたばかりにしては引き締まった精悍な肉体を横たえながら、久慈は携帯に優しく語りかけた。
「事務所も社長もきれえにいてもうて、こらえらいこっちゃと心配してましたんや。せやけど、あんさんの無事な声聞けて、ほっと胸撫で下ろしとるところですわ──まぁ、一番ほっとしとんのは、おたくの会社にカネ出しとった組の大人衆やろけど」
東亜グローバルビジネスには関西系の大手暴力団複数から、多額の資金が投じられていた。自分で手を汚さず、今や投資運用と有職故実の伝承団体と成り果てた伝統暴力団は、こうした半ば合法、半ば非合法の企業への投資運用で組織を維持している。
勿論、合法とされない領域に於ける自らの権益保護に、法の庇護は期待できない。必然的に自らの手で、自らの力で護らねばならないのだが、年々締め付けが強化される暴力団対策法があるため、自ら手を汚すことは避けなければならない。何せ、偽名でゴルフ場を利用しただけでも、逮捕拘禁されるご時世なのだ。表立ってできることなど、ほとんど無きに等しい。
そこでそうした実務的な役目を担っているのが、半分合法、半分非合法の灰色の領域に棲息する久慈のような男たちだった。
関西を席巻した暴走族の広域連合団体の幹部OB達を中心に、各自の設立した合法非合法各種団体の緩やかな連合体である彼らに、統一した名称はない。警察や税務当局に目を付けられたら、資金や資産を移動し、さっさと解散する。組事務所や代紋ベースで活動する旧来の伝統暴力団より警察に捕捉されにくいのは、そのためだ。
その一方で、伝統暴力団と違って、彼らは刺青や代紋といった記号を徹底的に忌避する。久慈の鍛え上げられた肉体にも、刺青の類は一切ない。そんなもので人目を曳いて、当局や同業者の注目を浴びても、何の得にもならないからだ。
こうして一般社会に溶け込んで生きる「半グレ」は、伝統暴力団側にとっても、資金や余剰人員の運用先として必要不可欠な存在だった。警察当局に捕捉されにくいというだけなら外国人系犯罪組織もそうだが、言語も習慣も違う彼らとは今ひとつコミュニケーションが取りにくいきらいがあった。そして裏社会とは、些細な齟齬でたやすく人死が出る世界でもある。
こうして伝統暴力団とWin─Winの関係を築き上げた彼らは、豊富な資金源をバックに、順調に勢力を拡大させていった。今ではIT業界から原発事故の除染作業員の手配まで、多種多様な業態に触手を伸ばし、社会の至る所に浸透してきている。
そうした半グレ集団の中でも、久慈は警備ビジネスを中心にのし上がってきた男だった。警備ビジネスと言っても、路上警備やビル警備ではない。政府公認の下、高性能な銃火器で武装し、外国航路の船舶や海外プラント警備などを請け負う警備会社で、実態はほとんど民間軍事会社と言っていい。
と同時に、銃火器の取り廻しに長けた彼らを、国内外での裏の抗争にも平気で投入してくることでも知られていた。海外派遣経験のある退役自衛隊員や傭兵経験者からなる彼の私兵は、洗練された戦術と装備で、荒くれ者揃いの外国人犯罪者集団からも恐れられていた。
『ま、待て!』回線の向こうで、呉が切迫した声を上げた。
『話を聞いてくれ! 俺は関係ない! 俺がやったわけじゃ──』
「何の話でっか?」久慈はとぼけた声で訊ねた。
「別に私ら、呉はんが何ぞやらかしたとか、疑うてるわけやありまへんで」
『……え?』
受話器越しに一瞬、呉の緊張が緩むのを愉しむように、口許をうっすらと歪めながら久慈は告げた。
「ただな、誰ぞが落とし前つけな収まりまへんやろ、ちゅう話ですわ」
『いや……それは──』
動揺する呉に、畳みこむように続ける。
「あんさん以外、誰も生き残ってまへんのや、他の誰に務まる思てますねん」
『ふ、ふざけるなっ! ウチの会社は被害者なんだぞ!』
「会社はせやろけど、あんさんは、その会社のカネをひとりで持ち逃げする形になってしもてますからなぁ」
『………………!』
「世知辛い世の中でんな」絶句する呉へ冷ややかに言い放ち、久慈は会話を打ち切った。
「ご理解いただけたんやったら、ウチのモンと代わってもらえまっか」
力なく耳から離す呉の手許から、中年男がもぎ取るように携帯を取り上げる。
「代わりました。……はい。……はい──」
真っ青な顔色で凍りつく呉を一瞥しながら、淡々とうなずく。
「では、当初の予定通り処理します。報告は後ほど──」
それだけ告げると、中年男は通話を切って携帯を内懐に戻す。代わりに長財布を取り出し、万札を数枚、カウンターに置いた。
「親父、これで足りるかい」
「いや、こんなにいただくわけには──」
「いいんだ。受け取っておいてくれ」
親父に皆まで言わせず、言い切る。勿論、口止め料込みの金額だ。
中年男は呉の腕を取って、カウンターから立ち上がった。
「じゃあ、行こうか」
「や、やめろ!」
これから己を待ち受ける運命に気付き、呉がにわかに暴れ出す。薬物と暴力を駆使した凄惨な拷問で脳内の情報を洗いざらい吐き出させられた挙句、原型を留めないまでに無惨に切り刻まれて廃棄処分されるのだ。そしてその一部始終を収録した映像が関係者間で回覧され、この件は一件落着となる。……。
嫌だ。嫌だ。イヤだ!
こんなに終わり方は嫌だ。こんなに死に方は嫌だ。理不尽すぎる。何でこんなに殺され方で、死ななきゃならないんだ!
彼自身、組織の資金に大穴を開けた証券マンが泣き喚きながら惨殺される様を、酒の肴にゲラゲラ笑いながら眺めたことがあった。組織間のビジネス•トラブルの落とし前として、入ったばかりの新人に自殺を強要したこともあった。
弱肉強食──それが、この「渡世の仁義」だなどと、常日頃から嘯いてきた。
それがいざ自分の番となった時、呉は今の自分に覚悟も観念も、何もできていないことを思い知らされた。自分だけは特別で、例外で、最後まで逃げ切れると思っていたのに、それが何の根拠もない思い込みに過ぎなかった現実を前に、もはや恥も外聞もなく泣き喚くしかなかった。
「やめろ、離せ! 俺に触るな!」
「面倒を掛けさせるな」
中年男が無造作に呉の鳩尾に拳を放り込んできた。強烈な一撃だった。呻き声とともにカウンターに崩れ落ちる。
力の抜けたその体躯を、中年男が改めて引き起こす。
店の入口の引戸が荒々しく開いたのは、その時だった。
「よう、もうお帰りか? せっかく来たんだからラーメンの一杯くらい、喰ってけよ」
不敵な笑みを浮かべた黒いコートの大男──武藤が立ちはだかるようにそこに立っていた。
明日(2013/8/11(日))にコミケ会場ブースにて発売予定の『邀撃捜査線 カサンドラ・パラドクス<SECOND BULLED>#02』よりの先行公開分です。
今回はもう1節続きます。