2話「“命の旨味”との邂逅」
この世界には、ささやかな魔法が息づいている。
火を灯し、水を生み、畑に肥料を与える――生活を支えるための、素朴で実用的な力だ。
魔法を扱えるのは十人に一人ほど。
火、水、風、土の四つの属性があり、他には「雷を操れる一族がいた」などの伝承がわずかに残る程度である。
魔法は一人ひとつの属性しか持てず、その資質は生まれたときに決まる。
エレオノールは水魔法を授かった身ではあるが、貴族にとって魔法は特別な力ではない。
館の暮らしを整えるのは使用人たちであり、魔法を使えるからといって家格が上がるわけでも、誉れが増えるわけでもない。
この世界の魔法とは、その程度の“日用品”に近い力なのである。
だが、エレオノールは違った。
エレオノールは魔法に“グルメ”の可能性を見い出し、書物を読み漁り、小さな実験を繰り返していた。
魔法は使うほど魔力が上がると言われている。
しかし、この国エランソワでは数百年戦争もなく、危険な西の大陸アメリへ赴く者もいない。
ゆえに、鍛える者などほとんどいなかった。
だからこそ。
七歳から十年、ほぼ毎日鍛錬を続けたエレオノールの魔力は、国内でも指折りに達していた。
日用品であるはずの魔法を、ただ一人、刃のように研いでいたのである。
あの夜から二十日前。
「『散水華』!」
エレオノールは私有林の開けた場所で、日課の鍛錬を行っていた。
空は黒々とした雲が垂れこめ、湿った風が木々を揺らしている。
呪文とともに、扇を広げたような水の束が前方へ放たれた。
草葉は一斉に湿り、土の表面が濃い色に変わっていく。
エレオノールは濡れた地面へ視線を落とし、軽く息をついた。
薄手のチュニックドレスは膝下で揺れ、裾と袖口の控えめな刺繍が夜気の中で淡く浮かぶ。
肩には虫除けを兼ねた薄絹のショール、手には白い手袋。
足元は柔らかな革の編み上げ靴で、金髪は首筋が涼しいよう高くまとめ、細いリボンで留めていた。
「雷が鳴っていますね、お嬢様」
後ろに控えていたリュシール・フィネットが声を落として言った。
リュシールはエレオノールと同じ年の侍女であり、七歳の頃から側に仕えてきた。
主と侍女でありながら、呼吸が合う様は姉妹にも見える。
膝下丈の落ち着いたワークドレス。
本来なら控えめな装いのはずが、リュシールが纏うと途端に存在感を帯びる。
胸元の布は呼吸のたびに柔らかく持ち上がり、押し留めきれない丸みが、そのまま形となって浮かび上がっている。
そこから細く絞られた腰へ、さらに下へと続く曲線はなめらかで、布越しにも起伏の流れがはっきりと伝わってくる。
また、一歩踏み出せば、臀部の量感がしっとりと揺れ、体温を帯びた艶が後を引くように滲み出る。
(……ずるいですわね)
エレオノールはちらりと自分の胸元へ目を落とし、ほんの一瞬だけ、誰にも聞こえない溜息をついた。
「何かおっしゃいましたか?」
「いいえ、何も。この様子ですと雨が降ってきそうですわね。今日はいっぺんに魔力を放出してしまいましょうか。どうせ雨になるのでしたら多少水浸しになってもかまいませんわね」
「そのようなことができるのですか?」
「やったことはありませんけれど、理から考えれば可能だと思いますの」
エレオノールは両手を高く掲げ、深く息を吸い込んだ。
「――静寂に宿る水の精霊よ。我が全魔力をもって加護を求めん。その滴を束ね、大地を潤したまえ、『散水華』!」
ゴオッと衝撃音とともに水柱が高々と天へ吹き上がる。
あまりの高さに、思わず空を見上げる。
全魔力を放出した脱力とともに、あれは雨雲まで届くのではないか、と思ったその瞬間――。
鋭い閃光が視界を白く塗りつぶした。
雷鳴が大気を殴りつけ、足元の地面が揺れる。
エレオノールの視界がぐらりと傾いた。
「お嬢様っ──!!」
リュシールの声が遠ざかっていく。
耳鳴りだけが残り、視界の端がにじむ。
最後に聞こえたのは、水柱が崩れ落ちる音だった。
エレオノールはそのまま意識を手放した。
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「お嬢様! エレオノールお嬢様! 目を開けてくださいませ!」
遠くで誰かが泣きそうな声を張り上げている。
重たい瞼をゆっくり持ち上げると、まず目に飛び込んできたのは柔らかそうな双丘だった。
「リュシール……?」
「あぁ、お嬢様! ご無事で……ご無事で本当によろしゅうございました! 雷が落ちた衝撃で気を失われたようでして……そ、それと……」
リュシールは言葉を詰まらせ、震える指で後方を指し示した。
エレオノールがそちらに視線を向けた瞬間、息がひゅっと止まった。
森の一角が、まるで巨大な拳で叩きつけられたかのように抉り取られて崩れていた。
土は円形に裂け、地面は深い窪地になっている。
周囲の木々は根元から折れ、枝葉は吹き飛ばされて散乱していた。
その大地が深く抉れた窪みの上に巨大な生物が横たわっていた。
禍々しい紅赤の鱗に覆われた膨大な質量を持つ胴体。
重なり合う鱗は火の粉を固めたように硬く、背には翼が折り畳まれている。
四肢の先には黒々とした鍵爪。
額には二本の角が伸び、その根元には黒い稲妻のような細い紋様が刻まれていた。
傷にしては規則正しく、模様にしてはあまりに異質な冷たい黒だ。
伝承でしか聞かぬ存在。
どう見てもドラゴンだった。
そのドラゴン――と呼ぼう。
ドラゴンの燃えるような赤の奥に暗く揺れる瞳が、こちらをじぃっと射抜いてくる。
こちらを見ているが、まばたきひとつしない。
生きているのか、それとも死んでいるのか、判断がつかない。
「え、あれは……?」
「お嬢様が魔法を発動された直後、ものすごい雷が落ちまして……! お嬢様が倒れられたので駆け寄ったのですが、その直後にあれが空から落ちてきたのでございます。大地が揺れるほどの衝撃でした」
リュシールは震えながら説明した。
エレオノールはゆっくりと身体を起こし、巨大な影を凝視する。
「なんて大きさですの……」
立ち上がれば、館の三階にも届くのではないか。
エレオノールは慎重に一歩、また一歩と巨体へ近づいた。
「お嬢様! 危険です! 戻ってください!」
リュシールの叫びが背中を震わせる。
だが、エレオノールは歩みを止めなかった。
近づくほどに熱気が増す。
鱗の隙間から立ち昇る熱気が空気を揺らし、口元からは火煙のような赤黒い蒸気が漏れている。
まるで東国ナタリーにあると言われる“炎石を吐く怒れる山”のようだ。
不意に、巨体の四肢が地面を蹴るようにびくりと動いた。
エレオノールは思わず身をかがめるが、すぐに歩みを再開する。
ドラゴンの目は、動かない。
「生きてはいますわね」
エレオノールは距離を保ったまま、慎重に観察する。
胸の上下はかすかで、呼吸をしているのかどうかも曖昧だ。
だが熱と匂いは、確かに生き物のものだった。
そこでエレオノールは気づいてしまう。
紅赤の鱗は深く光を吸い、腹部の皮膚は熟れた果実のように艶を帯びている。
漂う匂いは香辛料を焦がしたような刺激にわずかに甘い香りが混ざっており、その姿は恐ろしくも、どこか艶めかしく見えた。
そして、何よりも。
見惚れるほど“美味しそう”だった。
そのとき、遠くから怒鳴り声が飛んできた。
「レア! レア、無事なのか!」
ギヨームだ。
白毛の愛馬ブランシュが地を蹴り、全速力で駆け寄ってくる。
その後ろには衛兵が三人、必死に距離を保ちながら追走していた。
両腰には、遠い東の大陸から代々伝わる家宝――雌雄一対のミスリル双剣〈ゲンエイ〉と〈ハクヨウ〉。
肘から指先ほどの短い刃は、鞘越しでも鈍く澄んだ存在感が伝わってくる。
「お父様!」
ブランシュが嘶き、土煙を上げて急停止する。
ギヨームは鞍から一息に飛び降りると、真っ先にエレオノールの前へ歩み寄った。
「怪我はないか、レア!」
その声は荒いが、視線は鋭く、娘の全身を一瞬で確かめている。
白馬の前に立ったエレオノールは、背筋を伸ばし、言い放った。
「お父様。このドラゴン、食べますわよ!」




