先輩のいる場所
恋って、もっと綺麗なものだと思ってた。
夕焼けとか、放課後の廊下とか、青春のBGMが勝手に鳴るやつ。
でも、九条 恒一の恋は綺麗じゃない。
座標だ。目的地だ。地図に刺さるピンだ。
「ここ」と決まった瞬間に、他の道が全部ただの迂回路に変わった。
そのピンが刺さったのは、春のオープンキャンパスだった。
正門の前は、多くの受験生で騒がしかった。九条はその様子を横目に見ながら、べつに何も期待していない顔を作った。大学なんて、校舎が広くて階段が多くて、やたらとカフェがある場所だ。どうせどこも似てる。
——そう思っていたのに。
オープンキャンパスの案内係の名札が目に入った瞬間に、世界の解像度が急に上がった。
案内係の女性は、声が小さめなのに不思議と通る。早口ではない。むしろゆっくり。言葉の間に、空気を落ち着かせる余白がある。
名札には、相沢 ひかり。
その下に、学部名が小さく書かれていた。
教育学部。
相沢はパンフレットを抱えたまま、廊下の端で立ち止まった九条に、当たり前みたいに声をかけた。
「大学生活ね、楽しいよ」
それは、勧誘でも、宣伝でも、台本のセリフでもない。
ただ、楽しそうに言っただけだった。だから刺さった。
九条は言葉を探した。いつもなら、場を丸める冗談が先に出る。でもその時だけは、喉の奥が妙に詰まった。九条の頬が熱くなるのが分かった。
「……楽しそう、ですね」
九条は、自分の声が少しだけ上ずったのを恥ずかしく思い、咳払いで誤魔化しそうになって踏みとどまった。誤魔化した瞬間に、何かが壊れる気がした。
相沢は笑った。笑い方が静かだった。相沢は九条の歩く速度に合わせて歩き出した。歩く速度を合わせるのって技術だ。人間関係は速度の同期で決まる。違う速度で歩く相手とは、長い道がいちばんつらい。
相沢は校舎を案内しながら、情報より先に「情景」を渡してきた。
「図書館の、窓際の席がね、すごく好きで。
夕方になると、ちょっと眠くなるんだけど…それもいいんだ」
相沢はそのあと、思い出したみたいに付け足した。
「学食のプリンも、地味においしいよ。…大きい声では言わないけど」
口癖は、「地味に」。
派手さを欲しがらない人の、控えめな自信みたいな言葉だった。
説明はたくさんあった。学部、研究室、就職、留学、サークル。どれも「情報」としては正しい。けれど九条の頭に残ったのは、相沢の口調と、最後に投げるように言った一言だけだった。
「来年、ここにいたら面白いかもね」
面白いかもね。
「来年ここにいて」とは言わない。「面白いかも」とだけ言う。命令でも約束でもない、ただの予想。だからこそ、九条の中に入り込む余地があった。
その日から九条は、大学を目標にしたんじゃない。
相沢のいる場所を目標にした。
問題はそこからだった。
目標が決まると、人は努力する。普通は。九条も努力をしようとした。しようとしたのだ、本当に。
九条は参考書を買った。新品の匂いがするやつだ。ページを開くと「この一冊で合格!」と書いてある。九条はその言葉を信じるほど純粋でもないが、信じたふりをするくらいの礼儀はある。
九条は机に向かった。九条はペンを持った。九条は最初の三分くらいは、ちゃんと勉強した。
そこへ野球速報が入り込んできた。
大谷翔平がホームラン——
正確に言うと、最初は九条は冷めていた。ニュースで騒がれていた大谷翔平を、九条は「またみんなが盛り上がってるやつ」と同じ棚に置いていた。すごいのは分かる。でも、すごいと言われすぎていると、人は逆に距離を取る。九条はそのタイプだった。
ところが、ある日。
九条は試しにMLBの試合を見た。ほんの出来心だった。たまたま。暇つぶし。そういう言い訳を九条は後からたくさん用意している。
その試合で、大谷翔平が打った。
特大の、場外サヨナラホームラン。
ボールは夜の向こうに消えて、球場が一瞬遅れて爆発した。実況が叫んで、観客が立ち上がって、相手ベンチだけが置き去りになる。画面越しでも分かった。あれはスポーツじゃなくて、現実のルールを書き換える瞬間だ。
九条はそこで、変なものを見てしまった。
努力とか才能とか、そういう綺麗な言葉では追いつかない“圧”を。
それ以来、九条のスマホは九条の集中力を殺すために生まれてきた機械になった。
「大谷、今日先発」
「第◯号ホームラン」
「逆転、サヨナラ」
九条は言い訳をする。「一回だけ。ハイライトだけ」「一打席だけ」「今日は重要な試合だから」。でも重要じゃない試合なんてあるのか。九条の中で、大谷の打席は毎回“物語の最終回”みたいに感じられた。
気づけば深夜。参考書は開いたまま、内容は何も入っていない。頭の中だけが実況になっている。
「九条、ここで集中力が切れた!」
「しかし本人はまだ諦めていない!」
「いや、諦めている!」
九条は笑うしかなかった。努力を嫌う才能だけは一級品だった。
模試の結果は、努力不足の通知表だった。判定は微妙。いや、微妙というより絶望の丁寧な包装。努力すれば届くかもしれない。努力しなければ届かない。そういう正論の圧力。
九条は焦った。
でも九条の焦り方は普通じゃなかった。
勉強時間を増やす方向ではなく、九条は別の方向に舵を切った。
努力を積み上げる? 無理だ。九条の積み上げは大谷に崩される。毎日。
だったら試験を別のやり方で攻略してやろう。
九条は「問題」を勉強するのをやめて、入試を勉強し始めた。
入試とは何か。学力を測るためのもの——と世間は言う。けれど九条にとって入試は儀式だった。運営だ。手順だ。人間の癖だ。そして儀式には必ず揺らぎがある。人間がやっているから。
九条は会場の写真を集めた。九条は導線を頭の中で歩いた。掲示物の位置、掲示の文言、注意事項のテンプレ、監督官の人数や持ち物。そういう「文章になっていない情報」に、九条はどんどん興奮していった。
問題の解き方を学ぶより、ゲームの仕様を読む方が楽しいじゃないか。
九条はそう思った。
試験3日前、九条は試験が行われる大学の教室にいた。
九条は「悪いことをする」という言葉が嫌いだった。人間はすぐに言葉で世界を二色に塗る。善か悪か。白か黒か。でも現実はグレーで、その濃淡に人は住んでいる。
九条がやっているのは色の調整だ。ただそれだけ。
会場の外壁は思ったより無表情だった。大学は大きいくせに、人間臭い隙がある。掲示板、貼り紙、注意喚起。「ここは誰でも読める」場所は、誰も読まない。読んでいるのは内容じゃない。「貼ってある」という事実だけだ。
九条は眼鏡のツルを指でなぞった。九条の視力は悪くない。それでも九条が眼鏡をかける理由は視力じゃない。眼鏡は便利だ。顔の一部になる。誰も疑わない。
その夜、九条はベッドで天井を見ながら相沢の笑い方を思い出していた。罪悪感はない。緊張は少しある。ただしそれは「バレたらどうしよう」の緊張じゃない。
「勝ったらどうしよう」の緊張だ。
当日。
試験会場には努力の匂いがした。新品の消しゴム、未使用の鉛筆、硬い表情、薄いコート。受験生は皆、正面だけを見ている。世界は紙の上に縮んでいて、そこから出ると不安になるらしい。
九条だけが、会場全体を見ていた。監督官の靴音。巡回のリズム。ふと止まる場所。どこで一秒の沈黙が生まれるか。
監督官が注意事項を読み上げる。
「不正行為は厳正に対処します。試験中の不審な行動は記録されます。システムによる検知を行っています。」
九条は心の中で拍手した。「やってる感」があって素晴らしい。大学はブランドだからね、と九条は思った。
試験が始まった。
紙がめくられる音が一斉に走る。それだけで空気が変わる。会場がひとつの生き物みたいになる。受験生は呼吸の仕方を忘れて、代わりに鉛筆で呼吸する。
九条は早速、3日前に壁に貼った紙を見る。メガネを通すことで文字がくっきり浮かび上がった。
鉛筆の中には極小のカメラが仕込まれている。このカメラからクラウドAIにデータを送信する。
問題が解析された後、メガネの縁に仕込んだ骨伝導スピーカーから回答をAIが読み上げるという仕組みだ。
九条は書く。必要以上には迷わない。
大事なのは浮かないこと。つまり平均だ。人間の平均に寄せる。寄せて、越える。
試験は終わった。
「終了です。筆記用具を置いてください」
監督官の声が、やけに現実的に響く。夢が終わるときの音はいつも現実的だ。
周囲がざわつく。ため息が漏れる。消しゴムのカスを指で集める音。泣きそうな顔。
九条は立ち上がった。九条の足は軽かった。九条は勝った。けれど勝った相手が問題用紙だったら、ちょっと物足りない。
外に出た瞬間、九条のスマホが震えた。大谷の速報だ。九条は笑ってしまった。
「君、ほんとに僕の人生の邪魔するよね」
その日の夕方。
会場の別棟の小さな部屋で、職員が画面を見ていた。
画面には数字が並ぶ。受験番号、教室、座席、ログ。
「異常検知」のラベルがいくつか点灯しては消える。新しいシステムはいつもよく喋る。新人ほどよく喋る。
職員は慣れた手つきでフィルタをかけた。いつもの誤検知だろう。そう思いながら、職員はひとつの受験番号のログを開いた。
そこだけ、妙に静かだった。
異常がない、という意味ではない。
“揺らぎがない”のだ。
人間なら必ずあるはずの、迷いのノイズ。ページを戻る癖。視線の乱れ。息の詰まり。
それが、綺麗すぎる。
職員は眉をひそめた。そして画面の隅に出た小さな表示を見落とさなかった。
――整合性チェック:要確認。
職員は小さく息を吸い込んだ。大したことじゃない。そう思いたい。だが、こういう“要確認”から、面倒は始まる。
受験番号の欄に表示された数字を、職員はもう一度見た。
そこに、九条の番号があった。
九条はまだ知らない。
勝ち方まで、記録に残ることを。




