4話「禁を破る」
昼近くになったころ、館はまだどこか落ち着かない空気を擁していた。
夜通しの解体作業の疲れと、ドラゴンが実在したという現実が、使用人たちの心をざわつかせている。
だが、その不穏さの正体は、それだけではなかった。
いつの間にか、館のどこかから香りが流れ込んでいる。
肉の匂いではない。菓子の甘さでもない。
ローリエやタイムを揉んだときのような青い清涼が鼻を抜け、続いて胸の奥に温かな厚みが落ちてくる。
脂のまろやかさと、骨髄のほのかな甘み。
湯気そのものが柔らかく、肺の内側を撫でていくようだった。
通りかかった者は皆、理由もなく足を止めてしまう。
皿を運ぶ手が止まり、視線が宙を泳ぎ、次いで同じ方向へと引き寄せられる。
理性より先に、身体が反応していた。
その香りがどこから来ているのか。
誰もが心の底で、薄く察し始めている。
――禁忌だ。
その言葉は、誰の喉にも等しく浮かんだ。
幼いころから聞かされてきた戒めが、確かにそこにある。
だが、恐れを思い出すほど、香りはかえって鮮明になった。
舌の根が自然に動き、唾がじわりと増える。
禁忌への恐怖が強いほど、その香りは鮮やかに輪郭を持ち、逃げ場なく胸の奥へと入り込んでくる。
そのとき、回廊の奥から重い足音が近づいた。
ギヨームが現れた瞬間、空気が一斉に引き締まる。
ギヨームは疲労の影を隠せぬまま、しかし目は鋭かった。
そして一歩、足を踏み出すと、空気に漂う、温かく、抗いがたい香りを吸い込む。
わずかに眉が動く。
「……レアめ。誰の目にも触れさせるなとは言ったが、匂いにしてくるとはな」
使用人たちが息を呑む。
ギヨームは一段低い声で続けた。
「ドラゴンについては、書記官に報告書を作らせた。王宮へも正式に知らせ、調査隊の派遣を要請してある。いずれ王宮の者が確認に来る。それまで、余計な騒ぎは起こすな。そして――あの匂いの元をお前たちは決して食うな。口にした者が出れば、館ごと危うくなる」
恐れに満ちた沈黙が落ちる。
使用人たちは頷き、散っていく。
だが、誰もが気づいていた。
香りは、命令で止められるものではない。
そのころ、エレオノールは厨房にいた。
白いコックコートの袖をきちんと留め、髪は高くまとめている。
鍋の前に立つ姿は、戦場に立つ騎士のように真剣だった。
ドラゴンの骨を丁寧に洗い、大鍋に沈め、水を張る。
火を入れると、最初は淡い匂いが立った。
そのまま骨の奥の“命の核”が湯気へと溶け出してくると、香りが変わってくる。
浮いた灰汁をすくい、香りが濁らぬよう澄ませていく。
そこへブーケガルニを落とす。パセリ、タイム、ローリエ。
香草の青い香りが、骨の熱と重なり、澄んだ奥行きが生まれる。
鍋から立つ湯気は、次第に館へと伸びていった。
誰が止めようと、閉じた扉をすり抜け、回廊を伝い、階段を上り、館中を満たしていく。
やがて煮上がると、エレオノールは麻布でゆっくりと濾した。
黄金色に澄んだブイヨンが、器の中で震える。
力強いのに澄んだ香りで、まるで山の夜気を閉じ込めたような清涼感があった。
「よし……これで土台は整いましたわ」
エレオノールは満足げに頷き、ブイヨンを〈ケーヴ〉で一晩寝かせた。
その日の館は、妙な沈黙に包まれた。
誰も厨房へ近づこうとしない。
なのに、皆が香りを忘れられない。
そして、口にしてはいけない言葉が、喉元までせり上がってしまう。
――あれを、食べたらどうなるのだろう。
禁忌の恐怖と、抗いがたい欲が、同じ場所で渦を巻いていた。
翌日。
匂いが“第二段階”へ変わった。
厨房ではエレオノールが、《ドラゴン肉と香味野菜の赤ワイン濾しシチュー グラッセを添えて》を仕上げていた。
ブイヨンの澄んだ香りに、炒めた玉ねぎとにんじんの甘みが湯気に溶け込み、赤ワインの重厚な酸が一段深い輪郭を与える。
そこへドラゴンの肉が煮崩れぬまま熱を抱え、鍋の中でゆっくりと旨みを放っていた。
その香りは、もはや誘惑ではない。
館のどこにいても、人は理由もなく足を止め、次の息を吸い込む前に、もう空腹を自覚してしまう。
呼吸とともに胃の底が熱くなる匂いだった。
使用人たちは視線を交わし合う。
怖い。だが、誰かが最初の一口を口にしてしまえば、きっと止まらない。
そう分かっているからこそ、余計に怖い。
そこへ、アデルがふらふらした足取りで厨房に現れ、一歩、足を踏み入れた瞬間だった。
むわり、と濃密な熱を帯びた香りが、逃げ場のない壁のように立ちはだかる。
思考よりも先に、胸がいっぱいに膨らんだ。
息を吸ってしまった、と気づいたときにはもう遅い。
アデルは頭では分かっている。
あれは王宮が禁じ、口にした者の末路を数多くの寓話が語る――禁忌の存在。
鍋から立ち昇る香りは、恐れを撫でるように、ゆっくりと理性の縁を削ってくる。
骨の奥から溶け出した旨みと、香草の青さ、赤ワインの丸み。
それらが混ざり合い、まるで「大丈夫よ」と囁くかのように、肺の奥まで入り込んでくる。
(匂いだけ……匂いを確かめるだけなら……)
自分でも驚くほど、足が自然に前へ出ていた。
鍋の縁に近づくにつれ、湯気が頬を撫で、視界がわずかに滲む。
アデルはぎゅっと唇を噛みしめる。
(母親でしょう。止める立場でしょう……)
そう言い聞かせながら、視線は鍋の中から離れない。
とろりとしたシチューが波打ち、肉片が顔を覗かせるたび、喉が鳴るのを止められなかった。
そのときだった。
コトリ、とエレオノールが鍋をかき混ぜた拍子に、赤褐色の滴が跳ねた。
それは偶然のようでいて、抗えない必然のように、アデルの指先に落ちる。
熱い。
反射的に指を引き、同時に――
無意識のまま、その指を唇に運んでしまった。
(あ――)
舌に触れた瞬間、理性が焼き切れた。
「はい、お母様。お味は……明日の晩餐にと思いましたけれど」
エレオノールは笑みを崩さず、鍋の表面に浮かぶ肉片をそっと掬った小さな白磁のスプーンを差し出す。
アデルはそれを受け取り――。
見れば肉片にかかったとろりとした赤褐色のソースが揺れている。
香りがさらに濃くなる。
アデルは震える手で、恐る恐る一口を含むと、睫毛がゆっくりと落ちた。
噛むほど、甘みが増す。
牛肉とも鹿肉とも違う。
焚き火の残り香のような野性味がありながら、繊維は解け、後味は驚くほど澄んでいる。
赤ワインの酸が肉の奥の甘みを引き出し、長時間煮出された骨の旨みが、角を削ぐようにそれを包み込む。
「……なんという……」
声が震えた。恐怖ではない。
言葉が追いつかないほどの衝撃だった。
そして、食べ終えたあとに押し寄せたのは、陶酔と重たい背徳感だった。
禁忌を破ってしまったという実感が、遅れて心臓を締めつける。
それでも――
(……だめ、これは……)
胃の奥に残る温もりは、不思議なほど優しく、恍惚と後悔の間で、緩やかに脈打っていた。
思考を止めようとするが、遅すぎた。
確認するため。
もう一口だけ。
そう言い訳を並べ、手に持った匙は自然に鍋へ伸びる。
その瞬間、背後の空気が動いた。
気配に気づいたときには、すでに遅かった。
重く、疲労を帯びた足音が一歩、厨房の前で止まる。
「アデル、何をしている……」
低く、抑えた声。
アデルはびくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返ると、そこにはギヨームが立っていた。
震える指。
まだ離せずにいるスプーン。
そして、隠しきれない表情の変化。
アデルは夫を見上げる。
その目には、恐れより先に“願い”が宿っている。
「……食べたのか」
問いは短く、責める響きはなかった。
むしろ、確かめるような声音だった。
アデルは一瞬だけ唇を噛み、それから小さく頷いた。
「……ええ」
それだけで、十分だった。
ギヨームは深く息を吐く。
叱責も、制止も、もう意味を成さないことを悟っていた。
すでに館中が、この匂いに揺らいでいる。
使用人たちの足取り。視線。沈黙。
誰もが「最初の一人」になるのを恐れながら、同時に待っている。
ここで当主が叱責すれば、秩序は保たれるかもしれない。
だが、欲を押し殺したまま燻る恐怖は、いずれ別の形で噴き出す。
アデルが、躊躇いがちに言葉を継ぐ。
「あなたも、分かっているのでしょう。これはもう危険だとしても、知らずに済ませられる匂いではないわ……」
ギヨームは眉間に皺を刻む。
「……これ以上、抑えきれんか」
ギヨームは低く息を吐いた。
「箝口令を敷いても、もはや止められそうにない。誰かが勝手に口にするのも時間の問題だな」
そして、アデルの手元のスプーンへ視線を落とす。
「わかった。私も罪を食おう」
言い訳の形をした決断だった。
エレオノールは微笑み、何も言わずにスプーンを差し出す。
ギヨームはそれを受け取り、ほんの一瞬、ためらいが指先を止めるが、覚悟を決めるようにスプーンを口へ運んだ。
噛んだ瞬間、ギヨームの目が見開かれる。
言葉は、すぐには出てこない。
ただ、喉が小さく鳴り、視線が泳ぐ。
ソースは野菜の甘さ、にんにくとセロリの香り、煮詰めたトマトの旨みが溶け合い、舌の上で絹のように解けた。
そこへドラゴンの肉が、強靭な生命力を持つ旨味を波のように押し寄せる。
噛めば、肉の繊維の奥まで染み込んだブイヨンが溢れ出し、快楽となって脳を突き抜ける。
ただ無心に、この生命の結晶を胃の腑へ流し込み続けたいという本能だけが、身体を支配する。
ギヨームはしばらく黙っていた。
それから、低く言う。
「……信じられないくらい美味い」
その言葉が落ちると、厨房の空気が変わった。
使用人たちの喉が鳴り、目が揺れる。
禁忌の壁が軋みを立てて崩れ始める。
それは、エレオノールが待っていた瞬間だった。
(――ふふ。上手くいきましたわね)
胸の奥に、静かな熱が灯る。
誰にも気づかれぬほど、わずかな微笑。
その夜、三人の晩餐には、エレオノールが作ったドラゴンシチューが並んだ。
白い器に盛られたそれは、どこまでも美しく、湯気さえ上品に立ち昇っている。
「どうぞ。きっと、お気に召しますわ」
エレオノールは、まるで祝福を授けるかのように、柔らかく微笑んだ。
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ドラゴンの肉は使用人たちにも振る舞われた。
――正確には、振る舞われてしまった。
公爵夫妻が口にし、しかも「美味い」と言ってしまった以上、厨房はもはや堰を切ったようなものだった。
禁忌の言葉を盾に踏みとどまっていた者たちも、最後の防壁を失う。
「本当に……よろしいのでしょうか」
震える声で問うたのは、夜通し解体を手伝った若い給仕だった。
ギヨームは短く頷き、しかし低い声で釘を刺した。
「もはや言うまい。王宮への方便は私が考えておく」
当主としての判断であり、同時に敗北の宣言でもあった。
エレオノールはその横で、何事もないように白磁の小皿を並べていく。
ひと口で終わる量。艶のある肉。とろりと絡む赤褐色のソース。
湯気が立つたび、香草の清涼と骨髄の甘い熱が重なり、胸の芯を焦がすように広がった。
使用人たちは互いの顔を見合わせ、最後には祈るようにしてスプーンを取った。
それから一週間。
《ドラゴンロティ》《厚切りドラゴンベーコンのサンドイッチ》《三段仕込みのドラゴンステーキ》《即席ドラゴンしゃぶしゃぶ》などが館で振舞われた。
食堂は歓声で満ち、「ドラゴンは驚くほど旨い」という認識が館中に広まっていった。
王宮から来た調査隊も、調査を忘れるほどに夢中で皿を空にしていく。
エレオノールを諫めていたリュシールも、もはやその言葉を口にすることはなかった。
今やリュシールのお気に入りは《ドラゴンカツ》で、小麦粉をまぶして菜種油で揚げた粗挽き肉の力強い旨みが、炒め玉ねぎの甘さと合わさり、口の中でジュワッと弾ける一品である。
ニコニコと幸せそうに、ライ麦パンと交互に《ドラゴンカツ》を頬張るリュシールの姿は、見ている誰もが元気になるほどだった。
保存食作りも盛んだった。
燻製ハム、ジャーキー、そして脂身を低温でじっくり煮て保存するコンフィ。
厨房の奥には、所狭しと吊るされた肉の影が揺れ、通りかかるたびに香りが鼻をくすぐった。
唯一、内臓だけは扱いに困り、調理長が首をかしげた末に「これは塩漬けにして様子を見るしかないな」と樽にきちんと詰めて保存されることになった。
また、ドラゴンを食べた館の者たちには、変化が現れ始めていた。
男性たちは総じて体つきが逞しくなり、骨格そのものが力を帯びたかのように見えるようになっていた。
実際、握力や物を持ち上げる膂力は明らかに増しており、ギヨームもまた例外ではなかった。
厚みを増した腕と胸板には、もはや公爵というより、軍を率いる将軍の威厳が漂っていた。
一方、女性たちには若さと艶が戻った。
肌は明るく張りを取り戻し、全身から活力が滲み出ている。
アデルが鏡の前で喜びを隠せず小さく声を上げる姿は、その変化を何より雄弁に物語っていた。
そして、エレオノールには、さらに驚くべき変化が訪れていた。
月光を受けたように肌はほのかに輝き、目元は澄み渡って生き生きとしている。
内側に秘めた光が表へ滲み出たかのように、気品と美しさが一層研ぎ澄まされ、見る者が思わず息を呑むほどだった。
また、青い瞳にはわずかに赤の色が重なり、神秘的な輝きを宿していた。
リュシールも腰のくびれはそのままに、さらに胸と腰回りが以前より豊かになり、より健康的な体の線になっていた。
エレオノールはそんなリュシールを見ると無言で頭にペチっと手刀を落とした。
「な……! なんで叩いたんですかお嬢様!?」
さらに、エレオノールの変化は、日課の魔法の鍛錬でもはっきりと感じられた。
体の内側に、これまでとは違う“熱”のような力がある。
まるで火魔法でも扱えそうな――そんな感覚だ。
エレオノールは目を閉じ、手先に意識を集中させる。
体内の力を外へ押し出すように、じっくりと魔力を集めていく。
しばらく魔力を集めていると、ボウッと小さな炎が一瞬現れ、すぐに消えた。
「お嬢様が、火魔法を!?」
リュシールが声を上げる。
だが、その瞬間――エレオノールは、世界の内側が、ほんのわずかにめくれ上がったような感覚が走った。
炎とは明らかに異なる、もっと根源的な“層”に触れた気配。
金色の糸のような光と、それを包む黒い影の鼓動が、脳裏にかすかに揺らめいた。




