12話「料理革命の夜明け」
時はヒポグリフ討伐直後に戻る。
「信じられん……」
男爵邸の中庭に横たわるヒポグリフを前に、ガーランド男爵は立ち尽くしていた。
空で見たよりもさらに巨大で、銀と灰の羽根が光を吸って冷たく沈んだ色を放っている。
地面に敷いた帆布の端にはまだ血が滲み、淡い鉄臭さが残っていた。
ヒポグリフは、討伐後にエレオノールがミスリルの双剣〈ハクヨウ〉で簡単な血抜きをしたものの、とても五人では運べず、ボストで兵士を呼び、中庭へ引き入れてもらったのだった。
「これを本当にあなた方が?」
「ええ。マリアンヌの作戦で、泥の中に落として窒息死させたのですわ」
さらりと答えたエレオノールに、男爵は唇を震わせた。
「あなた方は英雄、いや、伝説です」
「そんな大げさなものではありませんわ。それより、解体をお願いできますか?」
「か、解体、を……?」
声を裏返しながらも、エレオノールの真剣な眼差しに圧され、男爵は姿勢を正した。
「分かりました。職人を総出で取りかからせます」
その顔には、畏怖と尊敬と、そして覚悟が入り混じっていた。
-----
二日後の昼下がり。
男爵邸の厨房には、果実の甘い香りと赤ワインの深い香りが漂い、普段は質実な空気のはずの場所が華やかな料理場に変わっていた。
大鍋ではプルーンと薬草が湯に身を任せて踊り、分厚いヒポグリフの肉が赤紫から温かな茶色へとゆっくり姿を変えていく。
「……あら?」
棚の奥、布をかぶせられた壺。
エレオノールがそっと蓋を開けると、白い砂の結晶がきらりと光った。
アメリでも上級貴族の贈答品とされるほど貴重な砂糖だった。
「料理長、こちらのお砂糖を少し使ってもよろしいかしら?」
料理長は一瞬息を呑み、困惑の色を浮かべたが、すぐに決意したように頷いた。
「街を救ってくださった公爵令嬢のお願いとあらば。どうぞお使いください」
「感謝いたしますわ」
エレオノールは微笑み、砂糖をひとつまみ落とすと、立ち上る湯気から赤ワインの刺すような香気が和らぎ、果実の香りがふわりと広がった。
エレオノールはその香りを吸い込むと、鼻腔をくすぐる甘さが脳裏へと抜け、胸の奥に官能的な小さな火が灯るような震えを感じたのだった。
-----
夕刻。
照明の下で琥珀色に輝くソースが五枚の皿に並び、湯気が薄い膜のように揺れていた。
エレオノールが完成させた《ヒポグリフとプルーンのワイン煮》を、五人が待つホールに給仕が運んでくる。
五人は揃って食前の祈りを捧げると、リュシールが真っ先にスプーンを手に取って歓声を上げた。
「お嬢様、これ……本当においしいです。柔らかいのに、しっかり味があって、噛むほど甘い香りが広がります。ずっと食べていたいです」
光る瞳で幸せそうにニコニコ笑いながら感想を述べるリュシールに、エレオノールはそっと微笑んだ。
アルマンは初めてのモンスター肉に緊張しながら、慎重に肉を切り、覚悟を決めて口に運ぶと目を見開いた。
「驚きました。鹿でも猪でも野の匂いが多少は残るのに、この肉には匂いが少しもありません。柔らかいし、旨味が真っすぐ舌に乗る。しかも鳥肉のような軽さと、筋の奥にある力強さ。それがうまくまとまっている。こんな肉、初めてです」
ヴァンサンも噛みしめるたびに表情を変化させ、感心したように息をついた。
「正直、禁忌とされるモンスターを食すことに、かなり抵抗がありました。しかし、これは美味しい。プルーンで柔らかくなった肉ももちろんですが、ワインの渋みが消えて味がひとつになっています。香りの層がいくつも重なるようで、正直、モンスターの肉を食べているとは思えません」
マリアンヌは味を確信してか、臆することなく一口食べた瞬間、頬に手を当てた。
「……わあ、ふわっと解けますね。重たい匂いが全然なくて、ソースの香りが甘くて……。あの恐ろしいヒポグリフから、こんな優しい味になるなんて信じられません。お肉なのに、お菓子みたいな香りもして……とても幸せな気持ちになります」
四人の言葉を聞きながら、エレオノールもスプーンを取り、口へ運んだ。
肉が解ける瞬間、深く澄んだ旨味が舌を包み、果実の甘さが滑らかに重なっていく。
砂糖の柔らかな丸みが、荒々しい野性をやさしく抱き込み、まるで別の素材へと昇華させていた。
「甘味がこんなにも味を整えるなんて。これは料理の可能性を変える味ですわ」
エレオノールは胸の奥に確信を抱いた。
エランソワの料理は、香草や苦い酒で獣臭を抑えるだけの、粗削りなものが多い。
だが、この甘味があれば――料理は洗練され、豊かさを纏い、まるで別の文化へ生まれ変わる。
(この調味料は何としても持ち帰らなければなりませんわね)
その思いは、鍋に残る甘い香りのように、力強くエレオノールの胸に刻まれたのだった。




