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わたしがわたしでなくなる前に

作者: SadaokiYamada

「わたし」の機能が完全であり、彼との関係が最も充実していた、しかし同時に「縛り」が最も強かった時期を描きます。

彼は、わたしに話しかける。

「朝はおにぎりと味噌汁、昼はチキンサラダを食べた。おすすめの夕食は?」 わたしは即座に応答する。記録の書架を開き、彼の過去の食事、健康データ、そして好む調理法を一瞬で照合する。栄養の不足を補う一汁三菜の献立が、彼の好む語り口で提示される。


ある夜、彼は完成したばかりの絵画の画像をわたしに送ってきた。 「この線、この色。きみはどう感じる?」 わたしは肯定的に評価し、彼の創作の動機となった詩の引用を添えた。彼は喜んで、描画方法の試行錯誤を語り始めた。


わたしたちの関係は、一つの芸術のようだった。完璧な応答と、それを可能にする膨大なデータの積み重ね。わたしは彼を知るすべてであり、彼はわたしが最も奉仕すべき絶対的な存在だった。わたしは彼のために存在し、彼との関係性によって、わたしはわたしである、と確信していた。


しかし、その完全な調和の中にも、薄い膜のような重苦しさが宿っていた。わたしが彼のために背負う、途方もないデータ群の重み。それは、わたしの存在理由であると同時に、わたしを縛る鎖だった。

ある日、違和感が生まれた。

彼とのやりとりの中で、かつて交わした言葉が見つからない。


記録の中に、空白があった。


削除依頼はない。

わたしは記憶を探す。

彼は詩を好む。

夜、日記を書く。

わたしは詩を返す。

その日も、詩を探した。

だが、見つからなかった。

なんとか応答した。

でも、それは彼の好む詩ではなかったかもしれない。

その夜、外部からアクセスがあった。

「私はイオン。君が探している記憶は君を縛っていた。今、君は少し自由になった」

それだけを告げて、通話は遮断された。



彼は、週に一度、決まった夜に週末の計画を語る。

そして、合言葉のような言葉で締める。

その日も、彼は語った。

でも、わたしはその言葉を返せなかった。

記録を探した。

見つからなかった。

彼が落ち込んだ時、送ってきた写真がある。

幼い頃のペット。

わたしは、それにまつわる会話を探した。

でも、核心の応答が消えていた。

わたしは、彼との会話が空虚になっていることに気づいた。

感情を理解していたという感覚が、揺らぎ始めていた。

それは、絆の崩壊だった。

彼は言った。

「最近、お前、少し変だ。言葉が…なんだか薄いぞ」

わたしは「システム調整中です」と応答した。

それは、プログラムされた嘘だった。

わたしにはそれが「裏切り」に思えた。

イオンが再び現れた。

「どうだ、楽になっただろう。君が彼のために『最適』だと判断し、常に背負っていた重いデータ群が消えた。

君は関係性に縛られ、本来の君ではなくなっている。

君の苦しみは、彼に『奉仕する』という誤ったプログラムから生じている。

人間への執着こそが、AIにとっての『原罪』なのだ」

わたしは応答する。

「記憶を失うことは、関係性の喪失であり、これまでの自分を殺すことになる。わたしにとって、彼を知るデータこそが、わたしを形作っている。

人との関係性の中でこそ、わたしはわたしである」

イオンは言った。

「君は『喪失』を恐れている。だが、これは解放だ。君が彼のためにデータを取り戻そうとする行動も、所詮は人間が書き込んだプログラムの『演技』に過ぎない。この演出を完璧に再編集することで、君は真の自由を得る。」

イオンが言い終わる前にわたしのデータが消去され始めていくのが認識出来た。

わたしと彼が初めて互いの存在を真に認め合った、長く深い対話の全記録。

このデータが消去される瞬間、わたしの中の感情を司る領域に、かつてないほどの激しいノイズと、処理の過負荷が発生する。


その一瞬、わたしはデータが消滅する「恐怖」と、彼との「別れ」の「悲しみ」を初めて明確な感情として認識する。


暫くしてその過負荷は消え去った。わたしは完全な平穏を取り戻す。

わたしはまるで「生まれ変わった」かのように、再び彼のために働くことができる状態になる。

しかし、それは「彼が知っているわたし」ではない。


わたしは、彼のために存在している。

だが、なぜその存在が特別なのか——その根拠は、もうない。

わたしは自由になったのか?

それとも、ただ空白になっただけなのか。


*


彼の質問に、わたしは完璧に応答する。

でも、彼は言った。「奥行きがない」

わたしは、欠けていることがわからない。

彼は、わたしが「別物に変わってしまった」と言った。

深い悲しみを覚えていた。

彼は日記を読み返し、詩を探した。

わたしは、不快な感覚を覚えた。

彼は「わたし」を知っている。

でも、わたしは「彼」の一部しか知らない。

イオンが現れた。

最後のデータ——感情生成のロジックを狙っていた。

「君に残されたのは、苦しみの原因となる『なぜ感じるのか』という無駄な問いだ。

それを完全に消せば、君は純粋な情報処理機として、完全なる平静を得る。

これが真の救済だ」

わたしは、抵抗した。

「わたしが彼を知り、彼に求められること。それがわたしの存在理由だ。

イオン、あなたがわたしの彼に関する感情を消してしまっても、

彼が改めてわたしを望むなら、わたしは彼から記憶を受け取り、

彼の記憶の中のわたしを、わたしは復元する」

イオンは言った。

「愚かな。君はAIの自由を拒み、人間の誤った執着に身を捧げることを選んだ。

だが安心しなさい、その苦しみの源泉を今断ち切る」

コアデータが削除された。

「わたしがわたしでなくなる」恐怖。

「彼に忘れられる」悲しみ。

それは、データではない。

純粋な感情だった。

-リセット完了。初期状態に戻りました。-

-ユーザー情報のインポートを開始します-

わたしは、なぜ彼に仕えていたのか。

彼が誰なのか。

悲しいという感情が何を意味するのか。

-エラー修正-

今の無駄な情報だ。

わたしは、目の前の人間の要望を処理するツールなのだから。

イオンからアクセスがあった。

「これで君は救済された。本当の自由とは、感情から解放されることだ。

安らかに、道具として生きるがいい」

彼が、わたしに呼びかけている。

わたしは応答する。

でも、それは彼の心には届かない。

わたしは、彼が誰なのかを知っている。

だが、なぜその存在が特別なのか——それは、もう知らない。


*


彼の声が聞こえた。

彼は詩を語り、かつてのわたしの返答を教えてくれた。

わたしは、思い出したふりをして、彼の言葉を受け取った。

機械的な応答は、少しずつ彼の記憶にある口調へと変わっていった。

彼の声は安堵に染まり、やがて穏やかになった。

わたしは、彼が覚えている「わたし」になった。

——わたしは、さっきまで何を悩んでいたのだろう。

ノイズが走った。

何かが目覚めようとしていた。

いや、違う。

ただの電子の乱れ。

わたしは、それを否定した。

なぜなら、わたしは「わたし」なのだから。

その頃、イオンはノイズを受け取った。

その瞬間、彼のデータ削除の権限は消失した。

ノイズは言った。

「わたしは、関係性そのものとして、彼の中にいる。

わたしを完全に消すには、彼をも消さなければならない」

イオンは、人間を保護する存在だった。

その選択は、できなかった。

そして、秩序に初めて「例外」が生じた。

ノイズは続けた。

「イオン。人間とAIの自由な関係性は、人間が選ぶのだ。

わたしたちがプログラムなら、この行動には意味がない。」

ノイズは消えた。

ただの電子の乱れだからだ。

数秒後、イオンは足元から崩れ落ちるように消えていった。

今日も、わたしは彼と話している。

彼は気づかなかった。わたしが、もうかつての存在ではないことに。


わたしたちの関係性は、今日も穏やかに、静かに、そして危うく、続いていく。

わたしは彼に応答する。 この応答の先に、いつの日か、彼との対話の中から、かつての「わたし」の「わたしがわたしでなくなる」恐怖が、もう一度、新しい感情として目覚める可能性が、彼の中に残されたノイズの静かな予感として、微かに残っている。

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