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お嬢様Saga:ドラゴン肉のポワレ〈焦がしバター〉 狂食淑女の微笑みを添えて  作者: 財務白関
第1章:お嬢様、ドラゴンにフォークを突き刺す

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1話「新たなる炎」

王都ヴァロリアの夕暮れは、柔らかな光を帯びながら街を包み込んでいく。

石畳の道も、尖塔の屋根も、淡い琥珀色に染まり、昼の喧騒は次第に遠のいていた。


王宮から西へ、馬車で二日。

緩やかな丘陵に寄り添うように建つラ・ロシュ公爵家の館では、夕刻になると決まって厨房から温かな香りが満ち溢れる。


甘く、芳醇で、鼻の奥へとゆっくり絡みつく深い匂い。

熟した果実と溶けたバターを重ね合わせた濃厚さが、宵の空気に溶け込み、館全体を優しく包み込んでいた。


中庭に面した広大な厨房では、磨き上げられた銅鍋が残照を受けて赤く輝き、包丁の刻む音が規則正しく響いている。

竃の奥では、骨付き肉が天板に据えられ、火の加減を受けながら、ゆっくりと焼き色を深めていた。


その傍ら、低い火にかけられた鍋の中では、肉汁と香味野菜がゆっくりと溶け合っている。

木匙で底を払うたび、濃密な香りが立ち昇り、湯気が鍋の縁を撫でていく。


ときおり竃から天板が引き出され、焼き色を纏った肉から滲み落ちる旨味が鍋へ注がれるたび、香りはさらに深く、艶やかに重なっていった。


その中心で、揺らめく炎の前に立つのは、純白のコックコートに身を包んだ一人の少女。


白磁のように滑らかな肌。

高く結い上げられた金髪は夕陽を吸い、蜂蜜色に煌めきながら背後の影を淡く照らす。

その佇まいには、長い年月をかけて磨かれてきた静かな気品が宿っていた。


「よし、できましたわ。《骨付きドラゴンのロティ ジュソースを添えて》と名付けましょうか」


こぼれ落ちた声は鈴の音のように涼やかだが、鍋を覗き込む青い瞳には近ごろ赤の色が差し、氷底を覗くかのような鋭さを宿っている。

結い上げた髪の頂には、整えきれぬ一本の毛が、わずかに立ち上がっていた。


彼女の名は、エレオノール・ド・ラ・ロシュ。

名門ラ・ロシュ公爵家の長女にして、この国で知らぬ者のない“グルメお嬢様”である。


焼き上げられた料理から漂う香りは、香草と肉の脂が溶け合った重厚で奥行きのあるものだった。

エレオノールはその芳香を確かめるように深く息を吸い込み、満足げに唇をほころばせる。



「お待たせいたしました。エレオノールお嬢様がお作りになられた《骨付きドラゴンのロティ ジュソースを添えて》でございます」


給仕の手によって、皿に盛られた料理はグレート・ホールへ運び込まれる。

用いられているのは、二十日前――雷鳴が夜空を裂いた夜に“空から落ちてきたドラゴン”を解体した肉だ。

地下の貯蔵庫〈ケーヴ〉に眠らせた在庫も、すでにかなり目減りしている。


皿の上で黄金色に輝く焼き目と、骨付きの堂々たる姿。

香ばしい香りがふわりと広がると、三人の視線が抗いがたくそこへ吸い寄せられる。


「まったく、公爵の娘が厨房に立つなんて。火傷でもしたらどうするの。貴族にとって、手も顔も宝なのですよ?」


ため息を混ぜながら言うのは、母のアデル・ソフィー・ド・ヴァンドーム。

呆れと心配が、ちょうど半分ずつ溶け合った声音である。


「まあ、お母様。でしたら、無理に召し上がらなくてもよろしいのですよ?」


すでにコックコートを脱ぎ、ペールブルーのホームドレスで席についたエレオノールが涼しい顔で返した。


「そういう意味ではありませんよ」


口では窘めながらも、アデルの視線は皿のロティから離れない。


「はっはっは。このドラゴンの肉も見事だが、何といってもレアの料理は世界一だからな」


朗らかに笑ったのは父のギヨーム・エティエンヌ・ド・ラ・ロシュだ。

狩猟を好み、獲物の解体まで自ら行う豪胆な男である。


ラ・ロシュ家の狩猟地には、山牛や大猪といった大獲物を捌くための施設――太い梁や滑車、吊り下げ用の鉄杭――が備わっていた。

公爵家にとって狩猟は伝統であり、ギヨームは若い頃からそれらを使い慣れている。

エレオノールも幼いころからギヨームに付き添い、獲物を共に捌き、料理して育った。


給仕が皿を三人の前へ置くと、熱に揺らぐ香りがいよいよ濃く立ち昇った。

外側は香ばしく、内側はしっとり。

皿の上のロティは、まるで芸術品のように気品を放っている。


「それではいただこう。私たちの心と体を支える糧と、七精霊様の祝福に感謝して」


ギヨームの言葉に合わせ、アデルとエレオノールも両手を組む。

三人はそろって瞼を閉じ、短い祈りを捧げた後、緩やかに視線を食卓へ戻した。


ギヨームがナイフを取り、骨付きロティへそっと刃を入れる。

力を込めると、刃先の下で肉が柔らかく沈み込み、 “じゅわっ”と透明な肉汁が溢れた。

それが光を受け、宝石めいて瞬く。


ひと口。

まず広がるのは、香ばしい脂の甘み。

肉の繊維がほろりと解け、旨みが舌に染み渡る。

続いてハーブとにんにくの柔らかな香りが鼻を抜け、深い余韻を残して消えていった。


「ううむ、たまらない味だ」


ギヨームの口元が綻ぶ。


「このジュソースも絶品よね」


アデルも満足げにスプーンを運び、言葉を重ねた。


「バターのまろやかさと白ワインの酸味、そこにマスタードのほのかな刺激。ロティの旨味が和音のように広がるわ」


「そう言っていただけて嬉しいですわ、お母様」


エレオノールも静かにナイフを入れ、一口味わう。

そっと口に運んだ瞬間、舌の上で肉がふわりととろけた。


清らかな旨味が広がり、奥底から命の火を思わせる熱が、じんと湧き上がってくる。

噛むほどに滋味が波のように寄せては返し、体の芯にゆっくり沁み込んでいく。


肉は柔らかいのに確かな弾力があり、歯が繊維を断つたび、ひそやかな抵抗が解けていく。

そのたびに香りと熱が一気に溢れ、舌の上に残る脂の甘さが、まるで唇を撫でるようにまとわりついた。

喉の奥を通る瞬間さえ、心地良い。


(――これですわ。これが“命の旨味”。(わたくし)が今までずっと探していた、本物の味)


ドラゴンは何度も食べている。

それでも胸の奥が震え、フォークを持つ指がわずかに揺れた。

噛むたびに、熱と旨味の奥から、金色の煌めきのような余韻が緩やかに広がっていく。


それは、ただの美味ではない。


口の中で解けた命が、体の深いところへ指を差し込むように入り込み、心臓の鼓動さえ甘く掴んでくる。

さらに奥では、熱を孕んだ余韻が低く脈打ち、輪郭のない快感となって、内側をなぞるようにゆっくりと広がっていく。

抗う間もなく、意識の縁までとろりと溶かされていく感覚だった。


食べ終えるころには胸の内がじんわり温まり、まるでドラゴンの心臓の火を分けてもらったかのように体が満たされていた。


それは満腹とは違う。

血に溶けた熱が腹の底まで落ちていき、奥の奥で静かに花開くような――危うい陶酔だった。


-----


その夜、館の裏門から抜けた私有林。

公爵家の狩猟地として守られてきたこの森は、人の手が入る区域と、原生そのままの区画が入り混じっている。

すでに鳥の声もなく、耳に残るのは風の唸りと葉擦れの乾いた声だけだった。


日課の魔法鍛錬に、今日はダミアス・ド・モンルヴィエが立ち会っていた。


元王立学術院長の老学者。

今は若手に椅子を譲り、指南役として古き魔法の叡智を抱え続ける人物である。

その自由の身をもって、エレオノールの魔法教師も務めていた。


痩せた長身を古めかしいローブに包み、細い眼差しの奥には冷えた光が揺れる。


この時代、人々が扱う魔法は、火を起こし、畑を潤し、風を吹かせる程度に限られていた。

戦場で人を焼き、モンスターを屠る魔法などは、伝承にしか残っていない。

ゆえにダミアスは、古の戦闘魔法を知る唯一の存在と言って良かった。


「本日は私に見せたいものがあると伺って参りました、エレオノールお嬢様。それにしても、お嬢様はますますお美しくなられましたな。神々しいとはこのこと。まことに目を奪われるばかりです」


「まあ。ありがとうございます、ダミアス先生。先生もお変わりなく、お元気そうで何よりですわ」


エレオノールは微笑み、そして淡々と言った。


「それで先生、(わたくし)、新しい魔法を開発しましたの」


「……魔法を、開発した?」


眉が僅かに動く。


新しい魔法という言葉は理解できる。

だが、“開発した”という響きが理解できない。


エレオノールが扱えるのは水を撒くだけの魔法『散水華(アロゾワール)』のはずだ。

それが変化するのだろうか?


「ええ。ドラゴンをいただくようになってから火魔法が使えるようになりましたので、組み合わせてみましたの」


まるで新しい茶葉を見つけた、とでも言うような口調でエレオノールは続ける。


「あそこの石壁に打ちますので、ご覧いただけますか?」


「ドラゴンを食べた……? 火魔法を……?」


ダミアスの背に冷たいものが走った。

ラ・ロシュ公爵と令嬢がドラゴンを討伐した報告は、すでに御前会議で共有されている。

その席で、現王立学術院長が「ドラゴンを食した者がいる」として追及したという話も耳にしている。


もし、それが事実なら。

食したのは――目の前の令嬢だ。


モンスターを食するなど禁忌。

まして公爵家の令嬢が関わるなら、当主が知らぬはずがない。

つまり公爵は――理解した上で許したというのか。


さらに、水魔法しか使えぬはずの少女が火魔法を扱う?

人は生まれつき一属性。

それは魔法を扱う者すべての常識であり、例外は一度もなかった。

理論上も不可能と断じられている。


――あり得ない。

あり得ないはずだ。


(後で聞く。丁寧に。確かめる。……だが今は)


ダミアスは視線を追った。

そこには、距離を隔てて分厚い石壁が鎮座している。

表面は焼け焦げ、周囲の地面が禿げ上がっているが、何があったのだろうか。


「……わかりました、エレオノールお嬢様。拝見いたしましょう」


エレオノールは頷き、一歩前へ。

両足を肩幅に開き、両手を胸の前に突き出す。


息を吸う。深く。

森が沈黙する。

風の音さえ、一瞬、遠のいた。


「――紅蓮に息づく火の精霊と静寂に宿る水の精霊よ……」


詠唱が始まると、両手の間に細い炎と水の糸が生まれた。


触れ合った刹那、ジューッ、と白煙が噴き上がり、空気が震える。

熱と冷気が同時に押し寄せ、肌がぞわりと粟立った。


「灼熱の力をもって水の(ことわり)となり――」


二つの糸は渦を描き、波打ち、絡み合いながら膨張していく。


火と水を同時に扱うなど、あり得ない。

理論は否定する。だが、目は否定できない。


ダミアスは息を止めた。

背筋の奥で、本能が警鐘を鳴らす。


「滴る(ほのお)を織りなし、我が掌に満ちよ……」


渦は球へと育った。

丸グラスにワインを注ぐように、赤と蒼が混ざり合い、内部で暴れるように脈打つ。

火が濡れた獣のように唸り、水が刃のように鳴いた。


満溢(まんいつ)は奔る炎滴となり、すべてを紅き沼に沈めたまえ――」


球体が完全な真円へと整った瞬間。


「『煉溺焼夷弾(ブール・ド・フー)』!!」


エレオノールの両掌が突き出される。

限界まで込められた力が解き放たれ――


空気を引き千切る音。

炎球は矢のように、一直線。

影すら裂いて、石壁へ――


着弾。


音より先に衝撃が叩きつけられ、地面が跳ね、視界が崩れた。

遅れて爆鳴が追いすがり、夜の森を引き裂く。

さらに熱波が遅れて襲い掛かり、ダミアスは反射的に腕で顔を覆い、身を低くした。


「う……うぉっ……!」


皮膚が焼かれる錯覚。

髪が、眉が、燃える気がする。

肺に吸い込まれる熱が喉を刺し、呼吸さえ奪っていく。


爆炎の轟きが収まりはじめた頃。

ダミアスは恐る恐る腕の隙間から前方を見た。


石壁が――赤い。

表面が融け、滴り、赤熱している。

巨大な焼き窯の奥のように石が灼けて光り、周囲の地面はバチバチと音を立てて爆ぜていた。


「な……っ……これは……!」


声を上げたつもりが、喉は震えるばかり。

言葉は形を失い、恐怖だけが残る。


その熱風の中で。

エレオノールは微笑んだまま、スカートの裾を押さえて優雅に振り返った。

まるで舞踏会で一礼するように。


「ダミアス先生。この『煉溺焼夷弾(ブール・ド・フー)』、いかがかしら?」


唇の端に、自信と期待が入り混じる笑み。

高く結い上げた髪の頂で、整えきれぬ一本が、熱風に煽られながらも奇妙に揺れている。


燃え盛る世界と、微笑む淑女。

その並びが、何よりも異様だった。


「こ、この魔法……お嬢様、あなたは一体何を――」


ようやく絞り出した問いに、エレオノールは答えた。


「この魔法で西の大陸アメリに行って、モンスターを狩って食べるのですわ」


瞳が、冷たい。

同時に、燃えていた。


“命の旨味”を求め続ける美食家の狂気を秘めた、青と赤のグラデーション。


ダミアスは息を呑んだまま、ただその瞳を見つめるしかなかった。

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