10話「ヒポグリフ討伐」
エレオノールたちは、ガーランド男爵の指示に従い、男爵邸から離れぬまま息を潜めていた。
各人はそれぞれの場所で、それぞれの「明日」を準備していた。
エレオノールは料理の試作を続け、中庭ではヴァンサンが大盾の縁を研ぎ直しながら空を警戒し、アルマンは庭先で弓の調整に集中していた。
マリアンヌとリュシールは館の一室にこもり、〈フロア・クリーナー〉の改造に没頭していた。
各人は離れた位置にいても、緊張の芯は同じ場所を向いている。
ヒポグリフが再び現れる日に向けて、その中心に立つエレオノールへ。
「お嬢様、失礼いたします」
エレオノールが寝室に戻ると、リュシールはいつものように櫛を取り出し、エレオノールの髪を梳き始めた。
だが、その動きはどこか硬く、指先はかすかに震えている。
鏡越しに映る瞳には、抑えきれない不安が滲んでいた。
「……リュシール?」
リュシールの手が止まる。
そして、櫛を握りしめ、絞り出すような声で続けた。
「本当は、止めるべきなのです。侍女として、公爵家の宝であるお嬢様を危険な囮になど、絶対にさせてはいけないのです」
低く、抑えた声だった。
「でも、止めても無駄だということも分かっています。昔からそうですもの。お嬢様は一度決めたら、梃子でも動かない。……私が悔しいのは、お嬢様が危険な目に遭うことそのものよりも、その隣で私がお嬢様の剣にも盾にもなれず、ただ震えていることしかできないことです」
ぽたりと、リュシールの目から滴がこぼれ落ちる。
エレオノールはゆっくりと立ち上がり、振り返った。
そして、リュシールの小さな体をそっと抱き寄せる。
「泣かないで、リュシール」
優しく続ける。
「私は、私が決めた道を行きます。でも――」
エレオノールは言葉を探し、少しだけ視線を落とした。
「あなたが側にいると思えるだけで、踏み出すときの足取りが少し軽くなるのは……確かですわ」
リュシールは息を詰め、必死に涙を堪えた。
「ですから、今まで通り、鍋の火を見るように私のことを見ていてちょうだい」
冗談めかした声音で付け足す。
「焦げてしまったら、困りますもの」
リュシールは涙を拭い、いつもの凛とした侍女の顔に戻った。
だが、その瞳には先ほどとは違う、覚悟の炎が宿っていた。
「……はい。承知いたしました。お嬢様には私がヒポグリフごときに指一本触れさせません。お嬢様のお供は、このリュシールの役目。しっかり務め上げます」
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避難区での襲撃から八日後。
雲を裂く影が昼空を横切り、続いて空気そのものを震わせる凶音が降ってくる。
窓外を覗くと、ヒポグリフが男爵邸の真上で大翼を広げ、旋回していた。
鋭利な眼光が街をえぐるように走らせている。
やがて、エレオノールの気配を掴めず苛立ったのか、鉤爪が弾けるように振るわれ、風が凶器へと変わった。
五、六発の風の刃が、街へ無差別に叩き込まれる。
建物の壁が裂け飛び、窓ガラスが雨のように砕け散る。
石畳から砂塵が噴き上がり、悲鳴と怒号が混じった混乱が一帯を包んだ。
ヒポグリフはなおも上空で旋回し、獰猛な気配だけを街に押しつけていく。
だが標的を見つけられぬまま、ひときわ鋭い咆哮を残すと、風を裂いて飛び去った。
残されたのは、裂かれた街並みと、凍りついた住民たちの沈黙だけだった。
ヒポグリフが再び現れた――いよいよ決行は明日である。
夕刻。
作戦を控えた静寂な部屋の中で、ヴァンサンはひとり、指先に力を込めた。
大盾の縁がわずかに軋む。そのわずかな音が、胸の奥に沈めてきた記憶を呼び起こす。
ルゼル家は華やかさとは無縁の騎士の家系であり、ヴァンサンもまた同じように育ってきた。
剣を磨き、誉れより務めを重んじ、“王都の無事”という誰にも気づかれぬ日常を守るために生きる家系。
幼い頃のヴァンサンも、当然のようにそれを受け入れてきた。
十歳のあの日、父が護衛していた馬車に大盗賊団が乱入した。
父は仲間を庇って重傷を負い、護衛対象も負傷し、退役を余儀なくされた。
どれほど立派な戦いであっても、たった一度の「守れなかった」という結果が親友の死と不当な批判が父に降りかかり、本来受けるはずの受勲さえ奪っていった。
――それでも、父の心が折れたわけではなかった。
しかし、二度と剣を握れなくなったその手だけが、すべてを物語っていた。
あの時、誓った。
俺は父を越えてみせる。
守れなかったと悔い、その重荷を一生背負わされる者を、二度と生ませない。
だからヴァンサンは剣ではなく大盾を選んだ。
父が庇おうとしたものを、すべて受け止めるための盾を。
誰より重い盾を構え続け、時にそれを武器とし、“盾で道を切り開く”ための技をすべて叩き込んだ。
デュラン団長に「お前の盾は王の背を守れる」と言われた日の誇りは、今も胸に灯っている。
すべては、明日の一戦のためにある。
今回の作戦は、エレオノールが囮となり、エレオノールを決して傷つけぬ“盾”が戦線の要になる。
成否は、ヴァンサンがどこまで耐え、どこまで守れるかに懸かっている。
エレオノールは無謀で、迷わず、誰かのために前へ出る。
その背中は、かつて父が守ろうとした光とまったく同じだ。
その眼差しは、かつて父が退役して生活に窮した時に手を差し伸べてくれた騎士たちの光と同じだ。
世界は優しいと、将来は変えられると信じられる光だ。
だからこそ、この盾に己のすべてを込める。
あの日の誓いと、この胸の光だけは揺るがない。
ヴァンサンは深く息を吸った。
座したまま大盾を抱き寄せ、わずかな眠りに身を委ねる。
明日の決戦で、そのすべてを振り絞るために。
翌未明。
エレオノールたちは予定通り行動を開始した。
馬車にエレオノールが乗り込み、ヴァンサン、アルマン、リュシール、マリアンヌの四人が周囲に散開して警戒を固める。
進路はウスター方面。
ヴァンサンは無言で周囲に視線を走らせ、アルマンは弓弦を軽く引いて張り具合を確かめる。
リュシールは背負った改造装置のベルトを締め直し、マリアンヌはリュシールの後ろでその装置の起動を確かめていた。
全員が、これからの戦いを覚悟していた。
夜明けが近づく頃、一行は目的地の手前で馬車を停めた。
合図ひとつで、アルマン、リュシール、マリアンヌが同時に動く。
音を殺し、呼吸すら抑え、馬車を林の奥へと押し込む。
枝葉が擦れる音さえ許されぬまま、三人は濃い木立の影に溶けた。
街道に残されたのは、ヴァンサンとエレオノール、ただ二人。
薄靄が地表を這い、冷えた空気が足首に絡みつく。
音は、消えていた。
風も、虫の声もない。
あるのは、張りつめた緊迫だけが、空気そのものになったような静寂。
やがて、東の地平が淡く紅を帯びると空気が軋んだ。
遠方から迫る、低く重い唸り。
朝焼けを裂く影が現れる。
ヒポグリフだ。
朝焼けを背に、巨翼が空を打つ。
遠方の影は、翼が動くたびに輪郭を増し、確実に距離を詰めてくる。
黄金の瞳が、進路の先を外さない。
エレオノールを捉えたまま、離れない。
迫る最中、ヒポグリフは前脚を持ち上げ、鉤爪を振り抜くと空が鳴いた。
目に見えぬ風の刃が解き放たれ、空気を裂きながら真っ直ぐに落ちてくる。
裂けた空が、細く白く歪む。
ヒポグリフは翼を畳むと、その歪みを追うように高度を落として滑空してきた。
突き出された鉤爪が、先に走った風の刃の軌跡をなぞり、裂け目の奥から一気に迫る。
その動きに、ヴァンサンの顔色が変わる。
「学習している!? こいつ、前回の我々の攻撃を真似たのか!」
ヴァンサンは叫ぶと同時に、大盾を構えてエレオノールの前へ躍り出た。
空が裂け、風の刃が叩きつけられる。
大盾が悲鳴を上げ、金属が震え、火花が爆ぜた。
間髪入れず、影が落ちる。
鉤爪が盾を打ち、その衝撃が、骨の奥まで突き刺さる。
「ぐあっ……!」
歯を食いしばって踏みとどまろうとするが、巨獣の質量は、人の抵抗を許さない。
ヴァンサンの身体は後方へ押し流されるように吹き飛ばされた。
地面を削り、転がり、ようやく動きを止める。
ヒポグリフは再び高空へと舞い上がった。
街道に残されたのは、エレオノールただ一人。
見上げた視界の先で、朝空に浮かぶ巨体が小さく揺れている。
ヒポグリフの勝ち誇った咆哮が響き渡る。
再度、滑空を始めたヒポグリフの翼が陽光を遮り、エレオノールを目掛けて迫ってくる。
「――『煉溺焼夷弾』!」
エレオノールの掌に凝縮された焔が脈打ち、轟音とともに放たれる。
だが、ヒポグリフは動じない。
想定内だと言わんばかりに滑空を止め、翼を広げて風の渦を生じさせる。
その瞬間。
空中の巨体が、不意に、わずかに沈む。
翼の下の空気の流れが乱れ、支えられていたはずの浮力が一瞬だけ抜け落ちた。
地上では林の陰からリュシールが姿を現していた。
前方へ向けたノズルの先から『息吹風』が一直線に解き放たれている。
同時に、背負った〈改造フロア・クリーナー〉が唸るように動き、上部の大きな開口が、上空の空気を一気に吸い込んでいた。
空を掴んでいたはずの翼面が、一瞬、何も掴めなくなる。
ヒポグリフの巨体が、落下しかけた。
しかし、ヒポグリフは崩れた姿勢のまま翼を強く打つと、強化された風の渦が生まれ、正面から飛来した『煉溺焼夷弾』を掻き消した。
――その刹那。
空気の流れが反転する。
リュシールが〈改造フロア・クリーナー〉を停止させ、ノズルを上空に向けた。
下降気流が逆転し、地面から鋭い旋風が吹き上がる。
その風に乗り、一本の矢が――異様な速度で跳ね上がった。
視界に入った時には、すでに遅い。
矢は、ヒポグリフの片翼を貫いた。
体勢が、完全に崩れる。
巨体が空中でよろめき、必死に視線を地上へ向ける。
その先には、リュシールの隣で弓を引き絞る影。
アルマンは、二本目の矢を放つ。
「よしっ!」
矢は反対側の翼を貫き、血飛沫が朝の光の中で弧を描いて散った。
ヒポグリフはなおも風の渦を纏い、空中で姿勢を立て直そうとする。
しかし、裂けた両翼と、再び下降気流に変わった空気の流れが、それを許さない。
巨体は、回転しながら――
そのまま、地面へと落下していった。
「今ですわ!」
エレオノールの声が、鋭く走る。
駆け出すエレオノールの先で、アルマンが地面に掌を伏せた。
「深壌に根付く土の精霊よ。我が全魔力をもって加護を求めん。大地を解し、粒へと還元したまえ、『地砕罠』!」
魔力が地中へ流れ込み、地面が内側から応えた。
表層だけではない。
踏み固められていた層、その下、そのさらに奥まで。
街道一帯が沈み込みながら、形を失っていく。
大地は崩れ、広い範囲が砂へと変わった。
そこへエレオノールがアルマンの隣に駆け寄ると、同じように地面へ掌を伏せる。
「静寂に宿る水の精霊よ。その滴を束ね、大地を潤したまえ、『散水華』!」
一気に水が砂に沈み、一帯は一瞬で粘りを帯びた泥沼へと変貌する。
そこへ。
落下してきたヒポグリフの巨体が、頭から叩き込まれる。
泥が大きく跳ね上がり、次の瞬間には、頭部から、胴も翼も、柔らかな沼に呑み込まれていった。
ヒポグリフはもがく。
翼を打ち、胴を震わせ、引き抜こうと力を込める。
だが、力は行き場を失う。
踏ん張る場所も、押し返す壁もない。
泥は形を持たず、押せば押すほど流れ、掻けば掻くほど身体の隙間へ入り込んでいく。
やがて、表面にあった波紋さえ消え、ヒポグリフの姿は完全に泥の下へ没する。
それを見届けたエレオノールは、息を整え、片手を掲げた。
「紅蓮に息づく火の精霊と静寂に宿る水の精霊よ。灼熱の力をもって水の理となり、滴る焔を織りなし我が掌に満ちよ。満溢は奔る炎滴となり、すべてを紅き沼に沈めたまえ、『煉溺焼夷弾』!」
火球が泥沼に落ち、爆ぜるような音が響く。
水分を含んだ泥が赤く染まり、沼全体が湯気を噴き上げながら重い蓋のように締まっていく。
しばらく、地中から鈍い振動が伝わっていたが、それも次第に弱まり、やがて完全に途切れた。
内部で蠢いていた気配は消え、炎が収まるころには、沈黙だけが残されていた。
エレオノールは静寂に勝利を確信すると、ふうっと小さく息を吐き、馬車の荷台へ向かった。
スコップを引き抜きながら振り返ると、林の陰から次々と仲間たちが姿を現す。
ヴァンサンは泥で汚れた大盾を杖代わりにし、膝に手をついて荒く呼吸を整えていた。
アルマンは弓を肩に下ろし、その場にしゃがみ込むようにして額の汗を拭う。
マリアンヌは胸に手を押し当て、震える息を整えながら空を見上げる。
リュシールは背負った装置を下ろし、その場にへたり込みそうになりながらも、安堵の笑みを浮かべた。
「本当に、倒した……んですよね……?」
マリアンヌの声が震える。
恐怖が完全には抜けきらないまま、それでも現実を確かめるような問いだった。
「作戦通り、ですね。マリアンヌ殿の作戦、お見事でした」
アルマンは泥だらけの手で頬を拭い、弓を強く握り直す。
その指先には、ようやく実感が宿り始めていた。
「ただの『息吹風』にこんな使い方ができるなんて……」
リュシールは背筋を震わせながら、装置を抱き寄せるように撫でる。
恐怖と達成感が、まだ整理しきれないまま混ざり合っていた。
疲労と安堵、そして「生きている」という実感。
三人の表情は戦闘の余波に揺れながらも、作戦成功という事実を噛みしめるように、少しずつ笑みへと変わっていく。
しかし、ヴァンサンだけは、肩で荒く息をしながら、ヒポグリフが沈んだ泥沼を睨み続けていた。
「エレオノール様。お守りすることができず、御身を危険にさらしてしまい申し訳ありませんでした。一生の不覚です……」
視線を外さぬまま、唇を噛みしめる。
胸の奥で、十歳のあの日の光景が――勝手に蘇った。
(――また、同じだ)
その思考を断ち切るように、エレオノールは穏やかに首を振る。
「いいえ。違いますわ、ヴァンサン。私は、ここに無事に立っています。それは“守られた”ということですわ」
柔らかな声で、しかし迷いなく続ける。
「あなたが、私を守ってくださったのですわ」
ヴァンサンは、一瞬、言葉を失った。
“あなたが守った”――その事実が、主の言葉によって確定される。
ヴァンサンはゆっくりと向き直り、片膝をつく。
「エレオノール様が“守られた”と仰るなら、私はその事実に命をかけて応え続けます。次は危険が触れる前に、すべてを退ける。そのために、この盾も、この身も、エレオノール様に捧げます」
エレオノールは、その誓いを受け取り、頷いた。
そして次の瞬間――
その瞳に、先ほどとは明らかに異なる輝きが宿る。
「さて……ヒポグリフは、泥蒸しになってしまったかしら?」
うっとりとした笑みを浮かべ、弾むような声で言った。
「さあ、掘り起こしましょう。血抜きしますわよ」
仲間たちが、まだ安堵の混じる息を整えている中で。
エレオノールだけが、スコップを手に、まるで“待ちに待った時間”が訪れたかのように、ひときわ軽やかだった。




