9話「再戦への決意」
五人は、薄暗いボスト男爵邸の玄関ホールへなんとか戻ってきていた。
避難区での襲撃から命からがら逃げ帰ってきたばかりで、全員の肌にはまだ冷え切らぬ汗が薄い膜となって張り付いている。
甲冑のきしむ音、荒い呼吸、湿った靴音──どれもが、先ほどの死地を思い返させた。
乱れた息を整える間もなく、廊下の奥からバタバタと足音が近づき、領主ガーランド男爵が大股で姿を見せた。
深い隈に縁取られた目が、五人の姿を確認した瞬間、はっと大きく見開かれる。
「戻られましたか! それで──ヒポグリフが本当にボストに姿を現したのですか!?」
エレオノールは頷き、先ほど避難区で遭遇した一部始終を淡々と説明した。
説明の最中、男爵の顔色はみるみるうちに蒼白へと変わり、口元は乾いたように震えている。
「兵士から報告を聞き……まさかとは思いましたが……まさか、本当に……」
男爵はそのまま重い椅子へ崩れ落ちるように腰を下ろした。
高い天井の広間には、深く沈むような男爵の声だけが響く。
「ヒポグリフは半年ほど前、突如ウスターに現れました。奴は街と周辺の畑を蹂躙し……我々が送り込んだ兵士は剣も届かず、矢は風に弾かれ……次々と倒れていきました。打つ手がないまま、我々は仕方なく“餌”となるレッサーオークを定期的にウスターへ放ち、奴の狩場をその周辺に固定してきました」
藍色の制服を身に纏った文官たちもやってきて、固い表情でその言葉を聞いている。
男爵は続ける。
「加えて、牽制のため兵士が定期的に攻撃を仕掛け……犠牲を出しながらも、半年もの間、なんとかヒポグリフをボストに近づかせないようにしてきたのです。それが──」
男爵の拳が机を握りしめて震えた。
白く浮き出た骨が、皮膚を押し破らんばかりだ。
「それが、先ほど……このボストに……ラ・ロシュ公爵令嬢たちに向かって襲ってきたのです」
重苦しい沈黙が広間を覆う。
男爵の視線が、ゆっくりとエレオノールへ向けられた。
「ラ・ロシュ公爵令嬢。率直に話しましょう。あれは、おそらく“ドラゴンの肉を食べたあなた方”に引き寄せられたのです。モンスターの肉を口にした者はモンスターに襲われる。これから先、奴はまたラ・ロシュ公爵令嬢たちがいるここボストに現れるでしょう」
広間がしんと凍りついた。
誰もが息をするのさえ忘れてしまったかのようだった。
男爵は机に手を置き、疲れ切った様子で深く頭を下げる。
「ゆえに──ボストを出て行って欲しいとは申しません。次の定期船が出るまで、ラ・ロシュ公爵令嬢たちにはこの男爵邸に留まっていただきたい。決して外に出ないよう。よろしいですね?」
誰も反論できなかった。
避難区の惨状と、先ほどの襲撃の恐怖がまだ胸奥に張り付いている。
静寂の中、男爵はもう一度、深く頭を垂れた。
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分厚い扉が閉まると同時に、張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。
しかし、緊張が消え去ったわけではない。
窓の外では曇天の海風が重くうねり、湿った風が時折窓枠を鳴らしている。
どこか遠くで、かすれた鳥の鳴き声が、ひと声だけ響いた。
ヴァンサンは巨体を軋ませながら椅子に腰を下ろす。
アルマンは壁に背を預け、先ほどの光景を思い出したのか、顔をしかめつつ、疲れを吐き出すように深く息をついた。
マリアンヌは震える指先で魔導具を握りしめ、リュシールはソファに座るエレオノールの傍らに立ち、心配を隠しきれない眼差しで、その顔を覗き込んでいた。
エレオノールは少し俯いていたが、やがて、ゆっくりと顔を上げる。
青と赤の瞳には、避難区で見た光景がまだ焼き付いているようだった。
「あの避難区を見て、思いましたの。このまま何もしないで、ただ定期船を待つだけでは救われない人が多すぎますわ」
静かだが、刃のように鋭い声音だった。
エレオノールは胸に手を当て、ゆっくりと息を整えながら言った。
「ヒポグリフを討伐したいと思いますの」
ヴァンサンとアルマンが同時に息を呑む。
リュシールは一瞬、肩を跳ねさせ、その言葉を聞いた次の瞬間には真っ青な顔で叫んでいた。
「お嬢様、いけません!」
エレオノールはゆっくりと振り返る。
「ガーランド男爵は、ヒポグリフが“私たち”に引き寄せられたとおっしゃっていました。ですが──私は違うと思いますの。ドラゴンの肉を食べているのは私とリュシールですけれど、先ほどの襲撃では明らかに“私だけ”が狙われていましたわ」
少し間を置いてから、エレオノールは言葉を継いだ。
「理由は分かりません。けれど、もしそうであれば……私を囮にすれば、また出てくるのではと思いましたの。そこを何らかの方法で攻撃していただければ――」
リュシールは蒼白な顔で、首を力いっぱい横に振る。
瞳が潤み、声が震えていた。
「お嬢様、いけません! あのヒポグリフを倒そうにも、先ほどガーランド男爵が説明した通り、こちらには有効な手段が何ひとつありません! それに、お嬢様はエランソワの宝なのです。傷ひとつ許されるはずがありません!」
ヴァンサンも険しい表情で重々しくうなずいた。
「フィネット殿の言う通りです。あれに挑むなど、至難を通り越して無謀……愚行です」
そのとき、机の前で沈黙していたマリアンヌが、そっと顔を上げた。
赤髪の隙間で銀縁眼鏡が光を弾き、それを指先で押し上げると瞳に鋭い光が宿った。
「それなら……倒せるかもしれません」
薄い声だったが、確かな意志がある声だった。
全員の視線がマリアンヌへ向く。
マリアンヌは唇をきゅっと結び、迷いのない眼差しをエレオノールに向ける。
「エレオノール様……ドラゴンは、どうやって倒されたのですか?」
「どうやってって……先日ガーランド男爵に説明した通り、偶然、雷が落ちただけですわ」
「では……その雷は、どうやって落ちたのですか?」
エレオノールは少し首をかしげる。
「雷が落ちる前、私は全魔力を使って『散水華』を放ちましたわ。お父様はその『散水華』がドラゴンの頭に当たったのだろうとおっしゃっていましたが……」
マリアンヌは続けて言葉を繋いだ。
手の中の魔導具が微かに震え、マリアンヌの興奮を代弁するかのようだ。
「先ほどの『煉溺焼夷弾』は……。一日に、何度撃てますか?」
エレオノールは指を三本立てて答えた。
「……三回が限度ですわね。一度撃つと、魔力がごっそり持っていかれますの」
マリアンヌの視線がアルマンに向く。
「なるほど……。シャトネ殿……シャトネ殿の土魔法について教えてください」
アルマンはやや気まずそうに眉根を寄せ、控えめに答えた。
「私の土魔法は……地面を一時的に砂状にする程度のものでして。狩りでは獲物の足元を狙い、足を取らせたり、転ばせたりするのに使っています。直接仕留める力はありませんが……罠を仕掛けずとも動きを止められるので、便利ではあります」
マリアンヌは頷き、肩から掛けていた鞄をごそごそと探り、巻かれた羊皮紙を取り出して机上に広げた。
その上には、円筒形の奇妙な器具の図が緻密に描かれている。
「わ、私は船の上で……リュシールさんの風魔法を見て、ずっと考えていました。リ、リュシールさんの『息吹風』は……魔導具に応用できます。実は……リュシールさんに“掃除用の床吸機〈フロア・クリーナー〉”を作って、プレゼントしようと思っていまして……」
リュシールがぱちぱちと瞬きをし、驚いた表情でマリアンヌを見る。
「フロア……クリーナー?」
「は、はい……床の埃やゴミを吸い上げるための魔導具です。ですが……この〈フロア・クリーナー〉をさらに改良して、皆さまの力を合わせれば……きっと、ヒポグリフを倒せます。せ、説明しますね!」
その言葉に、四人の胸が熱く震える。
こうして五人は、ヒポグリフとの再戦に向けて動き出すことになった。




