8話「ヒポグリフ襲来」
定期船が停泊し、乗客の下船がはじまった。
当然ながら、港にアメリ側の歓待も式典もない。
エランソワから事前に使者が送られているわけでもなく、ボスト港はただ普段通りの喧噪を続けているだけだった。
エレオノールたちは簡易な入国審査で役人らしき中年の男に声をかけた。
「エランソワ国、ラ・ロシュ公爵家のエレオノールと申します。私たちは料理使節として参りました。こちらに国王陛下への親書がございます」
差し出された封蝋の手紙を見た役人は、はじかれたように背筋を伸ばした。
「しょ、少々お待ちを! 上に報告して参ります!」
数分後、港湾役所の奥へ案内され、粗末な応接室で待つよう命じられる。
ほどなくして宿屋へ誘導された。
「明日、領主様がご歓待を行うとのことです。狭いところで申し訳ありませんが、本日はこちらでお休みください」
質素ながら清潔な宿で、旅の疲れを癒やすには十分だった。
アメリ側としては急な来訪に戸惑いながらも、礼を尽くそうとしているのだろう。
翌朝。
コンコン、と扉を叩く音が響いた。
「エランソワ料理使節団の皆さま、領主様よりお迎えに上がりました!」
昨日の役人とは違い、きちんと制服に身を包んだ使者が立っていた。
「ボスト男爵邸までご案内いたします」
アメリの港街ボストは中規模ながら商業で栄える街で、その中心部には領主館が建つ。
石造りの堅牢な建物で、ヒポグリフへの警戒ゆえか、門兵たちは普段以上に緊張した面持ちだった。
広間へ通されると、急ごしらえ感は抜けないが歓迎式典が整えられていた。
整列する兵士、掲げられた簡素な旗、その中央で客人を待つ壮年の男。
「ようこそ遠きエランソワより、ラ・ロシュ公爵令嬢。私はボスト領主、ロジャー・ガーランド男爵にございます」
温厚そうな男だったが、その目の下の深い隈が長く続く混乱と疲労を物語っている。
「頂戴した親書は国王陛下に届けております。陛下は大いに感謝しておられたと伺っています」
歓迎の挨拶と形式張った儀が終わり、ガーランド男爵は少し表情を和らげて一行に向き直った。
「それで、料理使節というのは、いったいどのような使節なのですか?」
エレオノールは丁寧に答える。
「アメリの皆さまがヒポグリフ被害で疲弊していると伺いました。私は、避難地にいらっしゃる兵士の方々や民の皆さまに料理を振る舞い、心身の慰安となればと考えております。《ドラゴン肉の燻製》を持参しておりますわ」
男爵は椅子から跳ねるように身を乗り出した。
「ドラゴン!? ま、まさかあの伝説の!? ドラゴンを討伐されたのですか!?」
広間がざわめいた。
ドラゴンなど伝承でしか知らないと、誰もが信じられないという顔だった。
「な、なるほど! そういうことでしたか……! ラ・ロシュ公爵令嬢、本当によくお越しくださいました。このあと会議を行います。お疲れのところ恐縮ですが、ぜひ使節団の皆さまにもご参加をいただければ。ヒポグリフについて、ご助言をいただければと存じます」
その熱気を引き取るようにして、男爵は一行を別室へと案内した。
会議室には領主家の文官、兵団長など十数名が集まっていた。
ガーランド男爵が議事を始める。
「さて、ラ・ロシュ公爵令嬢。御父上、ラ・ロシュ公がドラゴンを討伐されたと伺っております。どのように倒されたのか、ぜひお聞かせいただけないでしょうか」
エレオノールは落ち着いた様子で答える。
「ドラゴンに雷が落ちまして、失神している間に失血死させたのですわ」
「なんと! エランソワには伝説の雷魔法を操る方が!? ヒポグリフも空を飛びますし、雷は実に有効でしょう、ええ!」
「……いえ、雷はたまたま落ちただけですわ」
「た、たまたま……?」
「ええ」
「それでは、アメリへは何をしにお越しに?」
「ですから、私がドラゴンの肉を料理して、兵士の方々や民の皆さまの慰安になればと」
その瞬間、会議室の空気が目に見えてしぼんだ。
期待が外れたという色が隠しきれない。
ガーランド男爵も苦々しげに眉を寄せた。
「そうでしたか。いや、我らが勝手に期待しすぎておりました。それから、我々はドラゴンの肉は食べません。アメリでは、モンスターの肉を口にした者はモンスターに襲われると言われておるのです。ひとまず、ボスト西部にウスターの民を受け入れた避難区がございますので、そちらにご案内しましょう」
そして、ガーランド男爵は疲れ切った声で呟いた。
「期待した精鋭は来ない。ヒポグリフの倒し方を教えに来たわけでもない。いったい何をしに来たのだ」
会議後、館を出ると、夕陽が港を朱に染めていた。
風は涼しいはずなのに、誰もが重い息を吐いた。
リュシールが肩を落とす。
「お嬢様、私たちは期待外れに思われてしまったのでしょうか」
「ええ、きっとがっかりされたでしょうね。それに……アメリの人たちもモンスターを食べないのですね」
エレオノールは心底落胆したようにうなだれた。
「こ、これからどうしましょうか……」
マリアンヌの小さな声が落ちる。その問いかけに、一行は誰も答えられなかった。
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避難区の光景は、エレオノールの想像をはるかに超えていた。
薄いテントが広場を埋め尽くし、その下には簡易ベッドと人々が隙間なく押し込められていた。
擦り切れた毛布に身を寄せる避難民と、包帯に覆われた兵士たち。
薬草の青臭さと血の鉄臭さが混じった空気が、避難区全体に重く沈んでいる。
「こんなにも……」
エレオノールは思わず息を呑む。
胸の奥に冷たいものが落ちていくのを感じながら、案内に従って厨房へと通された。
粗末な調理場には、鉄鍋と罅の入ったまな板、欠けた皿が並んでいる。
そんな場所で鍋をかき混ぜていた隊長らしき男が、エレオノールらの姿に気づくと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「食料は、まだどうにか足りています。しかし、畑がヒポグリフに荒らされてしまいまして、次の収穫は期待できません。恐れ入りますが、使節殿たちは食事をご遠慮いただけないでしょうか」
「もちろんですわ。ここへは料理をお手伝いに参りましたの」
「それでしたら助かります」
男の表情に、ほんのわずか安堵の色が浮かぶ。
しかし、料理を作り、負傷兵に配っても、返ってくる反応は冷たいものだった。
「わざわざ遠い国から来て、どうせ領主の館で良いもの食べて帰るだけだろ?」
エレオノールは何も言い返さなかった。
黙って鍋へ向き直り、火加減を確かめる。
野菜は傷み、皮はしなびている。
保存肉は塩にまみれて岩のように硬い。
それでも、エレオノールの手にかかると、刻まれた野菜が油で香ばしく音を立てはじめ、鍋の中からは次第に食欲を誘う匂いが立ちのぼってきた。
だが、料理がどれほど良くできても、状況そのものを変えることはできない。
暖かなスープを受け取った者でさえ、表情は晴れず、陰りだけが濃くなっていくように見えた。
そうした日々が淡々と続いた三日目の昼。
調理場には、煮込み鍋の白い湯気と、刻んだ野菜の甘い香りが満ちている。
エレオノールは手慣れた様子で包丁を動かし、コトコトとまな板を刻む軽快な音が、狭い厨房に小気味よく響いていた。
その穏やかな音だけを聞いていると、外の不安などどこにも存在しないかのように錯覚しそうになる。
「エ、エレオノール様……魔力計が高い数値を示しています。見えない状態でこの数値だと……少なくとも二十以上。エレオノール様以上の魔力です。ヒポグリフが……ち、近くにいるのではないでしょうか」
まな板の上で動いていた包丁が、ぴたりと止まった。
マリアンヌの手に握られた魔力計の水晶盤は、淡い光を脈打つように明滅している。
「そんなはずは……。ヒポグリフはウスターにいると伺っていますけれど」
「お嬢様に何かがあってはいけません。ボスト男爵邸に戻りましょう」
リュシールが低い声で言い、反論を許さぬ視線をエレオノールに向ける。
同時に、他の三人にも視線を走らせ、同意を促した。
「そうしましょう。何もなければまた戻ってくれば良いのです」
ヴァンサンの落ち着いた言葉に、誰も異を唱えなかった。
五人は急いで厨房を後にし、外へと出る。
自然と隊列が整う。
ヴァンサンとリュシールが前方を、アルマンとマリアンヌが後方を固める形で、エレオノールを囲むようにして歩きはじめた。
いつもなら人々の声や鍋の音が絶えない通りも、今日は妙に静かだ。
ささやき合う声さえ、どこか遠くに感じられる。
風がひと吹き通るたび、木々の葉がざわめき、胸の奥に小さなざわつきを残していく。
ほんの数分前までの穏やかな昼とは、空気の質そのものが違っていた。
じわりと広がる不穏さに気づき始めた、そのとき――
ギャアアアアア!!
遠くからではあるが、けたたましい叫びが、空を鋭利な刃物で裂くように響きわたった。
その声に、通りにいた者たちが一斉に肩をすくめる。
「ヒポグリフだ! こんなところまで来やがったのか!」
「兵士がウスターで見張ってるんじゃなかったのかよ!?」
叫びとざわめきが重なる中、上空を見上げると、こちらに向かってくる黒い影が見えた。
陽光の中で瞬きするそれは、遠目にも翼を持ったモンスターと分かるほどの大きさをしている。
やがてその影は姿となる。
馬のような引き締まった胴体に、しなやかな猛禽の上半身が融合した異形のモンスターが、灰白色の翼を羽ばたかせていた。
翼がきらりと陽光を乱反射させながら、上空を悠々と旋回しはじめる。
体長は人間三人分ほどか、それ以上かもしれない。
「ここは危険です! いったん近くの建物に入りましょう」
ヴァンサンが声を張り上げ、一行を狭い路地の方へと誘導する。
ヒポグリフが甲高い咆哮を上げ、空気が震える。
ヒポグリフは旋回しながら高度を落とし、標的を見据えた瞬間、鋭い風切り音とともに滑空を始めた。
大きな翼が一度はためくだけで、落雷のような勢いが生まれ、一気に距離を詰めてくる。
「あれは……まずい!! エレオノール様――ッ!!」
ヴァンサンが弾かれたように前へ飛び出し、エレオノールとヒポグリフの間に割り込んだ。
ヒポグリフの嘴が大盾に弾かれ、金属同士が衝突したような甲高い音が響く。
ヴァンサンは衝突と同時に大盾の角度を変えて、ヒポグリフの嘴による突撃を上方へと弾き上げた。
「お下がりください、エレオノール様!」
ヒポグリフは翼をはためかせながら距離を取り、再び上空へと舞い上がる。
その反対側では、アルマンがすでに弓をギリギリと引き絞っていた。
放たれた矢は鋭い線を描いて上空へ昇る。
しかし――
ヒポグリフが翼を横いっぱいに広げ、空気を巻き込んで風の渦を生み出す。
その渦が見えない壁のように矢を弾き飛ばし、矢は空中で軌道を乱されて彼方へと飛んで行った。
「くっ……!」
アルマンが悔しげに歯を食いしばる。
ヒポグリフは体勢を立て直し、前脚を振り下ろすと、空中に細い白線のような“風の刃”がいくつも生まれ、こちらへ向かって一直線に飛ばしてきた。
「シャトネ殿!!」
ヴァンサンが大盾を突き出して駆け寄り、風刃の一撃を正面から受け止めた。
鈍い衝撃とともに、大盾の表面が浅く削れる。
ヴァンサンの腕が悲鳴を上げるように震え、足元の石畳が軋んだ。
エレオノールは二人の背中を見つめ、ぎゅっと唇を噛んだ後、何かを思いついたように叫ぶ。
「アルマン殿、もう一度射ってくださいまし!」
「かしこまりました!」
ヒポグリフが再び急降下をはじめ、今度は鉤爪を突き立てるように真正面からエレオノールめがけて滑り込んでくる。
「ルゼル副団長、くるぞ!!」
アルマンの声に呼応し、ヴァンサンは再び大盾を構えてエレオノールの前に立ちはだかった。
盾が衝撃を斜め上へと受け流し、ヒポグリフの巨体がそのまま頭上を通過する。
ヒポグリフが再び上空で体勢を立て直そうと旋回した瞬間、アルマンが引き絞った矢を放つ。
「――『煉溺焼夷弾!』」
詠唱と同時に、矢を追うように紅蓮の球体が空を走る。
ヒポグリフは即座に反転し、翼を広げて風の渦を生み出した。
矢はその渦に呑まれ、あっけなく弾き落とされる。
――その直後。
矢の進路をなぞるように、紅蓮の球体が飛来する。
ヒポグリフは反応しようとするも間に合わず、『煉溺焼夷弾』が胸部を直撃した。
爆炎が羽毛を焼き、灰色の煙と焦げた匂いが一気に広がる。
周囲からは悲鳴と歓声が入り混じった声が上がった。
「やった!!」
五人が息をつく――しかし。
炎の中心で、ヒポグリフが翼を広げる影が見えた。
焼け焦げた羽毛を散らしながら、巨大な身体がなおも空中に留まっている。
ヒポグリフは甲高く鳴きながら、全身に風を纏った。
自らに向けて風魔法を放ち、炎を吹き散らしたのだ。
「な……!」
リュシールが信じられないというように目を見開く。
やがてヒポグリフは体から煙を上げながらも胸元を庇うように翼をたたみ込み、飛行を維持したまま大きく旋回すると、山の方角へと遠ざかっていった。
「逃げた……のか?」
アルマンが安堵と疲労の入り混じった息を吐く。
「ふぅー……危ないところでした。それにしても、エレオノール様のあの魔法は一体……」
ヴァンサンは大盾を下ろすと、緊張の糸が切れたように大きく息を吐き出した。
全身の力が一度に抜け、足元がわずかにぐらつく。
「ルゼル副団長こそ、私の命の恩人ですわ」
エレオノールも、その言葉を口にした途端、今になって指先がかすかに震えはじめた。
戦いの最中は気づきもしなかった恐怖が、遅れて胸の奥からせり上がってくる。
夏の陽射しは相変わらず強く照りつけ、上空には先ほど爆ぜた魔法の煙が薄く尾を引いて漂っていた。
遠ざかっていくヒポグリフの影は、ゆらめく陽炎の向こうでゆっくりと小さくなっていく。
避難区には、戦いの余韻と焦げた臭いが重く淀み、人々の間には、蒸し暑さとは別種の、じっとりとした息苦しさだけが残されていた。




