6話「出会い」
柔らかな陽だまりの中、小さなテーブルに置かれた白磁の器から、ほのかに甘酸っぱい香りが立ちのぼっていた。
透き通る琥珀色のジュレは、差し込む光を受けて宝石のように煌めき、静かな輝きを湛えている。
幼いリュシールは椅子にちょこんと腰かけ、両手でスプーンを握りしめると、ためらうように花梨を煮詰めたジュレを口へと運んだ。
次の瞬間、強ばっていた表情がふっとほどけ、小さな唇の端に笑みが宿った。
それは、この館に預けられて以来、初めて見せた笑顔だった。
ここへ来てからというもの、リュシールは泣いてばかりで、ほとんど言葉を発することもなかった。
そのリュシールが、今、声も立てずに笑っている。
その光景を、同じく幼いエレオノールは、息を詰めるようにして見つめていた。
思わず駆け寄りたくなる衝動を胸に押し留め、金色の髪を揺らしながら、そっと目を細める。
胸の奥に、ひそやかな喜びが波紋のように広がっていった。
「やっと笑ったわね。そのジュレ、甘くて美味しいでしょう? 私が作ったのよ」
エレオノールの声に、リュシールははっとしたように顔を上げると、言葉の代わりに、こくり、こくりと何度も頷いた。
まるでそれしか答えの術を持たないかのように、スプーンを握る小さな手に力を込め、再び夢中になってジュレを口へ運ぶ。
「本当に、美味しそうに食べるわね。私もね、美味しいものを食べるのが大好きなの。いつか最高の材料で、私の名前が付くような、とびきり美味しいお菓子を作ってあげるわね」
その言葉のすべてを理解できたわけではないだろう。
それでもリュシールは、安心したように、もう一度小さく頷いた。
この館に来てから、涙しか流せなかった心が、ほんのひととき、痛みを忘れている。
エレオノールは、これまでずっと一人だった。
奇異の目を向けられながら一人で厨房に立ち、料理を振る舞っても、それが誰かの心に届いたと感じたことは一度もなかった。
だが、リュシールは違った。
あの小さな笑顔は、料理そのものだけでなく、そこに込めたものまで、ありのまま受け取っているように見えた。
そのことが、胸の奥にじんわりと広がった。
――ああ、そうなのだ、と。
人は、美味しいものを食べれば、泣かなくなるのだと。
ただ、それが心地よかった。
渡航前夜、その感覚は眠りの底で、淡い夢となって蘇った。
そして目覚めたとき、胸の奥には名前のつかない熱だけが残っていた。
-----
ドラゴン討伐から一か月後。
夏の陽射しが海面に煌めきを散らし、王都の北西に位置するル・ノームル港の埠頭は、季節の定期船の出航を告げる鐘の音で賑わっていた。
この時期に出る便こそが、アメリへ向かう最も穏やかな航路を進む船である。
深紅のトラベリーマントを羽織ったエレオノールが侍女リュシールを伴って桟橋へ歩み出ると、船の前で待っていた三人の影が一様に息をのむように驚きの面持ちで端然と整列し直した。
噂に聞く“エランソワ随一の美姫”――だが、実際に目にしたエレオノールはその言葉すら追いつかぬほどだった。
整った面差しは柔らかな光を宿し、深紅の外套の下からこぼれる気品が見る者の胸に迫ってくる。
そして何より、人々の視線を捉えて離さぬのはその瞳であり、深い湖水のような青の奥に、灯火のような赤がそっと滲む――
まるで深海の蒼が、内側で灯る焔へと滑らかに変わっていくかのような美しくも不思議な光彩であり、ひとたび目が合えば、誰もが瞬きを忘れ、その色の移ろいに心を掴まれる。
顔立ち、佇まい、そしてその瞳――
エレオノールが放つのは美しさを越えた品格だった。
「皆さま、お待たせいたしましたわ」
鈴のように澄んだ声に、はっと我に返った三人の中で、最初に一歩前へ進み出たのは青年だった。
その背には、黒鉄と獣角を幾重にも組み合わせた特製の大弓が収められている。
年若いながらも、穏やかで人当たりの良い雰囲気を自然と纏った人物だった。
「お目にかかれて光栄です、ラ・ロシュ公爵令嬢。アルマン・ド・シャトネと申します。狩猟会では父が大変お世話になっております。どうか、お気軽に“アルマン”とお呼びください」
エレオノールは軽く微笑み、うなずいた。
「心強い腕前だと伺っておりますわ。よろしくお願いいたします、アルマン殿。私のことも“エレオノール”と呼んでいただいても構いませんわ」
アルマンは恐縮したように微笑んだ。
次に前へ出たのは、深い藍のローブを着た赤髪の女性だった。
肩まで届く巻き髪が風に揺れ、その奥で、鼻梁掛けの銀縁眼鏡がきらりと光る。
落下防止用の細い鎖は、髪に編み込まれた飾り紐へと優雅につながり、まるで装身具の一部のように彼女の横顔を彩っていた。
胸元の魔導具が、カチャリと小さく音を立てる。
「は、初めまして……。王立学術院研究官の、マリアンヌ・クレールと申します。ドラゴン調査の折に、遠くからお姿を拝見して……ました……。こ、今回はモンスター調査を仰せつかっております。わ、私の魔導具が少しでもお役に立てれば、幸いでございます……!」
緊張のためか視線がなかなか合わない様子が、かえってマリアンヌの真面目さを際立たせていた。
エレオノールは柔らかく微笑む。
「あら、あの時の調査隊に参加していらしたのですね。心強いですわ。どうぞよろしくお願いいたします、マリアンヌ殿」
マリアンヌは小さく頬を染め、深く一礼した。
続いて前へ進み出たのは、銀鉄色の髪と黒い瞳を持つ長身の男だった。
全身を甲冑で固め、その背には、まるで城門のように巨大な盾を背負っている。
「エレオノール・ド・ラ・ロシュ公爵令嬢、近衛副団長のヴァンサン・ド・ルゼルにございます。この旅の護衛を拝命しております。いかなる脅威からも、必ずやお守りいたします!」
低く響く声音は、波音にも負けぬ力強さを帯びていた。
エレオノールは優雅に一礼を返す。
「頼もしい限りですわ、ルゼル副団長。よろしくお願いしますわ」
最後に、リュシールが一歩前へ出て、品よく裾をつまみ会釈した。
淡い緑色の髪を三つ編みにまとめ、落ち着いた紺のドレスに白い短エプロンを合わせたその姿は、控えめながらも芯の強さを感じさせる。
「お嬢様の侍女、リュシール・フィネットと申します。旅の間、皆さまのお役に立てるよう努めます」
リュシールの自己紹介の間、ヴァンサンの視線はリュシールの胸元あたりを彷徨っていた。
「ルゼル副団長様? 何かございましたか?」
リュシールが小さく首をかしげると、ヴァンサンは顔を赤くして慌てた。
「あ、いやっ! すごっ……! いえ、失礼。なんでもありません!」
顔を背けながら咳払いするその様子は、鍛え抜かれた近衛副団長の威厳とは程遠い。
(よくわかりますわ……)
エレオノールは心の中でそっと同意した。
やがて全員の視線がエレオノールへと向けられた。
夏の日差しの下、金の髪がふわりと光を帯び、その気品と美しさは自然と周囲を圧倒した。
だが、瞳の奥に宿るのは高揚と揺るぎない意志だ。
「皆さま。本日より往復の船旅二か月、アメリ滞在一か月。どうか力を合わせ、無事に料理使節団としての務めを果たしましょう」
アルマンは穏やかな笑みを浮かべ、マリアンヌは感激のまなざしを向け、ヴァンサンは胸に拳を当て、リュシールは誇らしげに頷いた。
船員が舫い縄を解き、鐘が再び鳴り響く。
帆が大きく広がり、夏の潮風を孕んだ。
やがてしばらくして、定期船は静かに海面を滑り、王都の港を離れていった。
-----
アメリへ向かう定期船は順風を受け、碧い海原を滑るように進んでいた。
甲板には潮の香りと日光で温まった木材の匂いが混じり、心地よい揺れが続いている。
船旅のあいだ、仲間たちの過ごし方はいつの間にか決まった形になっていた。
ヴァンサンは船員と交替で見張りに立ち、休む時も甲板で黙々と体を鍛えていることが多い。
アルマンは船酔いがひどく、潮風に身を任せながら、ほとんど動かずに時間をやり過ごしている。
マリアンヌは胸元の魔導具を弄りつつ、何やら難しげな独り言を延々とつぶやいていた。
その一方で、エレオノールは船員に混じって厨房に入り、簡素な船食を見事にアレンジしては歓声を浴びていた。
リュシールもまたエレオノールを見習い、給仕を買って出ていた。
皿を運ぶたびにふくよかな身体の線が柔らかく揺れ、その姿は「豊饒の女神みたいだ」と船員たちの人気を集めていた。
日暮れの甲板に、静かな海風が流れていた。
日中の給仕を終えたリュシールは、布巾を絞って乾かすと、船縁にそっと腰を下ろして一息つく。
甲板の向こうには、船員たちに囲まれたエレオノールが、料理の話をしながら穏やかに微笑んでいた。
その横顔を一瞬だけ確かめてから、リュシールはようやく肩の力を抜いた。
その様子を知ってか知らずか、甲板の空気を吸いに来たアルマンとマリアンヌが、自然とその隣に集まる。
三人の間には、昼間の賑やかさとは違う、静かで落ち着いた気配が流れていた。
「リュシール殿は本当に手際が良いのですね」
アルマンが感心したように言う。
「お、お皿を運ぶ姿も美しくて……まるで、ずっと前から侍女だったみたいです……」
とマリアンヌ。
リュシールは少し驚いたように目を瞬かせ、それから、どこか照れたように微笑んだ。
「もう長いですから」
「ラ・ロシュ公爵令嬢には、いつからお仕えしているのですか?」
アルマンの問いに、リュシールは小さく息を吸い、空と海の境目へ視線を向けた。
夕陽に染まる水平線は、どこか遠い過去へと繋がっているように見える。
「七歳の頃からです。お嬢様と……同い年なんですよ」
「えっ、同い年……?」
とマリアンヌが目を丸くする。
リュシールは小さく頷いた。
「うちはフィネット家といって、代々ラ・ロシュ家に仕えてきた家系でした。でも両親は私が幼い頃に村へ戻り、畑と馬屋で静かに暮らして……六歳の冬のことです。大雨で土砂崩れが起きて、家が潰れてしまって」
そこまで語ると、リュシールは膝の上でそっと指を組んだ。
アルマンは黙って耳を傾け、マリアンヌは息を詰める。
「家は半壊して……家畜小屋も……。それから、二つ年上の姉がいましたが、姉は……助かりませんでした」
風がひとつ吹き、三人を包む空気がわずかに揺れた。
「村は小さくて、治安も食料も整っていなくて……両親は、私だけでも安全な場所に、と考えたのだと思います。母が元侍女だったので……せめて教養を学べる場所へ、とラ・ロシュ家の家令様に手紙を書いたそうです」
「……それで、ラ・ロシュ家に?」
アルマンの問いに、リュシールは頷いた。
「はい。公爵夫人のアデル様は、すぐに私を迎え入れてくださいました。馬車まで村に寄越してくださって……」
そう言って、リュシールは甲板の向こうにいるエレオノールの方へ視線を向ける。
金の髪が夕陽を受けて煌めき、その光の中で、ふとエレオノールがこちらを振り返る。
ほんの一瞬、目が合った。
「同い年なのに……初めて会った頃の私は、本当に何もできなくて。廊下の影に隠れて、声も出せずにずっと泣いていたんです」
リュシールは、穏やかに続けた。
「お嬢様は、そんな私に毎日、同じ目線にしゃがんで話しかけてくださいました」
アルマンとマリアンヌは、思わず息を呑む。
幼いとはいえ、公爵令嬢が侍女に対してそんな振る舞いをするなど、常識ではあり得ない。
「三日目でした。また故郷を思い出して泣いている私の手を、お嬢様がそっと握っておっしゃったのです。“泣きたい時は泣いていいのよ。でも泣いたら、私が作ったお菓子を一緒に食べましょうね”って」
リュシールは胸に手を当てる。
その声は静かだが、確かな温もりを帯びていた。
「あの時……亡くした姉がもし生きていたら、きっと同じことを言ってくれたのだと思います。同い年なのに――不敬かもしれませんが、私はお嬢様を、姉のようにお慕い申し上げているのです」
言葉を選びながら、リュシールは続ける。
「だから、お嬢様に仕えるのは務めであると同時に……私自身が選んだ道でもあります。あの日からずっと、お嬢様をお側で支えたいと、そう願っております」
その言葉を受け取るように、甲板の向こうにいるエレオノールが小さく微笑み、そっと手を振った。
リュシールも応えるように微笑み返した。
三人の間に、潮風よりも温かい沈黙が流れる。
船はゆっくりと海を切り、二人を結ぶ時間をそのまま抱いたまま、夕闇へと進んでいった。




