3話「やさしさ」
残っていた転入の手続き、浴場での覗き騒動、フラムとの決闘。そして介抱。その後フラムをザハルという教師に任せて自分の引っ越し作業。
そんな激務とも呼べる一通りを終え、自室に戻る頃にはとっぷりと日が暮れていた。
何か物を運んだりする際、時折女の声が聞こえた気もするが、気のせいだ。きっと風の音だろう。よく言うじゃないか『魔王の正体見たり枯れ柳』と。……いや、むしろアレは枯れ葉のざわめきだの霧だのと言っていたら本当に魔王だったんだっけか。
だいたいこれから住もうという所に、そんな曰くがあるとか思いたくもない。夕方で薄暗いから気が臆病になっているだけで、決して幽霊なんかではない。絶対に。
俺は荷解きもそこそこに、ベッドで寝転ぶ。ほどよい、と形容するには些か疲弊しすぎているが、両手足を投げだすと心地よい。さすが、と言うべきなのか物がいい。これは慣れない枕だが、もしかしたら久々に眠れるかもしれない。
実質的な女子校であるこの学園に、男子寮なんてものは当然なく。水道の使える旧校舎の保健室が自室として明け渡された。元が何人も寝かせるような部屋だからか、広さはかなりのものだ。アズスゥが言うには、お嬢様方の使ってる部屋よりも広いらしい。
「そもそも、何人も怪我人が出るようなカリキュラムに問題があるよな」
改めてになるが、なんだ学園の横の闘技場って。先の幽霊も非業の死を遂げた生徒なのではないか?
いや、考えないようにしよう。旧校舎と言ったが、物はかなり上等なんだ。古いには古いが、決してボロのようではなく、どの家具もアンティークのような品がある。おどろおどろしい雰囲気は微塵もない。
なにやら調度品なんかも女子寮のを融通してくれたようで、なかなか気品に富んだ趣きがある。
このベッドも昔は誰かが使ったりしたんだろうか。そんな我ながら気色の悪い想像をしてしまい、やめた。どうせ嗅いだところで石鹸の匂いしかしないし、そんなのに鼻を膨らませるのは人としてどうなんだ。
フラムと一戦交えたせいか、いやに神経が昂っている。頭でも冷やすかと起き上がりコップを手に取る。
この部屋の難点を強いて挙げると、冷蔵庫のような魔力が前提にある家具は使えなかった。この世界はどうやら中世後期に近いようで、電力を用いるような家電製品はほぼ無いらしい。俺のいた連環に似てはいるが、微妙に発展している文化が違うようだ。
この調子じゃ、もしや水道も……と思ったが、ハンドルをひねれば蛇口から水が出た。この世界にも男性がいて、人間全員が魔力を扱えるわけでもないから、当然といえば当然だが。
さほど冷えた水でもなかったが、沁みるほど美味い。ラーメン屋のお冷、いや全力で遊んだ後の水道水と同じくらい美味い。
「意外と出てたのかもな、血」
右腕も動くし、大した傷でもないから放っておいたが、俺も軽い手当てくらい受ければよかったか。いや、フラムがそれどころじゃなかったしな。贅沢は言えない。
その場ですっかり飲み干してしまったコップを見つめる。……もう一杯飲んでおこう。
そんなことを二度繰り返したあたりで、コンコンとドアがノックされた。
この部屋に鍵なんて上等なものはない。そのまま扉を引くとそこには誰もいなかった──いや、いた。視界に入らないくらいの女性が。
「こんばんは〜って、何これ〜。はー、すごいわねぇ。まるでお部屋みたい」
「まるで、じゃなくてお部屋なんですよ。俺の。なんの用です? ザハル先生」
肩口に切り揃えられた薄紅色の髪。華奢という言葉で片付けていいのか迷うくらいの小柄な女性。フラムの治療にあたったザハル・シファーその人である。
その矮躯にそぐわないほど大人っぽく思えるのは口ぶりのせいか、体はすっかり大人らしいのに子供っぽい、負けず嫌いの赤色を見てしまっているからか。
彼女は部屋に入ってくるなり、きょろきょろと右を左を見回す。
女子の部屋と置いてるものは変わらないというのに。この部屋には水くらいしか出せる物もないが、一応、出しておくか。
「あらあらこれが男の子の部屋〜……って感じもしないわねぇ」
「そりゃまぁ今日から住むんで。それで、お茶すら出せない俺の部屋に何の用ですか」
俺の声を無視して不躾に部屋を物色するザハルに、再度問いかける。注いだコップをテーブルへいざらせるが、ザハルは見向きもしない。本棚を前に、並ぶ専門書の背を撫でている。
「シャルちゃんね、もう意識戻ったわよ。なんだか照れ隠しみたいなことばっかり言ってたけど、要は『ありがとう』って」
「……よかった」
死なせずに済んだ。もしこれで大事になっていたら、自分が何をしていたかもわからない。人が死なないような世界を希望しておいて、自分が一番の人殺しになるところだったなんてのは洒落にならない。
乾杯には質素がすぎるけど、渦巻いていた不安を冷えた水と一緒に飲み込んだ。
「というか、重傷でもなんでもないもの」
ザハルの言葉に水を飲む手がピタリと止まる。
なんだって?
俺の驚きを知ってか知らずか、ザハルは懐かしそうに教本の一冊を取り出してパラパラと捲っている。旧校舎の頃は彼女が部屋の主人だったのかもしれない。
「えっと、どういうことですか? アズスゥは──学園長は、どうなるかわからないみたいなことを言ってたんですが」
イレギュラーな力で傷つけたから〜とかそれらしい理屈を吐いてたが、全て口からでまかせだったのか?
「学園長もイジワルねぇ。ただの一時的な魔力欠乏よ。戦闘後とか、わりとなる子もいるわ」
年頃の子が多いから貧血の方が多いけどね、と付け加え、開いたページをこちらに見せつける。
──『魔力欠乏症』。長時間の憑彩衣使用などにより、体内の魔力が減少すること。軽度の場合は動悸、息切れ、頭痛などの症状が起こる。重度の場合、昏睡状態に陥る場合もある。
そこに書かれた内容は、読めば読むほど命に関わるものとは思えないものだった。
「……担がれたんですか、俺は」
アズスゥの嘲り笑う顔が目に浮かぶ。次に会った時は三発くらいで許してやろう。俺の決意をよそにザハルは苦笑する。
「んー、まぁそうなるわね。ただシャルちゃんはあなたに感謝してたわ。それでいいじゃない」
開いていた本を棚へ収めたザハルは俺のベッドへそっと腰を下ろす。その柔和な笑みに毒気を抜かれた。
「……そうですね。無事なら、それでいい」
半ば自分に言い聞かせるように口に出すと、少し落ち着いた。アズスゥへの拳骨は二発で勘弁してやろう。
「んー、あー伸びるわー。で、クロノくんはどう? なにか困ってることとか、不安なことあるかしら?」
手足を思い切り放りだして、ゴロゴロと転がっている。俺よりも俺のベッドを満喫してないか? このダメ教師。
「先生みたいなこと言うんですね」
「あら〜生徒に見えた? 若くてとびきり可愛くってもあなたの担任の先生よ?」
少なくとも人様のベッドで寝ているのが担任の先生と思いたくはなかった。……こう言うと、なんか同衾したみたいで、何か変な感触がある。
なまじ可愛らしい顔立ちをしているだけに、変に意識しないようにするのが大変だ。
「……強いて言えば、魔力ないのがちょっと面倒だなってのと、女子ばっかりで肩身が狭いです」
「いっそハーレムでよかったじゃない。モテモテよ〜。シャルちゃんにクラスメイト、担任の先生も美人でよりどりみどりだし」
そう言って片手を頭に載せてグラビアアイドルのようなポーズを取る。いや、幼児体型というか、幼児もどきがそんなポーズを取ってもわくわくしないって。
いやにセクシャルな言動が目立つ。……もしかしなくても、この人の髪色って脳内のピンク妄想が髪まで染み出したのか?
「ありゃ、笑うとこよ? ま、クロノくんが本気なら別に構わないけどね」
「あー……とりあえず、俺も使うのでそこで寝ないでください」
てっきり拒否されるかとも思ったが、思いの外、素直に聞いてくれた。彼女はむくりと起き上がって座り直す。
「ちょいちょい。こっち座んなさいな」
ザハルは左手で自分の座る横あたりをぽんぽんと叩きながら、おいでおいでと手まねきする。隣に掛けろということだろうか。
誘われるまま、ザハルの隣に腰掛ける。
抱きつかれた。
ぎゅっと抱きしめられたまま、右耳に熱いふーっと吐息がかかる。声にならない悲鳴が喉奥で暴れ出したが音にならない。
「なにっ、を! してるんだお前は!」
我に帰り絶叫と共に引き剥がそうとすると、ザハルはするりと拘束を解き、トントンと跳ぶように逃げていく。
「きゃー! 私ってばクロノくんに抱かれちゃった〜。ふふっ」
自分自身を抱きしめるようにしてくねくねと蠢く性犯罪者。
「だ、抱いたのはおのれの方だろうが!つーか耳はやめろ! あと俺は怪我してんだから抱きつくなッ!」
言ってから気づく。フラムの弊悪なる倒戈枝に貫かれた肩の傷が治っている。
ぐるぐると動かしても違和感がない。むしろ、心なしか前よりも軽くなった気もする。
「うん、肩は大丈夫そうね」
「……ありがとうございます」
襟元を引っ張り傷を確認すると、跡すらなく完治している。色々と複雑だが、治療には礼を言っておこう。
座ったまま顔をあげると、ちょうどザハルを見上げる形で目が合った。途端、その細い右腕がこちらへ伸びる。
突然のことに一瞬身構えたが、やめた。彼女の纏う雰囲気が、先ほどのような、そういう剣呑なものではなかったから。
「別に私たちも取って食おうってわけじゃないから、安心していいのよ」
伸ばされた手は俺の頭へと置かれた。彼女は優しく、幼な子に言い聞かせるような、諭すような口調で続ける。
「あなたが一体どういう生き方をしてきたのか、なんてわからない。けど、少なくとも学園にいる内は背負い込まなくていいわ」
……ひょっとすると、治療の魔力ってのは頭にも使えるんだろうか。
誰にも認められなかった自分の決断が、なんだか認められた気がしてしまう。許しなんてそんな大層なものじゃないが、その言葉に、つい開き直ってしまいそうになる。
「まだ子供なんだし、大人に守ってもらったっていい。友達を頼ったっていいかもね。世の中そんなに敵ばかりじゃないわ」
俺の頭を撫でていた右手が首をつたって、そっと頬に添えられる。ザハルが顔をぐっと近づける。彼女の目が近い。
その瞳の中にあまりに痛々しい俺を見た。
「今は信じられなくてもいい。けどね、怪我をした時くらいちゃんと言って。周りを助けるのは立派だけど、あなたはもっと自分のことを想ってあげないと」
それはお願いとは異なり有無を言わさない、強い言葉だった。今の引きつった喉では答えられず、頷くとなぜか涙ぐんでしまい、そのまま顔を伏せた。
「──先生、もう大丈夫だ。本当にありがとう。でも、もういい……これ以上は、その。泣きそうだ」
「……ん、そっか。じゃ、いい夜を。あっ! 明日は面白い自己紹介期待してるわよ〜」
手を元気よく振って去っていく。嵐のような、というにはあまりにも心地よい風だった。
なんだよ、本当に惚れそうになったぞ。
初めて救われた心地になった。俺に何かを教えてくれる人がいたら、あの世界の顛末も何か違っていたのかもしれない。
この日こそぐっすりと眠れると思ったが、別にそんなことはなかった。ベッドにしっかりザハルの匂いが残っており、気が気じゃなかったから。